出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 田中 誠 |
| 名前 |
| 愛称 |
マコ |
| カタカナ |
タナカ マコト |
| ラテン文字 |
TANAKA Makoto |
| 基本情報 |
| 国籍 |
日本 |
| 生年月日 |
1975年8月8日(33歳) |
| 出身地 |
静岡県静岡市清水区 |
| 身長 |
178cm |
| 体重 |
74kg |
| 血液型 |
A型 |
| 選手情報 |
| 在籍チーム |
ジュビロ磐田 |
| ポジション |
DF |
| 背番号 |
5 |
| 利き足 |
右足 |
| クラブチーム1 |
| 年 |
クラブ |
App (G) |
| 1994- |
ジュビロ磐田 |
0 327 (9) |
| 代表歴2 |
| 2004- |
日本 |
32 (0)
|
|
1国内リーグ戦に限る。2007年12月1日現在 22007年12月15日現在
■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
|
田中 誠(たなか まこと、1975年8月8日 - )は、静岡県清水市(現静岡市清水区)出身のサッカー選手。ポジションはDF。Jリーグ・ジュビロ磐田所属。
[編集] プレースタイル
フィジカルとスピードを生かした対人での強さ・豊富な経験から裏打ちされるカバーリングの上手さ・正確なフィード・試合をフルに戦えるスタミナ・冷静な判断など、必要な能力を兼ね備えた守備のスペシャリストである。
ジュビロ磐田では3バック時は主にリベロ、4バック時はセンターバックを務める。日本代表では宮本恒靖と同じポジションであるため、右のストッパーとして起用されることが多い。
だが、マイアミの奇跡や、2004年4月28日に行われたアウェイのチェコ戦など、日本が世界の強豪相手に完封勝ちを収めた試合では、代表でも田中がリベロだった。このことから、田中を代表のリベロに推す声も多く挙がっている。
[編集] 来歴
サッカーを始めたのは小学校1年生の時。選抜チームである清水FCではFWとして活躍し、小学校6年次の全国少年大会で優勝したときは得点王になっている。DFに転向したのは中学校からで当初はサイドバック、清水商業高校で現在のセンターバックに落ち着いた。高校3年次は川口能活等と全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、全国優勝を果たしている。
卒業後に磐田に入団。初年度から期待されて試合出場機会を得るが、当時は対人能力の低さや経験不足がたたり、アトランタオリンピックでの活躍にも関わらず、必ずしもレギュラーに定着できなかった。1997年にアジウソンが加入すると、彼から学んだ老獪なディフェンス、更にトレーニングでのフィジカル強化が実り、アジウソンや鈴木秀人とのコンビでレギュラーに定着。その後も磐田のDFリーダーとして活躍を続けている。かつてのお手本であるアジウソンも監督として復帰した際は、彼に信頼をよせた。。
日本代表にはなかなか縁がなかった(トルシエ政権下では、田中が必ずしも得意でないフィード力がDFに求められていたことが原因、と田中はインタビューで示唆している)が、ジーコ指揮下では右のストッパーとして次第に出場機会を得る。2006年ドイツW杯代表にも選出されたが、ドイツでの直前合宿中に左ハムストリング肉離れのため離脱し帰国。本大会への出場はかなわなかった。
[編集] エピソード
- 派手なパフォーマンスは少ない。地元のジュビロ応援番組のロングインタビューの際、「性格的に人前で話すことが好きじゃない」「インタビューは苦手。中山さんの卓越した話術がうらやましい」との趣旨の発言を残している。
- 熱狂的なガンダムマニア。息子と共におもちゃ屋へ足繁く通い、クラブハウスのロッカーの中はガンダム関連の食玩で一杯で、チームメイト達に呆れられているとか。夫人も田中のガンダム趣味には理解を示していないようで、地元のテレビ番組では家にはもう置くところがなく、新しい趣味を探さなければいけないかもとぼやくほどである。
- 2005年末、「関口宏の東京フレンドパークII」に他のサッカー日本代表メンバーと出演した時、最後のダーツで三都主アレサンドロが希望していた赤ちゃん用のおむつ一年分を見事引き当ててしまった。家に持って帰ったら夫人に怒られたと語っていた。また同番組で出されたガンダム関連のクイズ問題に対する回答がきっかけで、一部ファンの間で「サザビー」と呼ばれるようになった。
- 夫人とは、一時磐田でチームメートだった武田修宏の紹介で知り合った。
- ピッチ外では温和そうに見えるが試合中はかなり短気になる。新人時代の大久保嘉人に危険なタックルをされた後、彼と口論の末に頭突き。大久保と共に両者退場処分になっている。また2006 FIFAワールドカップ最終予選では北朝鮮戦で、もつれてきた相手選手に偶然を装ってかかと落としを浴びせた。このときは報復してきた相手選手だけが退場になっている。
- 遡れば静岡中学選抜時代、そして清水商時代からの盟友である川口能活には周りから「マコ命」と茶かされるほどの信頼を寄せられている。
- 田中自身も川口とはあ・うんの呼吸でプレーが出来ると対談などで何度か語っている。また清水商業時代の同級生、ユース時代のチームメイトの証言によると、若い頃には激昂し号泣するのがトレードマークだった川口を「落ち着けよ」とたしなめられるのは田中だけとされており、その信頼関係の深さがうかがわれる。アトランタオリンピック代表監督の西野朗氏も、練習中でも激昂しまくる川口のたしなめ役として、川口がエキサイトしだすと「マコは??呼んで来い!」と、周囲に言いつけていたという。またこの西野氏は「私が知る限り最もクレバーなDF」として田中を絶賛していた。
- 2006 FIFAワールドカップアジア地区1次予選の対オマーン戦(アウェー)ではGKの川口能活が相手FWと空中で競り合ってゴールががら空きになり、絶体絶命のピンチになったが田中が自陣ゴールに戻り相手のシュートを体で止め、この試合の日本の勝利そしてアジア1次予選突破の原動力になった。
[編集] 所属クラブ
[編集] 経歴
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 |
| 年度 |
クラブ |
背番号 |
リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 |
オープン杯 |
期間通算 |
| 出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
| 日本 |
リーグ戦 |
ナビスコ杯 |
天皇杯 |
期間通算 |
| 1994 |
磐田 |
- |
J |
6 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
7 |
0 |
| 1995 |
磐田 |
- |
J |
21 |
0 |
- |
2 |
0 |
23 |
0 |
| 1996 |
磐田 |
- |
J |
18 |
0 |
7 |
0 |
1 |
0 |
26 |
0 |
| 1997 |
磐田 |
5 |
J |
23 |
0 |
9 |
0 |
4 |
0 |
36 |
0 |
| 1998 |
磐田 |
5 |
J |
32 |
2 |
5 |
0 |
3 |
0 |
40 |
2 |
| 1999 |
磐田 |
5 |
J1 |
16 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
16 |
0 |
| 2000 |
磐田 |
5 |
J1 |
26 |
1 |
4 |
0 |
3 |
0 |
33 |
1 |
| 2001 |
磐田 |
5 |
J1 |
24 |
1 |
6 |
0 |
2 |
0 |
32 |
1 |
| 2002 |
磐田 |
5 |
J1 |
25 |
0 |
1 |
0 |
3 |
0 |
29 |
0 |
| 2003 |
磐田 |
5 |
J1 |
30 |
1 |
9 |
0 |
5 |
0 |
44 |
1 |
| 2004 |
磐田 |
5 |
J1 |
28 |
1 |
1 |
0 |
5 |
0 |
34 |
1 |
| 2005 |
磐田 |
5 |
J1 |
30 |
0 |
1 |
0 |
2 |
1 |
33 |
1 |
| 2006 |
磐田 |
5 |
J1 |
25 |
2 |
3 |
0 |
1 |
0 |
29 |
2 |
| 2007 |
磐田 |
5 |
J1 |
23 |
1 |
3 |
1 |
2 |
0 |
28 |
2 |
| 2008 |
磐田 |
5 |
J1 |
|
|
|
|
|
|
|
|
| 通算 |
日本 |
J1 |
327 |
9 |
49 |
1 |
34 |
1 |
410 |
11 |
| 総通算 |
327 |
9 |
49 |
1 |
34 |
1 |
410 |
11 |
| 国際大会個人成績 |
| 年度 |
クラブ |
背番号 |
出場 |
得点 |
| AFC |
ACL |
| 2004 |
磐田 |
5 |
4 |
0 |
| 2005 |
磐田 |
5 |
3 |
0 |
| 通算 |
AFC |
7 |
0 |
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 32試合 0得点(2004-2006)
| 日本代表 |
国際Aマッチ |
| 年 |
出場 |
得点 |
| 2004 |
14 |
0 |
| 2005 |
16 |
0 |
| 2006 |
2 |
0 |
| 通算 |
32 |
0 |
[編集] 個人タイトル
- 1998年 Jリーグアウォーズ ベストイレブン
- 2002年 Jリーグアウォーズ ベストイレブン
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク