亀田大毅
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 本名 | 亀田 大毅 |
| 通称 | 浪速乃弁慶 |
| 階級 | フライ級、スーパーフライ級 |
| 国籍 | |
| 誕生日 | 1989年1月6日(19歳) |
| 出身地 | 大阪府大阪市 |
| スタイル | 右ファイター |
| プロボクシング戦績 | |
| 総試合数 | 11 |
| 勝ち | 10 |
| KO勝ち | 7 |
| 敗け | 1 |
| 引き分け | 0 |
| 無効試合 | 0 |
亀田 大毅(かめだ だいき、1989年1月6日 - )は、日本のプロボクサー。大阪府大阪市西成区天下茶屋出身。右ファイター。ボクシング家族である亀田三兄弟の次男で、亀田興毅の弟であり、亀田和毅の兄である。父の亀田史郎がトレーナーを務めていた。血液型はB型。身長168cm。
WBAフライ級の世界タイトルを狙っていたが、同門の坂田健史が同級世界王者になった為WBAタイトル戦が困難となった。その後、2007年10月11日にWBCフライ級王者の内藤大助に挑戦したが判定の結果、大差で敗れた。試合後、試合中の反則行為などに対し多くの批判報道がされ話題になった。
目次 |
人物
- 自称「浪速乃弁慶」(なにわのべんけい)。その由来は「倒れないタフなところ」に憧れたもの。
- デビュー戦用のポスターには自ら武蔵坊弁慶のイラストを描いた。
- イラストが得意で、イラストレーター志望、ピアノ演奏や歌唱により音楽志望という報道がなされたこともある。
- プロライセンスの実技試験には、世界戦レベルの50人を超える報道陣が集まり、同日にパシフィコ横浜でデビュー戦を行った。
- 筆記試験では、「協栄」という漢字が書けなかったと告白している。
- 三兄弟の中では一番歌がうまいらしい。KO勝ちした場合、試合後、中継、興行の空き時間を埋めるために、リング上で歌いあげるパフォーマンスを行なっていた。そのため、敗北した場合は元より、判定決着の際も歌のパフォーマンスは行なわれなかった。
- 誕生日が1989年1月6日、つまり大変珍しい昭和64年生まれの著名人である。
- 2008年1月27日、都内で車を運転中、追突事故を起こす。その後、この事故に関して大毅は報道陣に「車はぶつけるもんやろ」と発言していたことが分かり、不謹慎であるとして金平桂一郎会長が厳罰を示唆した[1]。
- また1月27日に報道陣に対し「なんでかわからんが試合でられへん」と発言した。無論、これは内藤戦で違反行為をしたことによるものである。
来歴
小学生からボクシングを始め、天下茶屋中学卒業後はアマチュアの試合に出場し13勝(4KO・RSC)2敗。2004年(平成16年)5月に、史上最年少の15歳3ヶ月で全日本実業団選手権バンタム級優勝。2005年11月、協栄ボクシングジムに入門。2006年1月11日、B級ライセンス(6回戦)のプロテストに合格。2008年5月9日付けで亀田興毅と共に協栄ジムとの契約を解除される。二人は東日本ボクシング協会に協会預かり申請をしていたが、6月9日の理事会で要請を却下することを全会一致で決定。移籍先は現在未定、一部報道では8月に亀田ジムを設立するのではと報道されている[2]。
プロ来歴
- 2006年2月26日、対サマート・シットサイトン(タイ)1R23秒KO勝利
- 試合開始10秒、左フックによるKO勝利。対戦前に宣言していた「兄の興毅が記録した“1ラウンド44秒のKO勝利”を抜く」を実行した。
- 対戦相手のサマート・シットサイトンは日本ボクシングコミッションから2006年度の招聘禁止選手[3](来日成績が未勝利かつ、KO負けや無気力試合の末の大差判定負けが続いている選手──主にタイ人が指定される)であったが、指定された後の2005年12月にタイ国で1勝を挙げ、同国コミッションより「B級(6回戦)の試合の出場が適う」と推薦を得た上で日本での試合出場が認められていた(「ボクシングマガジン」2006年4月号より)。
- 「ONLY LOVE」(ハウンド・ドッグ)を歌う。
- 2006年4月17日、対サマート・ツインズジム(タイ)6R判定勝利(3-0)
- 連続KO日本記録更新を狙うと豪語していたが、早くも記録はストップ。
- 2006年5月5日、対キティポップ・サンディジム(タイ)1R1分30秒KO勝利
- 「ff(フォルティシモ)」(ハウンド・ドッグ)を歌う。
- 2006年8月20日、対ウィド・パエス(インドネシア)1R1分45秒KO勝利
- ウィド・パエスは当時インドネシアマイナー団体の現役王者。
- 試合後の勝利者インタビュー中、試合を八百長であると罵倒する観客の声がテレビ中継で収録されている。
- 「ロード」(THE 虎舞竜)、アンコールとして「Dear」(T-BOLAN)を歌う。
- 2006年9月27日、対バレリオ・サンチェス(メキシコ、当時WBC世界スーパーフライ級21位)8R判定勝利(2-0)
- サンチェスは当時36歳、34戦17勝勝率5割。試合はWBAのメンドーサ会長・役員も観戦していた。
- 試合後、判定内容を批判した観客と、別の観客および亀田史郎らとの間で揉み合いが発生した。
- 試合後、メンドーサ会長は、大毅の印象について、潜在能力があるが、経験が不足していることを指摘するコメントをしている。
- 2006年12月20日、対モハマド・サディック(インドネシア、当時インドネシアライトフライ級4位)1R37秒KO勝利
- モハマド・サディックは当時33歳、海外の好事家が運営するプロボクシング戦績データベースBoxRecで確認しうる公式試合記録は7戦0勝(won=0、lost=7(ko=3)drawn=1、という記録からは、8戦0勝7敗1引き分け)[4]
- 「いつかのメリークリスマス」(B'z)を歌う。
- 2007年2月24日、対ビッキー・タフミル(インドネシア、当時WBAライトフライ級4位)3R1分18秒KO勝利
- ビッキー・タフミルは当時32歳、33戦31勝10KO2分。ただし、以前「ボクシングマガジン」誌で、この戦績に懐疑的な見地からのレポートが掲載された事がある。
- 2Rにはスリップダウンの際に大毅からエルボードロップのような体当たりを喰らい、悶絶。これを戦意喪失と判断したレフェリーからダウンのコールを受けてから試合続行を拒否するような素振りを見せ始めた。果たして3R、大毅にボディブローでノックダウンされた際、タフミルは本人曰く「抗議のパフォーマンス」という満面の笑みを浮かつつ10カウントコールを聞いた。試合VTRで観戦していた興毅がタフミルを見て「何やコイツ!?」と声を上げ驚いていた。
- この試合の後に発表されたWBAランキングでタフミルはランキング圏外に陥落(WBAの公式見解によると、陥落の理由は「ノーランカーの亀田大毅に敗れたため」)。大毅は事務処理の手違いでランキング入りしなかったが、所属の協栄ジムからの指摘・抗議を経て翌月発表のランキングで世界10位に認定された。
- 「love song」(森友嵐士によるオリジナル曲)を歌う。
- 2007年4月30日、対クリストファー・テポラ(フィリピン、当時フィリピンスーパーフライ級12位)2R2分21秒KO勝利
- クリストファー・テポラ(フィリピン)は当時23歳、22戦9勝4KO8敗5分。
- 「ファンからの要望が最も多かった」として「道」(EXILE)、続けて「love song」を歌う。
- 2007年7月28日、対ファーペッチノーイ・クラティンデーンジム(タイ、当時WBCフライ級17位)10R判定勝利(3-0)
- 「love song」を歌う。
- 2007年10月11日、対内藤大助(WBC世界フライ級王者)12R判定負け(0-3)
- 大毅は日本人最年少での世界タイトル挑戦となった。
- 内藤大助(日本)は当時33歳、35戦31勝20KO2敗2分。まず、対戦前の調印式において切腹発言[5]をしたことが話題になった。この試合の際はサミングやバッティング、ローブローなどの反則を繰り返し、特に12Rの投げ技(数度クリンチしたまま縺れ合うように崩した他、内藤の下半身にクリンチし、そのまま内藤の足が床から離れるように持ち上げ、投げた。プロレスではエクスプロイダーと呼ばれる技)には非難が集まった。
- 10月15日、日本ボクシングコミッションより1年間のライセンス停止処分が下された。また、10月17日の夕方、大毅は亀田史郎トレーナー、金平桂一郎協栄ジム会長とともに日本ボクシングコミッションを訪れ、前述の反則行為について謝罪会見を開いた。大毅はトレードマークの金髪を剃り、坊主頭で記者会見に臨んだが、終始目もうつろでうつむいたまま何も語らず、わずか2分強で会見場を後にした。
- 2008年11月6日、約1年1ヶ月ぶりに復帰戦を行うことが内定している。対戦相手は未定。
脚注
- ^ デイリースポーツ 2008年2月19日「亀田兄弟解雇も…金平会長が厳罰示唆
- ^ "東日本ボクシング協会、亀田兄弟の身分預かり却下". J-CASTニュース. 2008年6月10日 閲覧。
- ^ JBC2006年度招聘禁止ボクサー
- ^ BoxRecによるモハマド・サディックの戦績(公式な記録ではなく、必ずしも正確ではない。)
- ^ デイリースポーツ 2007年10月11日「亀田家“総口撃”に内藤タジタジ」


