ルーマニア革命 (1989年)
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| ルーマニア革命 Revoluţia română |
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革命勢力が用いた旗。当時のルーマニアの国旗から、共産主義を示す国章が切り取られ、穴が開けられた。 |
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| 戦争:東欧革命 | ||
| 年月日:1989年12月21日 - 12月26日 | ||
| 場所: |
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| 結果:共産主義政権の崩壊、 ニコラエ・チャウシェスクの処刑 |
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| 交戦勢力 | ||
| 反政府勢力 救国戦線 (ルーマニア国軍ほか) |
共産主義政権 セクリタテア |
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| 指揮官 | ||
| イオン・イリエスク | ニコラエ・チャウシェスク | |
ルーマニア革命(ルーマニアかくめい、ルーマニア語: Revoluţia română)は、1989年にルーマニアで発生した政変。別名:ルーマニア民主革命、ルーマニア政変。
目次 |
[編集] 概要
この革命は1989年に東ヨーロッパ各地で共産党政権が相次いで崩壊した東欧革命において武力が用いられ流血の騒ぎとなった唯一の革命である。国防相の処刑により軍が大統領に反旗を翻したことから武力衝突に陥り、革命勢力はわずか1週間で全土を制圧し、大統領のニコラエ・チャウシェスクを処刑した。
[編集] 前史
ルーマニアは他の東欧諸国とは一線を画し、ソ連とも一定の距離を維持する独自外交を行っていた。これはルーマニアが産油国であり、ソ連に依存しなくても独自に外貨獲得やエネルギー資源の確保が可能だったためである。こうした状況はルーマニアをニコラエ・チャウシェスクによる独裁国家に変えてしまう事を容易にした一つの要因ともなった。
しかしながら1980年代に入るとルーマニア共産党による一党独裁政権は国内の経済政策に失敗し、ルーマニア経済の疲弊が始まった。経済の落ち込みは国民の生活にも反映され、チャウシェスクの独裁政権に対しての反目も日増しに強くなった。こうした状況の中で、ベルリンの壁が崩壊し、東ヨーロッパ各国の共産党政権が次々と倒れたと言うニュースがルーマニアにも入ってくると、次第に革命(民主化)の機運が高くなっていった。
[編集] 革命の推移
| 東欧革命 |
| ポーランド民主化運動 |
| ハンガリー民主化運動 |
| 汎ヨーロッパ・ピクニック |
| ベルリンの壁崩壊 |
| ドイツ再統一 |
| ビロード革命 |
| ルーマニア革命 |
[編集] 発端
1989年12月16日 - ルーマニア西部の都市ティミショアラで民衆によるデモが発生。治安警察(セクリタテア)がデモ隊に発砲、多数の死傷者が出る(しかし、後になって、近所の病院の死体置き場から盗まれた遺体が現場に転がされていた、と言う噂が広まった)。
- このデモは人権活動家でハンガリー改革派教会の牧師テケーシュ・ラースロー(ラースロー・テケーシュ)への国外退去処分に対するマジャル人(ハンガリー人)による抗議デモであった。
- ティミショアラを含むルーマニア西部(バナート地方)はハンガリー国境に近く、1919年のオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊するまでハンガリー王国の領域であった。ルーマニアに留まったハンガリー系住民に対する政府の扱いは、あまり良いとは言えず、マジャル人であるラースローの国外退去処分への抗議とともに待遇改善を求めてデモを起こしたのであった。
[編集] 勃発
12月21日 - 首都ブカレストで官製集会の最中に爆発事件が発生する。
- ルーマニア共産党本部庁舎前の広場(旧王宮広場)で約10万人を動員したチャウシェスクを称賛する集会が開催された。チャウシェスクの演説が始まって間もなく、ティミショアラ事件に抗議するルーマニア人参加者が爆弾を2つ爆発させた(実行犯は警察により射殺)。(または10代の若者2人が爆竹を爆発させたと言う説もあるが詳細は不明なところが多い。)広場はパニック状態に陥り、集会は強制的に解散させられた。なお、この集会は国営ルーマニア放送(国営放送)で生中継されていたが、チャウシェスクの演説が始まった直後、群集がパニック状態になっている姿を見て、たじろぐ姿が映しだされているところで放送が中止された。(その後、放送は再開された。)
- 集会の参加者の一部に大学生・市民の一部が合流しチャウシェスク独裁の抗議集会へと発展した。しかし、この政治集会に対しても治安部隊が発砲、多数の死傷者を出す事態となった。軍隊も動員されたが市民のチャウシェスク政権に対する不満は頂点に達した。
- この状態に危機感を抱いたチャウシェスクは国防大臣ワシーリ・ミリャに対し軍隊による群集への発砲を指示した。しかしミリャはこの命令を拒否、チャウシェスクの逆鱗に触れ即日処刑された。翌日、国営ルーマニア放送は「国防大臣が自殺した」と報じたが事実はすぐ市民に知れ渡り、この事態は軍首脳が大統領に反旗を翻すきっかけとなった。同日夜には軍隊が広場に集まる市民の側に立ち、政府機関(ルーマニア共産党本部等)の占拠が始まった。
[編集] 崩壊
12月22日 - 革命勢力の攻勢は大統領宮殿にまで及び、チャウシェスクはブカレストから脱出し政権は崩壊、反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「救国戦線評議会」を組織し、テレビ、ラジオ局を掌握した。これにより「国営ルーマニア放送」から「自由ルーマニア放送」と改称される。
- チャウシェスクは非常事態宣言を出し事態に対応しようと試みるが、軍隊が革命勢力に参加したことで頓挫、妻のエレナと共にヘリコプターでの脱出を図った。しかし、一連の逃亡劇は反体制側に転じた自由ルーマニア放送他、世界各国のマスメディアで映像が流されるお粗末なものであった。その後、首相のコンスタンティン・ダスカレスクは辞任、内閣も総辞職した。チャウシェスク政権時に政権批判をし投獄されていた政治犯も釈放された。その後、夜になると、ブカレスト市内各地で反体制派の軍隊と大統領派の治安警察による激しい銃撃戦(市街戦)が発生。多数の死傷者が出る。
12月23日 - 前夜からの市街戦は更に激しくなっていく。大統領派は秘密の地下通路などを利用し国軍、市民への発砲を続ける。救国戦線評議会は発砲してくる大統領派を「テロリスト」と呼び市民に協力を要請、大統領派の掃討に出る。また市民も銃をとり大統領派に応戦する。混乱の為、情報が錯綜する中、ハンガリーから軍の派遣要請の連絡を受けるがこれを拒否。また、ソ連(ソ連軍)が事態の沈静化の為に介入するが、これも拒否する。そして救国戦線(国軍)によりチャウシェスク夫妻が逮捕され、午後6時、自由ルーマニア放送(テレビ)で報道された。
- 以前のソ連であれば、(比較的穏健派のフルシチョフが最高指導者の時代でさえ)こうした反政府クーデターへのソ連軍の介入は「問答無用」であり、相手国の受け入れの有無はソ連が後から「あったことにする」のが通例だった(例・プラハの春)。しかし、この当時にソ連の最高指導者であるゴルバチョフは、自らの新ベオグラード宣言による対外公約を守り、衛星国であった東欧の共産国に対しても強権を振るうことはほとんどなかった。
12月24日 - ブカレスト市内の市街戦は依然として続く。また、大統領派の逮捕も相次いでいく。
12月25日 - チャウシェスク夫妻は特別軍事法廷で大量虐殺と不正蓄財の罪により死刑判決を受け、即日銃殺刑が執行された。
- チャウシェスク夫妻が拘禁されていた軍事基地で秘密警察によるチャウシェスク奪回作戦が敢行され、激しい銃撃戦が展開された。当初は軍事裁判ではなく通常裁判を実施する予定であったが、秘密警察の抵抗でチャウシェスク夫妻の扱いを早急に結論付けなければならなくなった。
- チャウシェスク生存説が流布される事を恐れた救国戦線は、チャウシェスク夫妻の遺体を各国メディアに公開した。
12月26日 - 救国戦線評議会、新指導体制を発表。暫定政権樹立。同日、チャウシェスク夫妻の処刑が発表される。これを機に大統領派の抵抗も終息していく。
[編集] 革命後
チャウシェスクの処刑とルーマニア共産党政権の崩壊を受けて、暫定的な革命政権である救国戦線による政権運営が行われた後、1990年5月にルーマニアで初となる、多数政党制による自由選挙が行われ、政党に衣替えした救国戦線が勝利を収めた。また後に国民による投票としては初めての大統領選挙が行われイオン・イリエスクが大統領の座に付いた。
他の東欧諸国では、自由選挙の下で多かれ少なかれ旧共産党が議席を獲得した。しかし、ルーマニアでは、革命後に共産党が消滅し、非合法化された(後に撤回)。ルーマニア共産党関係者は、救国戦線に参加して、政治生命を保った。地下に潜伏中ではあるが、ルーマニア社会主義労働者党を名乗る勢力がチャウシェスク体制の復活を目指している。
1999年12月、革命10周年に当たって行なわれた世論調査によると、6割を超えるルーマニア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた。市場経済の停滞と失業者の増加により生活が悪化し、国民の不満が高まる中で、各地の工場や炭坑ではストライキが頻発。その参加者の中には、チャウシェスクの肖像写真とともに、「チャウシェスク、私たちはあなたが恋しい」といったプラカードを掲げる人も少なくないという。惨殺されるほど嫌われ恐れられた独裁者が、少なくとも最低限度の生活を保障していたことで、死後改めて評価されるという皮肉な展開となった。[要出典] しかし一方で、やはり共産・社会主義体制は過去の物と言う観点もあり、「我々はとりあえず自由を手に入れた。次は幸福を手にする番だ」というスローガンも見受けられる。
[編集] 関連項目

