インドネシア独立戦争

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インドネシアの歴史
初期王国
シュリーヴィジャヤ王国 (3世紀–14世紀)
タルマヌガラ王国 (358-723)
シャイレーンドラ朝 (8世紀–9世紀)
スンダ王国 (669-1579)
古マタラム王国 (752–1045)
クディリ王国 (1045–1221)
シンガサリ王国 (1222–1292)
マジャパヒト王国 (1293–1500)
イスラームの勃興
マラッカ王国 (1400–1511)
ドゥマク王国 (1475–1518)
アチェ王国 (1496–1903)
バンテン王国 (1526–1813)
マタラム王国 (1500年代-1700年代)
ヨーロッパ植民地主義
オランダ東インド会社 (1602–1800)
オランダ領東インド (1800–1942)
インドネシアの形成
日本統治時代 (1942–45)
独立戦争 (1945–1950)
インドネシアの独立
9月30日事件 (1965–1966)
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インドネシア独立戦争(インドネシアどくりつせんそう、1945年 - 1949年)は、日本第二次世界大戦連合国へ降伏した後の旧オランダ領東インドで、独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で発生した戦争独立戦争)。4年5ヶ月の戦争で80万人が犠牲になった。

より狭義には、1947年7月21日1948年12月19日の2度にわたって、オランダ軍がインドネシア共和国に軍事侵攻した結果生じた大規模な軍事衝突を指し、オランダ側ではこの自国の軍事行動を「警察行動 Politionele acties」と呼称している。しかし、一般的には、インドネシア共和国とオランダ軍との軍事衝突だけでなく、東インドに進駐したイギリス軍とインドネシアの武装組織との武力衝突、インドネシア共和国内での反乱事件や政治闘争、そして軍事衝突とほぼ平行して進められたオランダや国際連合との外交交渉など、インドネシアの独立へ向けての一連の政治過程を総称して「インドネシア独立戦争」という。

また、植民地時代や日本軍政期には、旧東インド領の各地で、伝統的な領主層や貴族層が為政者によって特権を保護されてきたが、独立宣言後、インドネシア人の急進的な青年層や武装勢力によって、これらの者の地位や特権を剥奪する社会革命の動きがみられた。こうした動きも含めて、一連の事象を「インドネシア(八月)革命」ともいう。

結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月、インドネシア連邦共和国となり、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日、単一のインドネシア共和国が発足した。

目次

[編集] 独立戦争前

詳細は蘭印作戦を参照

オランダ大航海時代以来、およそ300年にわたって「東インド」と名づけた島々をオランダ海上帝国として植民地支配してきたが、太平洋戦争が勃発すると、日本軍第16軍ジャワ島上陸第1陣は約5万5000人)は1942年2月末から3月にかけてスマトラ島ジャワ島に進攻した。オランダ領東インド軍(蘭印軍、約4万人)は3月10日日本軍に全面降伏した[1]

日本はすぐにオランダに捕らえられていたスカルノハッタらインドネシア民族主義指導者を解放した。しかし当初は石油資源の安定確保のために東インドを直轄の軍政地域とし、スカルノハッタらインドネシア民族主義指導者の独立の要請は認めなかったが、戦局が悪化してくると、1944年9月3日には将来の独立を認容する「小磯声明」を発表、さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月15日、日本の降伏によって、この軍政当局の主導による独立準備は中止された。

しかし、その2日後の8月17日、今度はスカルノらインドネシアの民族主義者たち自身が、連合国の了解を得ることなく、スカルノの私邸に集まった約1000名の立会いを得て、独立宣言を発表した[2]

9月4日にスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立した。また、独立宣言後の8月22日には人民治安団(Badan Keaman Rakyat)が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧ペタ(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけた。この人民治安団が治安維持、急進化する青年層の取り込みといった目的をもっていたのに対して、10月5日に結成された人民治安軍(Tentara Keamanan Rakyat)は、10月になって本格的に進駐してきたイギリス軍および旧宗主国のオランダ軍に対抗するという目的があった[3]。人民治安軍は旧蘭印軍将兵に対してもこれへの参加を呼びかけ、純然たる軍組織を目指した。共和国側にはこの正規軍以外にも複数の非正規の武装組織が誕生し、その活動には政府の統制が及ばなかった[4]

一方、大戦に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア人の独立派への武器引渡しも厳禁とされていた。この命令を守るために独立派との衝突が生じ、日本側にも多数の死傷者が出た[5]。他方で、日本軍部隊が上官の命によって兵器の集積庫を開放し、横流しした例もある[6]。その結果、日本軍からは3万丁以上の三八式歩兵銃、数百の野砲・トラック、食料、弾薬、軍刀など多くの資材が独立派の手に渡った[7]。日本軍の一部は自ら独立派に身を投じ、そのまま日本に帰らなかった者もいた[8]

[編集] 独立戦争の推移

[編集] イギリス軍の占領

大戦中ロンドンに亡命していたウィルヘルミナ女王のオランダ政府は、すでに1942年12月7日には戦後における東インドの自治について言及していたが、その独立について譲歩する考えはなかった。オランダ政府のハーグ復帰後、東インドの再植民地化を決定し、カナダで訓練されていたオランダ領東インド軍(蘭印軍)部隊を派遣する準備をすすめていた[9]

連合国側では、オランダ領東インドの管轄をアメリカ軍南西太平洋司令部からイギリス軍東南アジア司令部(総司令官マウントバッテン)に移し、その指揮下のイギリス軍部隊(その大半は英印軍)が東インドに進駐することになった[10]。このイギリス軍部隊の役割は、東インドにおける現状維持と、日本兵の武装解除および日本人の本国移送であり、オランダとインドネシアの独立問題には不介入の立場を取っていたが、期せずしてインドネシア人の武装勢力との衝突に巻き込まれていくことになるのである。

戦前から東インド植民地官僚、副総督を務めていたファン・モーク。独立戦争期にはオランダを代表してリンガルジャティ協定に調印。

9月29日イギリス軍第一陣がジャカルタに上陸し、10月1日付でクリスティソン・イギリス陸軍中将指揮下の蘭印連合軍(AFNEI)司令部がジャカルタに開設された。10月末までには、AFNEI傘下の英印軍第23師団の一個旅団がジャカルタ、バンドンスラバヤに、一個大隊がスマランに配置された。

10月20日にはオランダ領東インド政府副総督ファン・モークが亡命先のオーストラリアからジャカルタに帰還し、10月23日にはインドネシア共和国大統領スカルノ、副大統領ハッタと会見している。以後、1946年11月末にイギリス軍がインドネシアから完全撤退するまでの期間、インドネシアの独立問題は、当事者であるインドネシアとオランダ、その両者の仲介役であるイギリスという、三者間の交渉によって「外交」交渉が進められていくことになる。

なお、インドネシアに進駐したAFNEIの指揮下には、オランダ領東インド軍(蘭印軍)陸軍司令官ファン・オイエン少将率いる蘭印陸軍七個中隊があった。この部隊がインドネシア人殺害、誘拐、放火など多くの事件を起こした。これらの破壊工作が、インドネシアと連合国との交渉環境をいちじるしく悪化させた[11]

スラバヤの戦いでインドネシア人が使用していた旧日本軍の軽戦車。

10月25日スラバヤに上陸したイギリス軍第49旅団は、民衆に武器の提出を求めるチラシを全市で配布し、これがインドネシア側を刺激した。このチラシをイギリスからの宣戦布告であると受け止めたインドネシア人は、同28日、29日、30日にわたってスラバヤ市内に展開するイギリス軍を攻撃し、これに打撃をあたえた[12]。イギリスとの交渉環境の悪化を危惧したスカルノやハッタがスラバヤに飛来して停戦を成立させたが、10月30日夜、その停戦ラインの侵犯をめぐって銃撃戦が起こり、英印軍の旅団長マラビー准将が射殺された。

イギリス側(英印軍)は、この他にも共和国側の武装組織との交戦によって多数の死傷者を出しており(1946年11月28日の完全撤退までに死傷者1377人、うち戦死者407人、行方不明者162人)、また、インド世論もインドネシアの民族独立運動の弾圧に英印軍が利用されることに反対し、インド総督も英印軍の早期撤退をイギリス政府に要請していた[13]

10月半ばから下旬にかけては、英印軍第26師団がスマトラのメダンパレンバンなどに進駐した。このように、ジャワとスマトラは英軍指揮下にあったが、チモールカリマンタンスラウェシアンボンなどの「外島」はオーストラリア軍が部分的に占領した[14]

1946年1月4日、インドネシア共和国政府は首都を治安の悪化したジャカルタからジョグジャカルタに移し、大統領スカルノ、副大統領ハッタらはジョグジャカルタに退避し、イギリス・オランダとの交渉は、ジャカルタに残った共和国首相シャフリル(外相兼任)、国防相アミル・シャリフディン(情報相兼任)が担っていくことになった。

一方、オランダ軍部隊が東インドに派遣されると続々と増加して12万人に達し、インドネシア側との本格的衝突が懸念された。1946年11月末に予定されたイギリス軍部隊のインドネシアからの完全撤退を前に、停戦協定の締結が急がれることになった。

[編集] 国連の介入

1946年11月12日、オランダはジャワ島スマトラ島マドゥラ島をインドネシア共和国の勢力下にあると認め、双方は連邦国家樹立に向けて努力するという停戦協定リンガジャティ協定)が成立した。そして当初の予定どおり、イギリス軍は11月中にインドネシアからの撤退を完了した。

シャフリル政権崩壊後、共和国首相の座に就いたアミル・シャリフディン

しかしオランダ軍は同協定の批准も済んでいない1947年1月24日、東部ジャワのクリアンとシドアルジョを攻撃、これを占領するとともにさらに内陸のモジョクルトへも兵を進めた。このオランダ軍の進出に譲歩するか徹底抗戦するかをめぐって、インドネシア国内で混乱が続くなかで(その結果、6月27日、シャフリル内閣崩壊)、6月28日、オランダ軍は全域での進軍を命じ、スラバヤ、ジョグジャカルタ周辺への空爆も開始された。

1947年7月17日に共和国側へ最後通牒を突きつけたオランダ軍は、7月21日、共和国領内への全面的攻勢を開始した(オランダ側ではこれを「(第1次)警察行動」という)。オランダ軍はジャワ西部のジャカルタ、チルボン、南部のチアミス、タシクマラヤ、北部のスマラン、マグラン、スマトラのメダンパレンバンなど、主だった拠点を占領し[15]、インドネシア共和国臨時首都であるジョグジャカルタにも迫った。12万を超すオランダ軍は装備の面でも、練度においてもインドネシア側の武装組織を凌駕しており、独立軍は都市部を放棄せざるをえなかったが、一方のオランダ側も、農村部でのゲリラ戦に苦しめられた。

ここで成立したばかりの国際連合が介入、8月1日国連安全保障理事会で、即時停戦仲裁による和平解決をもとめる案が賛成多数で可決された。この決議にもとづいて8月4日に停戦が成立したが、その後もオランダ軍の攻撃は止まず、占領地域に次々と傀儡国家・自治領域を設立していった。このためインドネシア共和国国連代表シャフリル(前首相)の求めによって、国連はインドネシアが指名したオーストラリア、オランダが指名したベルギー、そしてオーストラリア・ベルギー両国が指名したアメリカ合衆国の3カ国による仲裁委員会の設置を決定した。10月にはこの仲裁委員会の代表がジャカルタに到着し、新たな停戦協定の締結へ向けて努力していくことになった[16]

アメリカ軍艦レンヴィル上での外交交渉

1948年1月17日、ジャカルタ沖に停泊する米国軍艦レンヴィル (Renville) 艦上(ハスケル級攻撃輸送艦APA-227)で調印された停戦協定レンヴィル協定)は、インドネシア共和国領をジャワ島の中部と西端部、マドゥラ島のみとし、共和国側も、さらに狭い領域へと押し込まれる現状を追認するしかなかった。

[編集] オランダ軍の第二次警察行動

1948年1月23日、同協定を批准する見込みのなかったアミル・シャリフディン内閣は総辞職し、その後を引き継ぐ内閣を担う意思と能力のある政治家は既存の政党にはいなかった[17]。大統領スカルノは、1月29日、副大統領ハッタに超党派の内閣を組織させ(首相と国防相を兼任)、レンヴィル後の国内混乱を収拾し、オランダとの外交交渉を継続していくことになった。

共和国政府と対立したPKIの指導者ムソ。マディウン事件後の混乱の中で射殺された。

一方で、レンヴィル協定に反対するインドネシア共産党(PKI)をはじめとする徹底抗戦派および左派勢力が糾合され、スカルノ、ハッタらの外交路線と対立した。この政府と左派勢力の対立のなかで、1948年9月18日、PKIの影響下にある部隊がジャワ島東部のマディウンで政府機関を襲撃し、革命政府樹立を宣言した(マディウン事件)。1ヶ月ほどでこの反乱は鎮圧されたが、共和国内部での混乱に乗じて、オランダは12月11日和平会談決裂を宣言、12月19日早朝に共和国領内への全面攻勢が開始された(オランダではこれを「第二次警察行動」という)。

オランダ空軍の爆撃機によってジョクジャカルタのマグオ空港が空爆され、オランダ海兵隊と蘭印軍が地上から侵攻し、12月23日までには共和国臨時首都ジョグジャカルタを陥落させた。当時、ジョクジャカルタの共和国側には3個中隊の兵力しかなく、オランダはスカルノ大統領、首相兼副大統領ハッタ、そして閣僚の大半を逮捕した[18]

共和国側はスマトラで臨時政府樹立(臨時首相はシャフルディン・プラウィラネガラ蔵相)を宣言、逮捕されたスカルノもオランダとの交渉継続を破棄し、徹底抗戦を全国民に訴えた。このように共和国政府の存続を国際的にアピールするとともに、インドネシア側の武装勢力も組織的な抵抗を開始した。スディルマン国軍司令官の号令の下、農村部や地方都市でゲリラ戦や治安の撹乱をすすめ、1949年3月1日にはオランダ占領下のジョグジャカルタ奪還作戦を敢行し、一時オランダ軍を窮地に追い込んだ[19]

オランダの全面攻勢によってインドネシア共和国は存続の危機に瀕したが、オランダの軍事的勝利は外交的敗北の始まりだった。オランダがインドネシアの各地で設立した傀儡国家では急速にオランダ離れがすすみ、これらの地域が後にインドネシア共和国に合流する素地を作った[20]。また、国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難し、国連安保理12月24日の決議でオランダに共和国指導者の釈放を要求した。とりわけ、マディウン事件で左派勢力を一掃したハッタ政権を高く評価していたアメリカは、オランダへの経済援助の停止を通告し、和平協議復帰への圧力をかけた。

こうした国際世論の圧力のもとにオランダは和平受諾に追い込まれて行く。また、インドネシアにおける過大な軍事費支出は、ドイツの占領で疲弊したオランダ経済にとって耐え難いものとなっていたのである。

[編集] ハーグ円卓会議

円卓会議での調印式。右が共和国代表モハマッド・ハッタ

オランダに逮捕されていたスカルノらインドネシア指導者は1949年7月6日にジョグジャカルタに帰還し、7月13日にはスマトラの臨時政府を解消して、政府機能を復活させた。

8月23日にオランダの首都ハーグで円卓会議が開催された。オランダ首相によって主催されたハーグ円卓会議は11月2日に一応終結し、当事者であるインドネシア共和国、同連邦構成国、オランダとのあいだで、以下が決議された。

  1. 諸邦連立のインドネシア連邦共和国を樹立する。
  2. オランダは無条件でインドネシアの主権を連邦共和国に引き渡すことに同意する。
  3. インドネシア連邦共和国は、オランダ=インドネシア連合(イリアン・ジャヤを含む)に参加し、オランダ女王をその元首とする。
  4. インドネシア連邦共和国の外交、国防、財政等にオランダは永久に協力する。他。

オランダはインドネシアに対する影響力を残しながらも、12月27日インドネシアの主権を連邦共和国に移譲した。ここにおいて戦争は公式に終結した。また、オランダは交渉の過程で、当初、インドネシア側に61億ギルダー(17億3200万ドルに相当)の債務負担を要求し、最終的には43億ギルダー(11億3000万ドル相当)の債務をインドネシア側が継承することで合意した[21]

[編集] 独立戦争後のインドネシアとオランダ

独立を獲得したインドネシアだが、オランダが影響力を残すため、共和国が支配するジャワ島のほかに、オランダの作ったいくつもの傀儡政権が連立する連邦共和国となっていた[22]。だが、諸邦が分立する連邦共和国制度を不満とし、土侯国を中心とする諸邦の権力をジャカルタの中央政権に委譲させ、1950年8月15日、単一のインドネシア共和国の樹立が宣言された。オランダの目論みは完全に失敗し、300年に及ぶ影響力を遂に失った。

建国後のインドネシアは原油ゴムの輸出によって経済を再建するとともに、政治的には議会制民主主義を忠実に実行したが、政治的混乱を収拾するため、スカルノは1956年に「指導された民主主義」を提唱し、独裁制へ移行して行くとともに、ソビエト連邦へ接近した。1960年には、なおオランダ支配下にあった西イリアンへ進攻し、オランダと国交を断絶、米国の介入による国連暫定統治を経て、1962年にはインドネシアへの移管が決まった。

一方、オランダはドイツの侵略によって社会が疲弊しきっているところへ、最大の植民地である東インドを完全に失い、経済は大打撃を受け没落した。その上、植民地に固執して多くの血を流した姿勢は諸国の批判を招き、国際的地位は低下した。また戦争中、アメリカ合衆国によるマーシャル・プラン(西欧経済援助)が停止されたことは特に打撃が大きかった。1962年には西イリアンも失い、植民地国家から西欧国家への移行を目指した。ベルギールクセンブルクとのベネルクス関税同盟はその後の欧州共同体、現在の欧州連合の先駆けとなった。

[編集] 日本人とインドネシア独立戦争

日本の敗戦から1947年5月の全日本人引き揚げまでのあいだに、日本軍の死者は1078人を数え、この人数は日本軍の蘭印侵攻時の戦死255名、負傷702名を上回るものだった。この死者数は、武器譲渡をめぐる独立派との衝突や、連合国側の進駐軍が現地の治安確保のために日本軍部隊に出動を命じて戦闘になったこと、などによるものだった[23]

また、日本の敗戦後、インドネシア側の武装勢力に身を投じて独立戦争に参加した日本人も数多い[24]。彼らが独立戦争に参加した動機はさまざまである。戦前・戦中、日本が大東亜共栄圏東亜新秩序を打ち出していたことから、欧米からのインドネシア解放・独立の為にインドネシアの独立戦争に参加し、インドネシア人と「共に生き、共に死す」を誓いあった者や、日本に帰国したら戦犯として裁かれることを恐れたためにインドネシアに残留した者、また日本軍政期に各地で結成された郷土防衛義勇軍[25]の教官としてインドネシア人青年の訓練にあたった者の中には、その教え子たちに請われて武装組織に参加した者もいる[26]

これらの「現地逃亡日本兵」の独立勢力への参加については、連合国側はきびしく禁じられており、日本軍の現地指導部でも、在留日本人の引揚げに悪影響を与え、ひいては日本の国体護持や天皇の地位にまで悪影響を与えるとして、対応に苦慮した[27]。インドネシアの独立達成後、1958年1月20日に日本とインドネシアの平和条約、賠償協定が締結され、1960年代に日本企業のインドネシア進出が本格化する頃、両国間の橋渡しの役割を果たしたのは、これらの元日本兵たちであった[28]

スカルノより贈られた青松寺にある碑

独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られ、戦後生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられたインドネシア人として、これらの墓地に埋葬される予定である。

1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した市来龍夫吉住留五郎に対し感謝の言葉を送った。
市来龍夫君と吉住留五郎君へ。独立は一民族のものならず全人類のものなり。1958年8月15日東京にて。スカルノ
その石碑が東京青松寺に建てられている。

「インドネシアと日本軍政」についての研究[29]は、1950年代から欧米諸国ではじめられ、日本軍政がインドネシア社会に大きな政治的インパクトを与え、現地のナショナリズムを刺激し、脱植民地化を加速させたとの評価が一般的となった[30]。その一方で、日本軍政が現地社会の分裂や対立を先鋭化させたと結論づける研究もある[31]

日本国内ではしばしば「インドネシア独立への日本軍政の貢献」といった評価がなされることがあるが、そうした言い方・評価が反発を招くこともある[32]

[編集] インドネシア独立戦争を題材とした作品

  • 『ゲリラの家族 Keluarga Gerilya 』……インドネシアの作家、プラムディヤ・アナンタ・トゥールの長編小説。独立戦争下のジャワで生きる庶民の姿を描いた作品[33]
  • ムルデカ17805』……インドネシア独立戦争に参加した日本兵を描いた日本・インドネシア合作映画。藤由紀夫監督。2001年に制作され、日本とインドネシアの両国で上映された。

[編集] 脚注

  1. ^ このように比較的短期間のうちに戦闘が終了した諸因として、オランダ本国がすでにドイツ国占領下に置かれていたこと、蘭印軍自体が領土防衛ではなく国内治安のための軍隊であったこと、そして、開戦前からの日本軍による情報操作が功を奏し、現地住民のあいだに日本軍を歓迎するムードを作り出すことに成功していたこと、などが挙げられる(インドネシア国立文書館編、1996年、35頁)。
  2. ^ 日本軍政期、軍政当局によって年号には皇紀を使用することが規定されていたため、独立宣言文にみられる「2605年8月17日」の年号もグレゴリオ暦ではなく皇紀が用いられている。信夫、1988年、258頁、倉沢、1991年、755頁。
  3. ^ 今日のインドネシア国軍の「建軍記念日」はこの10月5日とされている。
  4. ^ 安中、1969年、113-115頁
  5. ^ 1945年8月15日から約半年の間に、日本軍はインドネシア側との衝突で627人の死者を出した。そのなかでも1945年10月、中部ジャワ州のスマランで発生した日本軍部隊とインドネシア人独立派との衝突(スマラン事件)では日本側に187人、インドネシア側に2000人近い犠牲者が出た(後藤乾一「戦後日本・インドネシア関係史研究序説」、『社会科学討究』40巻2号、1994年12月、358-359頁)。
  6. ^ 増田、1971年、205-206頁。
  7. ^ 元蘭印軍出身で後にインドネシア国軍の高官となるナスティオンの著作は、小銃2万6000、自動小銃1300、機関銃600、手榴弾9500、速射砲40、榴弾砲16などの数字を挙げている。
  8. ^ 約2,000人の元日本軍兵は祖国に帰らず、そのまま除隊(この時点で日本軍籍は消滅)、残留してインドネシア独立軍に参加し、降伏時所持していた兵器物資を横流しした者、軍政資材をそのまま利用し独立運動の広報・宣伝に当たった者もいた(『アジアに生きる大東亜戦争』ASEANセンター編/『アジア独立への道』田中正明など)。ある者はインドネシア人と結婚して家庭を築き、またある者はイスラームに改宗するなどして現地社会に溶け込み、インドネシア独立戦争の終了後も日本に帰還する者は少なかった。なお、陸軍第16軍の作戦参謀を務めた宮元静雄によると、帰隊者・死亡者をのぞく現地逃亡残留兵は総計277名で、そのうち166名はジャワのバンドン地区の将兵であった(宮元、1973年、375頁)。
  9. ^ 増田、1971年、200頁。
  10. ^ 首藤、1993年、56頁脚注6
  11. ^ 増田、1971年、201頁、首藤、1993年、38頁。
  12. ^ 増田、同、205-208頁。
  13. ^ 首藤、同、40頁および56頁脚注8。
  14. ^ 首藤、同、37頁および54頁脚注2。
  15. ^ 増田、同、222-224頁、首藤、同、67頁。
  16. ^ 増田、同、224頁、首藤、同、76頁。
  17. ^ Kahin,1952,pp.230-232.
  18. ^ 増田、同、233頁、首藤、同、109頁。
  19. ^ このとき共和国軍部隊を率いたのが後に第2代大統領となるスハルト中佐であった。
  20. ^ 首藤、同、118頁
  21. ^ 首藤、1993年、120頁および126頁脚注23。
  22. ^ インドネシア連邦の傀儡国家群を参照。
  23. ^ このインドネシアからの日本人引揚げで婦女子854名が全員無事に帰国したことについて、永井は満州樺太からの日本人引揚げ時の悲劇との対比で「特筆に値する」としている。永井、1986年、34頁。
  24. ^ 独立戦争に身を投じたアブドルラフマン=市来龍夫歩兵操典をインドネシア語に翻訳した)とアレフ=吉住留五郎の墓が、東京タワーそばの青松寺にある。なお、市来龍夫については、後藤、1977年、を参照。
  25. ^ インドネシアの独立宣言後、初期のインドネシア国軍の将校団を構成したのは、兵補郷土防衛義勇軍(略称「ペタ」)といった、日本軍政期に結成された対日協力軍の元幹部たちであった(倉沢、1992年、第7章、を参照)。また、オランダ領東インドを占領した日本軍は兵補制度を採用して、これを日本軍の中に組み込んだ。こうした兵補の多くは、旧蘭印軍の現地人兵士から募集されたが、農村の住民から採用された者も多かった。なお、これらの組織で日本軍の軍事教育を受けたインドネシア人の回想については、インドネシア国立文書館編著、1996年、第4章、を参照。
  26. ^ インドネシア独立戦争に参加した日本人兵士の回想の一例として、バリ島に駐在した日本軍兵士、平良定三(インドネシア名ニヨマン・ブレレン)について、藤崎康夫「インドネシア独立戦争を戦った日本人兵士」、『宝石』1995年9月号、を参照。
  27. ^ 独立戦争終結後しばらくして、現地逃亡元日本兵に日本への帰国の機会が与えられたが、帰国せずにそのまま残留した者も多かった。日本政府からは「脱走兵」と見なされたため、軍人恩給は支給されず、その存在が日本国内に伝えられることも少なかった。1970年代末になって軍人恩給に代わる一時金が支払われた。倉沢愛子 『二十年目のインドネシア 日本とアジアの関係を考える』、草思社1994年、162頁。
  28. ^ 倉沢、同上書、162頁。
  29. ^ 以下の研究史の整理は、倉沢愛子「シンポジウム『東南アジア史の中の日本占領 -評価と位置づけ- 』」、『アジア経済』37巻7・8号、1996年7・8月号、191-193頁、を参照。
  30. ^ 一例として、W.H.Elsbree, Japan's Role in Southeast Asian Nationalist Movements 1940-1945, New York, Russel and Russel, 1953.
  31. ^ 一例として、Anthony Reid, The Indonesian National Revolution 1945-1950, Hawthorn, Australia, Longman, 1974.
  32. ^ 一例として、1986年9月に開催された日本国際政治学会の国際シンポジウムにおいて、谷川栄彦(九州大学)の報告に対して、韓国、東南アジア諸国参加者から批判の声が上がった。谷川の報告は、日本による戦争と占領は、少なくとも現地の民族主義運動を「加速化」させる「触媒」の役割を果たしたという、いわゆる触媒説を論じるものであった(信夫、1988年、序、を参照)。その谷川報告は同「太平洋戦争と東南アジア民族独立運動」(九州大学法学部紀要『法政研究』53巻3号、1987年3月)として活字論文化されている。また、日本軍政下での過酷な生活についての庶民の回想は、インドネシア国立文書館編著、1996年、を参照。
  33. ^ 邦訳は、押川典昭訳、めこん<プラムディヤ選集1>、1983年刊、ISBN 0397832137445、がある。邦訳書のテキストは、Pramoedya Ananta Toer, Keluarga Gerilya, Pembangunan Djakarta, 1955.

[編集] 関連項目

[編集] 関連文献

  • Kahin, George McT., Nationalisim and Revolution in Indonesia, Ithaca, Cornell University Press, 1952
  • Anderson, Benedict R. O'G., Jawa in a Time of Revolution : Occupation and Resistance 1944-1946, Ithaca, Cornell University Press, 1972
  • Crouch, Harold, The Army and Politics in Indonesia, revised edition, Cornell University Press, 1988
  • Salim Said, Genesis of Power : General Sudirman and the Indonesian Military in Politics, 1945-1949, P.T.Pustaka Sinar Harapan, 1993
  • Taufik Abdullah ed., The Heartbeat of Indonesian Revolution, P.T.Gramedia Pustaka Utama, 1997
  • 安中章夫「インドネシア国軍における政治化 その歴史的起点」石田雄・長井信一編 『インドネシアの権力構造とイデオロギー』、アジア経済研究所、1969年
  • 増田与 『インドネシア現代史』、中央公論社、1971年
  • 宮元静雄 『ジャワ終戦処理記』、同書刊行会、1973年
  • 後藤乾一 『火の海の墓標-あるアジア主義者の流転と帰結-』、時事通信社、1977年
  • 永井重信 『インドネシア現代政治史』、勁草書房、1986年
  • 信夫清三郎 『「太平洋戦争」と「もう一つの太平洋戦争」』、勁草書房、1988年
  • 後藤乾一 『日本占領期インドネシア研究』、龍渓書舎、1989年
  • 倉沢愛子 「解題」、インドネシア日本占領期史料フォーラム編『証言集 - 日本占領下のインドネシア - 』、龍渓書舎、1991年
  • 倉沢愛子 『日本占領下のジャワ農村の変容』、草思社、1992年
  • 首藤もと子 『インドネシア - ナショナリズム変容の政治過程』、勁草書房、1993年
  • 後藤乾一 『近代日本と東南アジア 南進の「衝撃」と「遺産」』、岩波書店、1995年
  • インドネシア国立文書館編 『ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代』、木犀社、1996年(原著は、Arsip Nasional Republik Indonesia, Di Bawah Pendudukan Jepan : Kenangan Empat Puluh Dua Orang, Jakarta, 1988)

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