マウロ・カモラネージ

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マウロ・カモラネージ
名前
本名 マウロ・ヘルマン・セラ・カモラネージ
愛称 ダブルベイ、サムライ
ラテン文字 Mauro Germán Serra CAMORANESI
基本情報
国籍 イタリア
アルゼンチン
生年月日 1976年10月4日(32歳)
出身地 アルゼンチンタンディル
身長 174cm
体重 70kg
選手情報
在籍チーム ユヴェントス
ポジション MF(SH)
背番号 16
利き足 右足
代表歴
2003- イタリア 38 (4)
2008年6月17日現在


Template(ノート 解説)サッカー選手pj

マウロ・カモラネージMauro Germán Serra Camoranesi1976年10月4日 - )は、アルゼンチン・タンディル出身のイタリア代表セリエAユヴェントス所属のサッカー選手。ポジションはMF

目次

[編集] 略歴

[編集] クラブ

メキシコのサントス・ラグナ、ウルグアイのワンダラーズ、アルゼンチンCAバンフィールドメキシコクルス・アスルと渡り歩いた後、2000年イタリアヴェローナに移籍。ここでの献身的なプレーが評価され、2002年にマルチェロ・リッピ監督率いる強豪ユヴェントスへ移籍した。

当初はジャンルカ・ザンブロッタの控えと目されていたが、大方の予想に反して、効果的なプレーを連発し、また、ザンブロッタが左サイドバックにコンバートされた事もあってレギュラーの座を獲得。2004年から監督がファビオ・カペッロに変わった後も、中盤右サイドのポジションを務めた。(この間、ユヴェントスは2シーズンともセリエAで優勝しているが、後述のカルチョ・スキャンダルにより2度とも優勝は取り消された)

その後、カルチョ・スキャンダルによりユヴェントスセリエB降格が決定すると、他クラブへの移籍を希望したが、ディディエ・デシャン監督(当時)の意向でユヴェントスに残留。セリエA昇格に貢献した。

2007年、監督がクラウディオ・ラニエリに代わった後もカモラネージへの信頼は揺るがなかった。怪我により長期離脱するとその間ユヴェントスの攻撃は機能せず、存在の大きさを浮き彫りにした。復帰後は好調を維持しクラブの「CL出場権獲得」という目標の達成(セリエAでの順位は3位)における原動力となった。

[編集] イタリア代表

2003年に祖父がイタリア人であった事からイタリアに帰化。イタリア代表入りも果たし、同年2月12日のポルトガル戦で代表デビューを飾ると、翌年のUEFA欧州選手権2004に出場した。

そして2006年FIFAワールドカップ・ドイツ大会では、同年にカルチョ・スキャンダルが発覚し、所属するユヴェントスやイタリアサッカー界が暗いムードに包まれる中、ガットゥーゾピルロデロッシらとトリプルボランチを形成。自身が飛躍するきっかけとなったリッピ監督の下で4度目のワールドカップ制覇に貢献した。

[編集] プレースタイル

豊富な運動量で攻守に渡って貢献し、細かいタッチのドリブルで敵陣を切り裂く。ディフェンダーは思わず危険な位置でファウルしてしまうこともある。右足からのクロスも非常に正確な上に緩急を状況に応じて的確に使い分ける。 調子にやや波があり、毎試合その能力を発揮できない事が難点だが、それも年を追うごとに改善されてきている。

[編集] エピソード

  • 2006年ドイツW杯で優勝を決めた後、かねてからチームメートと約束していたとおりに、長髪の結わいでいた部分を切り落とした。ちなみに、この期間のヘアスタイルは一部のサッカーファンから侍ヘアと呼ばれ笑いを誘った。
  • ギター演奏が趣味で、チームメイトが言うにはかなりの腕前であるという。
  • ユヴェントス移籍以来、毎年のように移籍が取り沙汰されるが結局は残留という流れを繰り返している。特にカルチョポリの後は本人も移籍を強く望んでいたようだが、ユヴェントスは契約を盾に移籍を認めなかった。本人の恨み節ともとれるコメントが何度かメディアに取り上げられた。
  • カペッロ監督時代のユヴェントスで、ゲームに途中出場するも、不甲斐無いプレーを繰り返したため、ものの数分でベンチに下げられたことがある。

[編集] 所属クラブ