土地区画整理事業
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土地区画整理事業(とちくかくせいりじぎょう)は、日本においては土地区画整理法(昭和29年法律第119号)によって、「都市計画区域内の土地について公共施設の整備改善及び宅地の利用の増進を図るために行われる、土地の区画形質の変更及び公共施設の新設又は変更に関する事業」である。土地区画整理法自体はドイツの法律やその他の法律を参考に造られた制度であるが、国内で主に発展してきた。災害復興や駅前整備、郊外の宅地造成など多くの活用実績があり、「都市計画の母」とも呼ばれ、日本の市街地整備における大きな役割を果している。
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[編集] 区画整理の仕組み
1931年(昭和6年)の耕地整理法改正によって都市部における宅地化を目的とした耕地整理は禁止されたが、都市計画法が適用されない地域は土地区画整理事業が実施できない。この耕地整理法改正の趣旨は、耕地整理施行認可の地方長官、つまり道府県知事の権限で農商務省や県の農政のための補助金を使用して宅地化することは目的外使用である、ということだったので、法改正後は事業者が自らの買収済み土地を宅地化し耕地整理を実施することがしばしば見られた。
1949年、耕地整理法は廃止され、1954年、現行の「土地区画整理法」が公布された。ただし第三条第4項で、「旧組合は、前項の規定により新組合となろうとする場合においては、総会の議決を経なければならない。この場合においては、総会の議決は、第十条の規定による改正前の都市計画法第十二条第二項 において準用する旧耕地整理法(明治四十二年法律第三十号)第五十条 の条件を備えなければならない。」としている。
日本では都市計画法と耕地整理法の二人三脚で区画整理事業を施行してきたが、過去には頑なな耕地整理(農地側)と宅地開発はうまく整合しないで困っていたようであるらしく、現代でも建設と農政が二重投資をしていると会計検査院から指摘を受けたり、農業投資をしてきたのに生かされていないと指摘されたり定まらないでいることがある。その後国財源で実施される土地区画整理事業である都市改造事業が創設される。この事業では地区内の公共施設整備、特に道路整備に重点がおかれ、1956年から開始される道路整備五ヵ年計画で、未開通道路整備に力点が置かれていく。
[編集] 適用例
適用例として、駅前広場やアクセス道路を整備するもの、山林や農地などを宅地化するもの、既成市街地内の低未利用地を集約化するもの、工場閉鎖後などの大規模跡地を開発するもの、道路幅員の狭い既成市街地を再編しようとするものなどがある。
当初は災害復興を中心に公共団体施行で実施されている。1921年(大正10年)の四谷、浅草地区の大火復興が東京市の施行で行われている。1934年(昭和9年)の室戸台風による被害の復興に際しては、兵庫県尼崎市施行の大庄地区、堺市施行の三宝地区等の事業が大規模に行われている。明治初期から北海道函館市は大火が相次ぎ、「市区改正順序」を定めて幅員12 間(22m)の大通りや小路6間の整備と沿道での石造煉瓦造土蔵や社寺の移転等を実施し、1879年(明治12年)12月の大火後でも幅員20 間(36m)の道路、不燃化への融資等を実施しているが以後1899年(明治32年)、1907年(明治40年)、1913年(大正2年)、1916年(大正5年)、1921年(大正10年)と大火がありそのつど消防力の強化と防火道路整備、沿道不燃化促進が行われている。1934年(昭和9年)3月21日焼失面積400ha、焼失2万4186戸、死者2716人を出す火災が発生した際に北海道庁、内務省は16日後「復興計画案大綱」を決定する。土地区画整理事業による街路整備はもちろんのこと緑樹帯(幅55m 6路線と直行する36m幅1路線)を配置して市街に防火ブロックを形成し要所に公園や耐火建築(小学校)を配置した。路線沿いの防火地区指定と不燃化促進、消防用の水利強化、避難広場となる公園の整備など、体系だてて防災を重視した都市復興を計画した。函館の夜景はこの防火帯街路照明が織り成す光の帯である。この大火災惨事からの復興は道庁の都市にかかわる職員ほとんどと全国からの技術者の応援を得ながら実質は市が施行者になる10の組合を結成し実施していくが、これは実はこの時点まで事業計画認可後すぐの公共団体施行は認めてなく、やむなく組合施行とした。函館大火の復興はある意味ではそれまで何度となく大火を経験していた函館市にとって復興の総仕上げであり、いわば復興文化ができていたという言い方もされている。 復興事業で活躍した技術者は、戦後最大の土地区画整理事業を適用した戦災復興都市計画の中核として活躍することになる。
ほかに復興事業をあげると、関東大震災(3400ha)と静岡大火(1940年、100ha規模)がある。1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災による甚大な被害を復興するため、同年に発布された「特別都市計画法」では、帝都復興の事業として土地区画整理事業を主として用いることとした。その後各地の戦災復興(27900ha)に利用されているが、この中には山手線の主要な駅前広場の殆どが含まれている。1940年(昭和15年)1月15日静岡市で昼間の大火が発生し中心部のおよそ100haが焼失した静岡大火では、静岡県は16日中に内務省関係者と連絡をとり復興に着手し1月19日「静岡市火災地区バラック建築規則」により建坪を制限して2月2日の都市計画地方委員会に土地区画整理と公園、街路、駅前広場、防火用水利施設を軸とした計画を提案し、2月14日に告示された。計画では恒常風の直角方向に36m幅・幅員30m道路2路線を配置している。36m道路は中央に幅18mの植樹帯を置き両側に9m幅の車道をとり,植樹帯中央には幅3m深さ2mの水路を貫流させたほか市街地建築物法の緩和をとりやめ防空建築規則を適用して防火改修を督励したほか、墓地移転と上下水道、電力等の復興事業もあわせて行われた。このとき防火改修を進めるパンフレット発行と現場での指導、静岡市復興建築奨励金の給付なども行われている。
戦後でも大火災による被害の復興に際して行われている。
1947年(昭和22年)4月20日午前11時40分頃長野県飯田市の市街地南部から出火し、春の南西風のもと罹災面積約60haの大火となった飯田大火では、翌21日早朝から復興への取り組みが始まり、「飯田市火災復興都市計画事業」が当日の協議により決定した。それを罹災区域関係連絡員に発表し、実施測量を行い完了しようとしたとき突如進駐軍司令部から幹線道路の幅員拡張が指示される。市と議会では中央通り他2路線の拡張と、錦町線など2路線の道路後退をもって了解してもらい、復興計画を確定。全面的な土地区画整理のほか、段丘の突端の公園又は緑地を設置し、三本の防火帯と中央に防火用水用に水路並びに貯水槽を設置する。用水・貯水池の整備、街路・公園等の公共地は市街地面積の25%程度で劃地の裏界線を連続させ幅2mの通路を設けるなどの計画を策定している。当時は占領軍の支配下にあり、計画通り進行したが、有名な「りんご並木」の中学生たちの活動は1952年(昭和27年)から始まる。
1950年(昭和25年)4月13日午後5時15分市中心部の東端、海沿いの東町渚から出火した熱海大火では温泉街中央部10.1haと市役所庁舎が焼失。当時の市長の宗秋月は市会議員全員をつれて国会にいき、大臣室を借りて市議会を開くなど苦心して復興計画をつくる。市街地全体13.7km²を都市計画区域にし、土地区画整理を罹災区域の中心部約13.2haと駅前地区同1.0haに計画した。甲防地区にT字状延長420mの銀座通りと海岸通りを設置、道路の中心より15mを防火帯とし耐火建築促進法を適用し、ほとんどの市街地に準防地区を指定した。銀座通りは当初は幅員は15m・沿道準防火で計画したが土産物店舗街で拡幅への反対もあり、幅員は9m・沿道甲防地区とする。同じ年の8月1日「熱海国際観光温泉文化都市建設法」が公布される。熱海は明治以降大火はなく戦争中も空襲は受けなかったためか戦後も進駐軍の行楽や遊覧客も増え賑わっていたが、温泉旅館などの木造建物が密集していた。替地がなく道路の拡張と新設が予定通りいかなかったことや火災後も和風木造建築にこだわりがあったこと、中心部に緑地帯を確保できなかったこと、銀座通り幅員9mでは歩道もないことなどにより、復興は部分的・対処的であったという意見がある。
1952年(昭和27年)4月17日午後2時55分鳥取市の最南端、鳥取駅近く市の南端の市営動源温泉付近から出火しておきた鳥取大火では蒸気機関車の飛び火が原因とされ、フェーン現象下の強風にのって市 街地を焼き尽くし罹災面積50万坪(165ha)という被害をだしている。翌4月18日午後3時には建設省から計画局長以下が到着し鳥取県・市と協議して「鳥取市火災復興対策要綱」を定めている。復興計画の方針は(1)約55万坪の土地区画整理事業の実施(2)若桜街道と袋川を防火線路に市内を4分割(3)墓地移転と墓園公園造成、(4)官庁,学校等の不燃化 などを3か年で事業を行うものとしている。認可前であったが土地区画整理に向けてすぐさま基本測量を東京の測量会社に発注し換地設計についても兵庫県と東京の会社に委託、各社は数十名動員して作業に入った。大火後1週間ほどの調査結果をもって、1952年(昭和27年)4月26日付けで都市計画鳥取地方審議会に付し、5月2日には建設大臣の告示を得て県市に施行命令が出された。その後、バラック立ち退きと焼け跡ビルの措置、訴訟など苦労が多々あったとされている。この事業で有名なのは「防火建築帯」の整備で、街道と川で市内を4ブロックに区画し、沿道不燃化を図った。これは「耐火建築促進法」による防火建築帯造成事業の第1号でもあった。鳥取火災の復興は1943年(昭和18年)鳥取地震の復興の反省から円滑に進んだようである。
1955年(昭和30年)10月1日午前2時55分、新潟県教育庁木造2階建てから出火した新潟大火では台風の強風にあおられて市街地5.8万坪19haが消失した。建設省は,当日10月1日4名の技官を派遣し、2日には県市をまじえて土地区画整理を主にして防火建築帯などを含む方針を提起した。3日には建築基準法84条による建築制限をかけ、4日には議会等の協議もへて基本方針が決定した。土地区画整理で街路網の整備と水路の埋立による街路・緑地帯整備のほか墓地の整理による公園確保、防火水槽の設置などの事業計画をたて11月21日には大臣認可を得た。その後事業が展開されたが紛糾したのは墓地の移転と公園化で、1957年(昭和32年)9月10日に半数の寺院が折り合い改葬公告がだされている。
1956年(昭和31年)には能代市・芦原町・大館市・魚津市など大火が相次ぎ、いずれも土地区画整事業を主とした復興が迅速に行われた。なお能代市は1949年(昭和24年)にも83ha焼失し、1956年が31.5haを焼いた。この後能代市は非焼失地も含め土地区画整理事業を推進した結果今日市街地面積のほとんどが基盤整備された街になっている。
1976年(昭和51年)10月29日17時40分頃に酒田市の繁華街の一角の映画館から出火した酒田大火では15.2haが消失。残火がくすぶる31日早朝から市役所において建設省と山形県、酒田市都市計画課などが一体となって復興都市計画の作業が開始され、徹夜作業の末に火災3日後の11月1日夜半復興都市づくりの計画概要が完成させた。この復興計画の原案は酒田市都市計画審議会の了承をえたあと1週間後に市民に公表された。「防災都市の建設」をめざしたもので、幹線道路の整備、近代的な魅力ある商店街の形成や住宅地の生活環境の改善などをあげているが全体には土地区画整理事業をかけ、商店街には商店街近代化事業の制度を利用し、建物を道から1.5mのバックとひさしを1.5m市道に出し歩道を広くし、全国に例を見ないショッピングモールが完成したほか、西側の街区の面積約1.2ha は市街地再開発とし、1977年(昭和52年)4月21日に準備組合を発足させ12月に着工する。こうして迅速な復興都市づくりが行われたが自動車の普及や経済環境の変化によって、まもなく中心部の商業不振と郊外化という流れが押し寄せている。
また阪神・淡路大震災等の復興に際しても土地区画整理事業が行われている。
復興事業以外では、戦前では新興工業都市の計画や軍都計画(神奈川県相模原市の事業が当時最大規模)に際して、また駅前等整備の公共団体施行などは東京市が、1930年(昭和5年)から1943年(昭和18年)にかけて、郊外全域に幅員8m~15m、総延長146kmの生活道路網を都市計画決定し、土地区画整理事業を奨励する。これにより郊外電車駅の駅前広場を含む駅周辺の整備や、練馬区平和台、氷川台地区などにおいて細街路網の整備が進んだ。そのほかは耕地整備が主で、組合を設立し事業を実行していく。結果事業に尽力した人々の努力により道路が整備され整然とした街並みができていくことになる。組合が土地を買い上げ整備後、所有者に売り渡すという方法が多く取り行われた。大阪市では大阪駅前の約4haの狭隘な駅前地区において駅前広場の造成と過小宅地の整理によるビル用地整備が行われる。1937年(昭和12年)以降になると戦時体制下の国土計画に基づく地域開発手段として新興工業都市建設事業や駅前の再開発に土地区画整理事業がいっそう活用され、公共団体施行が増加していく。ただし、1954年(昭和29年)に「土地区画整理法」が制定される前のこうした事業では、旧都市計画法により耕地整理法を準用して土地区画整理を実施していた。
1949年のシャウプ税制勧告により翌年に地方税法が改正され、都市計画税がいったん廃止された後、1956年4月地方税法改正で復活したが固定資産税のみに付加されたため徴税範囲が狭まり有力財源と成らなくなる。このため、1956年3月の道路整備特別措置法と1958年3月の道路整備緊急措置法で制度化された揮発油税と道路整備特別会計が都市整備の有力財源となった。1957年7月建設省計画局長通達「都市改造事業について」で都市改造事業基本方針を定めているが、5ha以上の地区内における幅員11m以上の街路整備を目的として、土地区画整理事業を施行されることとなっている。こうして、都市改造事業が制定されてからは、1956年に第二阪神国道(国道43号・浜手幹線)整備のために浜手土地区画整理事業と東京駅八重洲口駅前広場のための八重洲口周辺整備事業による広場整備が開始されている。1957年から博多駅周辺地区や名古屋駅西口地区など4地区が採用されて以降、国費によって道路整備中心の土地区画整理事業が行われていくことになる。
大正の旧都市計画法以来、2004年(平成16年)度末までに、1万1808の地区で39万4484haの事業が行われている(事業施行中含む)。[1]
[編集] 用語の意味
宅地や公共施設等、法律による定義は、日本国内の法律においても異なる場合があるので用語を使用する場合には注意のする必要がある。
[編集] 制度の仕組み
[編集] 施行者
土地区画整理事業を施行する者(施行者)は、以下の通り法定されている。
- 宅地について所有権若しくは借地権を有する者 - 個人施行者
- 宅地について所有権若しくは借地権を有する者の同意を得た者 - 同意施行者(都市再生機構、地方住宅供給公社など)
- 土地区画整理組合
- 区画整理会社
- 都道府県及び市町村
- 国土交通大臣
- 都市再生機構
- 地方住宅供給公社
土地区画整理組合は、土地所有者または借地権者7人以上からなり、都道府県知事の認可を必要とする。
区画整理会社は、土地区画整理事業の施行を主たる目的とした株式会社であり、都道府県知事の認可を必要とする。
[編集] 換地計画
施行者は、施行地区内の宅地について換地処分を行うため、換地計画(かんちけいかく)において以下の事項を定めなければならない。
- 換地設計
- 各筆換地明細
- 各筆各権利別清算金明細
- 保留地その他の特別の定をする土地の明細
- その他国土交通省令で定める事項
清算金は、従前の宅地と換地の不均衡を清算する金銭をいう。
保留地は、土地区画整理事業の施行の費用に充てるため、換地として定めない一定の土地をいう。
[編集] 仮換地の指定
施行者は、換地処分を行う前において、工事または換地処分を行うため必要がある場合においては、施行地区内の宅地について仮換地を指定することができる。
仮換地が指定された場合、従前の土地の使用収益権者は、換地処分の公告があるまで仮換地の使用収益ができるようになり、従前の土地の使用収益権を失う。一方、仮換地の使用収益権者は、公告があるまで使用収益できないこととなる。
[編集] 換地処分
換地処分は、関係権利者に換地計画において定められた関係事項を通知してするものとする。そのうえで、都道府県(または国土交通大臣)が公告をおこなう。
換地計画において定められた換地は、その公告があった日の翌日から従前の宅地とみなされ、所有権等が移転し、清算金が確定する。また、保留地を施行者が取得する。
[編集] 減歩
道路、公園などの公共施設の整備のために必要な公共用地と、事業費を生み出すために必要な保留地は、地権者から土地の一部を提供させることにより確保する。これにより土地が減少する事を減歩(げんぶ)と呼ぶ。(ただし土地区画整理法には、下記の照応の原則を定めるのみで、減歩という用語自体は無い。)
減歩には、公共用地のための減歩(公共減歩)、保留地のための減歩(保留地減歩)があり、両者を合計したものを合算減歩と呼ぶ。
[編集] 換地
換地は、換地とその従前地(施行前の宅地)の位置、地積、土質、水利、利用状況、環境等が照応するように定めなければならないとされている。これを照応の原則と呼ぶ。ただし、この照応とは、各諸事情を総合勘案して、換地とその従前地が大体同一条件にあり、換地相互が概ね公平に定められることをいうものと解釈されており、全くの同一条件で換地するという意味ではない。ここから、照応していれば地積が減少することもあり得るところから、土地区画整理法上の明文の規定は無くとも減歩を課すことは可能とされている。
[編集] 清算金
換地を定める際に、計算上の換地面積(権利地積)どおりに換地を過不足なく配置することは技術的には不可能であり、換地相互に多少の不均衡が生じる。その不均衡の是正は、実際に換地した土地の評価と計算上交付すべき土地の評価の差を金額換算した清算金の徴収または交付によって行われる。
[編集] 最近の事業の動向
戦後からバブル期までの土地区画整理事業は、特に組合施行においては、日本の高度経済成長という社会情勢下で、純粋な事業効果よりも社会全体のインフレーションに伴う地価上昇に依存した安定した事業運営と権利者の利益傍受への期待から来るモチベーションにより発展してきたと言える。
しかしながら、バブル期以降の低成長期においては、デフレーションによる地価下落や保留地販売の不振の影響により、事業採算が確保しづらい状況となった組合もあり、経営破綻に陥った例もある。 これら組合においては、地権者からの賦課金徴収などの再建策が採られる場合があるが、実際の徴収は困難な場合が多く、特定調停や民事再生などの法的整理を申請した組合もある。 ただし、すべての組合が破綻しているわけではなく、適正な事業運営を行っている組合や昨今の地価回復傾向の影響により順調に進められている事業もまた多い。 いずれにしても、土地区画整理事業(特に組合施行)は、外的経済の影響を受けやすい収支構造を持っていると言え、低成長型の経済情勢下において、事業の仕組みを構築する転換期となっていると考えられる。
[編集] 資産価値に対する影響
施行者側からは「減歩により土地の面積は減っても、周辺の基盤整備が行われて土地の利用価値が増し、土地の価格も上昇するため、資産価値は減少しない。」という説明がなされる場合が多い。 しかしながら、事業外要因であるデフレーションなどにより、土地価格が下落し結果的に資産価値が減少する場合がある。 一方、事業内要因のみによっても整理後の宅地全体の資産価値が、整理前と比べて減少するケースもある(事業後も地価の上昇が見込めない地区の場合)。この場合、土地区画整理法第109条の規定により減価補償金を支払うことになるが、実務上、減価補償金で整理前において減価補償金を交付することに代えて、宅地を先買いする手法が使われる。先買いすることで各宅地の減歩は緩和でき、整理後の宅地の資産価値が、整理前より減少しないようにできると考えられている。
[編集] 浜松・上島駅周辺区画整理訴訟
浜松市中区の上島駅周辺土地区画整理事業において反対する地権者が同市に対して事業計画決定の取り消しを訴えた行政訴訟の上告審で、最高裁判所大法廷は2008年9月10日、事業計画決定は行政処分であるとの判決を下し[1]、「事業計画決定は行政処分とみなされず、取り消し訴訟も認められない」とする1966年(昭和41年)の最高裁判例を変更した。判例変更により、土地区画整理事業に対して早期に計画決定取り消しの訴えを起こすことができるため、事業計画にあたる影響が懸念される一方、早期の段階で司法の行政に対するチェック機能を働かせることができるようになる[2]。
[編集] 関連する制度
[編集] 土地改良
詳細は土地改良法を参照
[編集] 市街地再開発
駅前の密集地域などで街並みの整備を行おうとしても、敷地が既に狭小で減歩が困難だったり、借地権者が多数存在しており、権利関係が複雑化している場合がある。このため、比較的小規模な範囲で、中高層の再開発ビル(施設建築物)を建設し、その中に権利者を入居してもらうことにより土地の高度利用を図るという制度が考えられ、市街地改造法(1961年)、都市再開発法(1979年)が制定された。
[編集] 脚注
- ^ 最大判平成20年9月10日 平成17(行ヒ)397。
- ^ Kyodo News (2008-09-11). “Hamamatsu residents win rezoning challenge”, Japan Times. 2008-10-12 閲覧。

