李承ヨプ (野球)

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本来の表記は「李承燁」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
イ・スンヨプ
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各種表記
ハングル 이승엽
漢字 李承燁
平仮名
(日本語読み仮名)
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片仮名
(現地語読み仮名)
イ・スンヨプ
ラテン文字転写: Yi Seung-Yeop
本人表記: Lee, Seung-Yeop
李 承燁
読売ジャイアンツ  No.25
基本情報
国籍 大韓民国
出身地 大邱広域市
生年月日 1976年8月18日(32歳)
身長
体重
183cm
85kg
選手情報
投球・打席 左投左打
守備位置 一塁手左翼手
プロ入り 1995年 地域優先ドラフト
初出場 KBO / 1995年4月15日
NPB / 2004年3月27日
最終出場 KBO / 2003年
年俸 6億円(2008年、推定)
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手
オリンピック
男子 野球
2008 野球
2000 野球

李 承燁(イ・スンヨプ、1976年8月18日 - )は、韓国出身のプロ野球選手(現役期間 KBO1995年 NPB2004年 - )。読売ジャイアンツ所属の内野手一塁手)。

愛称は韓国では「アジアの大砲」「国民的打者」「球帝」「ライオン・キング(エピソードの項参照)」「56発男」、日本プロ野球移籍以降は「スンちゃん」「スン様(ヨン様ことペ・ヨンジュンになぞらえて)」。

目次

[編集] 経歴

[編集] 韓国プロ野球時代

[編集] 三星ライオンズ

韓国・大邱広域市出身、1995年慶北高等学校卒業後、三星ライオンズに投手として入団したが、高校時代に傷めた左肘が完治せず、当時の白仁天監督の勧めで打者に転向した。王貞治を真似た一本足打法に改造してからは、韓国プロ野球を代表するホームラン打者に成長。1997年に初の本塁打王、1999年にシーズン54本塁打の韓国記録をマーク、「ライオンキング」「国民的打者」の愛称が定着し始めたのもこの頃である。

2003年のシーズンでは、26歳10か月で通算300本塁打に到達(これは世界最年少の記録である)するなど序盤から本塁打を量産し、56本塁打を打った。アジアのプロ野球において最多記録となる56本目の本塁打は「2億ウォンの価値がある」ともされ[1]、ファンが55号を虫取り網で取ったことからフランチャイズのテグ市民球場では虫取り網が飛ぶように売れる、李が敬遠されるとゴミが投げ入れられるなど熱狂が拡がった[2]。しかし、55号を放ってから最終戦になるまで本塁打が出ず、李本人も「56本は難しいかもしれない」と弱音を吐いていた。だが、シーズン最終戦に劇的な56号を放った。このホームランは期待で満員になっていた外野席には入らず、外野フェンスに跳ね返って当時設置されていたラッキーゾーンに落ちた。歴史的なホームランボールはこのラッキーゾーンで56号記念イベントの準備をしていた人物に拾われ、球団に寄贈された[3]

韓国プロ野球において在籍9年間で通算324本塁打(通算300本塁打以上は、韓国プロ野球では李を含めて史上3人しかいない)を記録し、MVP5回、本塁打王5回、打点王4回を獲得。背番号36は三星ライオンズの永久欠番。まさに韓国球界を代表する「国民的打者」である。

[編集] 日本時代

[編集] メジャー移籍断念と来日

2003年のシーズン中にFA権を取得し、メジャーリーグ志向を明らかにしていた。韓国マスコミではメジャーに移籍すること自体はもはや前提となっており、どこに入団するかが語られていたほどで[4]、本人も「希望はDHのあるア・リーグ」「ニューヨーク・ヤンキース松井秀喜を2年以内にあらゆる面で越えてみせる」とインタビューで語り[5]、さらにシーズン後の松井稼頭央とのテレビ対談などでも「わたしはすでにメジャー級」と自信のほどを語っていた。しかし、40人ロースターを確約することとなるメジャー契約を希望する球団は現れず、わずかにロサンゼルス・ドジャースがマイナー契約を提示したに過ぎなかった[6]。これは韓国球界そのものへの評価の低さ[7]や、韓国の球場の狭さ(特に李の所属していた三星のフランチャイズであるテグ市民球場は韓国でも指折りの狭さの上に、2006年シーズンまでラッキーゾーンが存在していた)からの個人記録に対する認識、メジャーリーグが外部に求める人材の認識(一塁しか守れないため起用法が限定されてしまう選手をわざわざリスクを犯してまで獲得することはしない)も影響していると見られている。李は「最悪の場合は日本で1年間プレーすることを考えている」とメジャー球団から好条件のオファーがない場合でもメジャーを目指すため、韓国を離れて日本移籍も示唆。結局、アメリカへの移籍を断念し、その後日本の千葉ロッテマリーンズと契約した。背番号は36。李は千葉ロッテの入団会見で日本球界を選んだことについて「2年間在籍すれば無条件でメジャーリーグ行きをバックアップするという条件に心がひかれた」と語った。韓国では活躍への期待が大きかったものの、日本の評論家は多くが「パワーはあるものの、それ以上でもそれ以下でもない打者」と評するなど冷ややかな見方が多かった。

[編集] ロッテ時代

2004年
ボビー・バレンタイン監督の下、開幕を4番で迎える。開幕戦で松坂大輔から初打席初安打初打点を放つなど開幕時こそは好調だったものの、間もなく縦の変化球に対応できない弱点が露呈。インコース高めで身体を起こされ、外への変化球で空振りするというパターンが確立され、日本野球への適応に苦戦。開幕からわずか1か月で韓国では経験のない二軍落ちとなり、二軍の浦和で調整を余儀なくされた。結局、このシーズンは規定打席すらをも満たせず、打率.240・本塁打14・打点50と期待外れの成績に終わった。
2005年
オープン戦において打率.050という不振で開幕二軍スタート。しかし、昇格と同時にロッテの下位打線に定着し、このシーズンは打率.260・本塁打30・打点82。チームはプレーオフに進出し、ここでは16打数3安打7三振、最終戦では代打出場に対して左投手を出され、代打の代打を出されてしまうなど完全に沈黙した。しかし、続く日本シリーズでは、第1戦で対戦相手阪神の左腕エース井川慶から本塁打を打ち、第2戦でも本塁打を放った。第3戦ではスタメンを外れたものの、第4戦は先制本塁打を放つなどシリーズ計3本塁打を打ってロッテ31年ぶりの日本一に貢献し、優秀選手賞を受賞した(最高殊勲選手賞は今江敏晃)。続くアジアシリーズでは古巣サムスンとの対決が話題になり、第1戦では5番、決勝戦では3番と主軸を任されたものの、2戦ノーヒットに終わった。このようにシーズンを通じて調子の波が大きい、左投手に弱いとの理由で相手の先発が左投手のときはスタメンを外されるなど、ロッテ時代は最後まで固定レギュラーを任せられるには至らなかった。守備位置も李は本来一塁手だが、ロッテの一塁手には不動のレギュラー福浦和也がおり、DHや左翼手でも出場するなど守備機会は安定しなかった。2005年度をもって千葉ロッテとの2年契約は満了した。

[編集] 巨人時代

2006年
ロッテに残留との合意報道も出ていたが、ロッテでの起用法に不満があり自由契約となる。1月19日読売ジャイアンツへの入団が発表。単年契約を結び、背番号は33。下記のWBCでの活躍や、高橋由伸小久保裕紀などの主軸が毎年のように故障に苦しんでいたということもあり、原辰徳監督は李を開幕から4番打者として起用。8月1日には日韓通算400本塁打を達成、故障者続出の中でフル出場を続け、打率.323・本塁打41・打点108と来日以降最高の成績をマークした。前年まで苦しんでいた左投手に対してもこの年は打率.338をマークするなど完全克服を印象付ける。シーズン終了後に再びメジャー移籍を目指すと思われたが、シーズン終盤に膝を痛めてしまい、オフシーズンに内視鏡手術を受け、オフをリハビリに費やすことになる。巨人の熱心な説得もあり2007年から4年総額30億円(推定年俸6億5千万円)と朝鮮日報が報じたが朝鮮日報、ロイターは年俸二億二千万円と報じている[2]
2007年
背番号を25に変えてプレー。前年に手術した左膝の他に、左肩や左手親指にも炎症を起こすなど故障が多く、2軍降格や7番打者での出場も経験するなど苦しいシーズンとなった。終盤に4番に復帰したものの成績は打率.274・本塁打30・打点74に終わる。巨人は5年ぶりにリーグ優勝し、迎えたクライマックスシリーズ第2ステージでは、3試合で3安打を放つも打点は0。巨人は敗れ日本シリーズ進出はならず、同じ3安打でありながら2本が本塁打で打点5を記録した対戦相手中日の4番タイロン・ウッズとの差が際立った。シーズン中の成績不振及び左手親指付け根の手術を理由に翌年のメジャー挑戦を諦めることを決意したとされている[8]。またこの手術(10月に実施)のために北京オリンピック野球アジア地区予選韓国代表入りを辞退した。
2008年
手術明けであったが、宮崎春季キャンプを2月半ばで早々に切り上げ、3月からの北京オリンピック野球世界最終予選に韓国代表として出場[9]。しかし、その余波でオープン戦には2試合しか出場できず、調整の遅れが生じて開幕から14試合で打率.135・本塁打0・打点2と低迷し、4月14日には早々に登録抹消、2軍落ちとなった。北京オリンピック派遣直前の7月25日に1軍登録されたものの成績は振るわず打率.141という成績のまま、8月3日にオリンピック派遣のためにチームから離脱した。オリンピック終了後、8月28日に1軍登録されたがバーンサイドの登板予定があるため4人の1軍外国人枠(他3人はラミレスクルーングライシンガー)の関係で9月4日に再び2軍落ち。9月14日に1軍登録されてからは復調して最終戦まで5番で起用され、3番小笠原、4番ラミレスとクリーンナップを組んだ。結局このシーズンは、1軍出場は45試合にとどまり、打率.248・本塁打8・打点27。巨人は阪神との最大13ゲーム差を終盤に逆転してリーグ連覇(メークレジェンド)し、迎えた中日とのクライマックスシリーズでは16打数4安打2本塁打4打点。第3戦では逆転本塁打を放つなど活躍した。しかし続く西武との日本シリーズでは一転、18打数2安打12三振と大ブレーキ。チームの日本シリーズ最多三振記録を更新(日本シリーズ記録としても2位)してしまい敗北の一因ともなった。その後、来日以来最低の成績に終わった今年を「野球人生で最悪の1年だった」と振り返り、翌シーズンに集中するとして2009年に開催されるWBCの韓国代表を辞退することを表明した[10]

[編集] 国際大会出場歴

1999年

日韓プロ野球スーパーゲームに韓国オールスターとして出場。また、シドニーオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権に出場し、松坂大輔からホームランを放った。

2000年

シドニーオリンピックに韓国代表として出場。3位決定戦の日本戦でも松坂から決勝タイムリーを放ち、五輪韓国代表初のメダルに貢献した。

2003年

アテネオリンピック野球予選を兼ねたアジア選手権大会でも来日し、日本戦で4打数1安打を記録している。なお、このとき韓国代表は台湾に敗れて予選敗退に終わっている[11]

2006年

WBC第1回大会では、4試合連発を含む5本塁打・10打点で大会最多を記録するなど大活躍で韓国代表を4強に導き、記者投票による優秀選手(ベストナイン)に一塁手として選出された。

2008年

前年のアジア予選には出場しなかったが、北京オリンピックの世界最終予選には出場し、打率.478・本塁打2・打点12を記録して韓国代表を2大会ぶりのオリンピック出場に導いた。オリンピック本戦にも韓国代表として出場したが、シーズンと同様、打率1割台と低迷して韓国内で批判が起き、予選最終戦ではスタメンを外されたものの、準決勝で勝ち越し本塁打、決勝で先制本塁打を打ち、韓国野球初の金メダル獲得に貢献した。

[編集] プレースタイル

一本足のフォームから強い打球を放つパワーヒッター。長打力に優れ、飛距離は時に150mに達することもあり、ライト方向、レフト方向へと広角に打てる。

選球眼の悪さは来日以降未だ改善されていないとされ、四球が少なく三振がかなり多め。加えて、チャンス時に犠牲フライ内野ゴロ打点を稼ぐ器用さに欠ける(得点圏打率自体はそのシーズンの打率とさほど変わらない)。結果として打点が低く、出塁率が悪い(出塁率に関しては日本に来てからリーグ平均を超えたことが1度しかない)。中軸打者としては心許ない印象を与えており、今後の課題の一つである。

内角、特に高めのコースに弱く、不調の時にはストライク判定される球すら腰を引いて逃げてしまうことも多い。左投手の投げるクロスファイアも弱点。

走塁能力は高くはないが常に全力疾走をするために、併殺打は少ない。不振時にはセーフティバントを試みるような精神も持ち合わせている。また、そのバントが上手く、バントを企図した際に失敗してファールになった事は殆ど無い(そもそもの企図数も少ないが、前方に転がす事が上手い)。

ファーストの守備は悪送球を追わないという悪癖や、ボールに触れないための後逸などの不満もあるものの、反面、守備範囲内に飛ぶ速いライナー性の当たりへの反応はよく、たまに巨体を飛ばしてのダイビングキャッチもする。ショートバウンドの捕球も上手い。彼の守備に終始足を引っ張られるというような難点はない。また、ロッテ在籍時には、レフトを守らされたこともあるが、守備範囲が狭く、肩が弱いなど、外野守備への適性は見られなかった。

[編集] エピソード

慶北高校時代、韓国の4大高校野球全国大会の一つである「青龍旗大会」で優勝投手になっている。投打両方で才能を見せたため、その後プロ入りして投手として育てようとする投手コーチと打者として育てようとする打撃コーチの間で口論を呼んだ。しかし、当時監督だった白仁天は彼の打者としての才能が投手としての才能を上回ると見込んで、打者の道を進むことを勧告。その後、打者に専念させられ、ホームラン打者としての才能を開花させた過程は、奇しくも憧れだった王貞治と同じである。国際試合の際に王貞治と撮ってもらったツーショットの写真を自宅に飾っている。

韓国プロ野球在籍時代のニックネームは当時の所属チームが三星ライオンズのため、映画『ライオン・キング』にちなんで「ライオンキング」。韓国のスポーツ紙の一つである「スポーツソウル」が勝手に「スナイパー」という別名をつけて、それを推そうと事あるたびに「スナイパー」を強調したが、他紙や一般のファンにはあまり受け入れられなかった。

1999年に行われた日韓プロ野球スーパーゲームで後に巨人でチームメイトになる上原浩治に対し三振に切って取られたものの「噂ほどの投手ではない。直球も変化球も鄭ミン台先輩の方が遥かに上!」と酷評を加えている[12]

来日第1号本塁打は新垣渚ダイエー)から打った千葉マリンスタジアムでの場外弾で、駐車場に停まっていた車の窓ガラスを割ってしまった。ボビー・バレンタイン監督曰く「こんな大きなホームランは今まで見たことがない。これからはライト側に車は停めない方がいい」。なお、弁償代はロッテが支払っている。

カツ丼が好物で、来日当初は毎日のように食べていた。その他、肉類が好きで韓国では「肉王」という渾名で呼ばれたこともあった。

NHKが日本での成功からメジャー入りまでを描いたドキュメントを製作する予定があったというが、現在のところ放映はされていない[13]

非常に日本語が堪能で、流暢に話す事ができ、リスニングもほぼ完璧である。試合中はベンチで他の選手と談笑している事も多く、ズムサタビールかけでのインタビューの際にも披露しているが、メディアやヒーローインタビュー等の正式な場を設けたインタビューの際は韓国語のみを使う為、李が日本語に堪能な事を知るファンは少ない。公の場で韓国語のみを使用する理由は「外国人選手通訳を介してコメントする事」という球団の方針も関わっていると思われる。ヒーローインタビューでは、李よりも日本語の発音が上手くない韓国人通訳の発音もひとつの楽しみになっている。

2004年9月21日、西武ドームでの西武ライオンズ戦で、ベニーフランコ、李の3人が、張誌家投手から、史上初となる外国人3者連続本塁打を放った。

2006年、阿部慎之助が不振に苦しむ李を韓国語のメッセージで励まし、それから李が不振を脱出したというエピソードがある。同年6月11日の交流戦(対ロッテ、千葉マリン)では、渡辺俊介から勝ち越し2ランを放ったが、ランナーの小関が三塁を空過したため幻となった(最終的に、この打席の記録は単打として扱われた)。

「ヨプ」の文字が表記出来ない環境があるため、ネット上の記事などでは「李承〓(〓は火へんに華)」などと記載されることが多い。また、NHKでの中継では漢字表記でなく「イ・スンヨプ」とカタカナで表記されている。

リュ・シウォンと交流があり、これが縁で2007年の東京ドーム開幕戦でリュ・シウォンは始球式を務めた。

2007年から大活躍したWBCでの番号である、25に背番号を変更した。三星時代の親しい後輩である裵英洙の背番号で、WBCで25番を付けたのも彼と背番号を交換したためである。ちなみに裵英洙は、この大会で、それまで李承燁の背番号だった36をつけていた。また、25番は選手として目標としている選手の一人であるバリー・ボンズの番号でもある。韓国時代に36番をつけたのは、打者に定着する時、それまで韓国プロ野球で個人通算および年間最多本塁打を記録していたハンファ・イーグルスの張鍾熏(チャン・ジョンフン)を超えろという意味で彼の背番号である35より一つ大きい36を与えられたからである。高校時代の背番号は27であった。

巨人に移籍後、打席に入る際のBGMはジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツの『I Love Rock n'Roll』を使用している。2007年7月に、来日4シーズン目で通算100号本塁打を達成したことを記念して、韓国起亜自動車から高級車「ニューオピラス」が贈呈された[14]

[編集] 年度別野手成績
































O
P
S
1995 三星 121 411 365 55 104 29 1 13 174 73 0 3 2 7 33 1 4 54 4 .285 .345 .477 .822
1996 122 504 459 57 139 32 6 9 210 76 4 1 1 5 34 4 5 42 10 .303 .354 .458 .812
1997 126 577 517 96 170 37 3 32 309 114 5 2 1 4 49 4 6 79 10 .329 .391 .598 .989
1998 126 568 477 100 146 32 2 38 296 102 0 2 1 7 78 10 5 97 4 .306 .404 .621 1.025
1999 132 614 486 128 157 33 2 54 356 123 10 2 0 4 112 6 12 114 7 .323 .458 .733 1.191
2000 125 544 454 108 133 33 0 36 274 95 4 5 0 3 80 7 7 113 5 .293 .404 .604 1.008
2001 127 574 463 101 128 31 2 39 280 95 4 2 1 2 96 11 12 130 6 .276 .412 .605 1.017
2002 133 617 511 123 165 42 2 47 352 126 1 2 0 2 89 5 15 109 11 .323 .436 .689 1.125
2003 131 596 479 115 144 23 0 56 335 144 7 0 0 6 101 9 10 89 11 .301 .428 .699 1.127
2004 ロッテ 100 382 333 50 80 20 4 14 150 50 1 2 1 3 42 0 3 88 6 .240 .328 .450 .779
2005 117 445 408 64 106 25 2 30 225 82 5 4 0 3 33 3 1 79 9 .260 .315 .551 .866
2006 巨人 143 592 524 101 169 30 0 41 322 108 5 1 0 7 56 3 5 126 5 .323 .389 .615 1.003
2007 137 583 541 84 148 29 2 30 271 74 4 3 2 1 38 0 1 119 8 .274 .322 .501 .823
2008 45 170 153 21 38 4 0 8 66 27 1 0 0 0 11 0 6 37 3 .248 .324 .431 .755
KBO:9年 1143 5005 4211 883 1286 292 18 324 2586 948 35 19 6 40 672 57 76 827 68 .305 .407 .614 1.021
NPB:5年 542 2172 1959 320 541 108 8 123 1034 341 16 10 3 14 180 6 16 449 31 .276 .339 .528 .867
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の赤太字は歴代最高、太字はリーグ最高
  • KBO成績の太字のうち、本塁打は歴代2位、打点は歴代3位、得点は歴代4位、打率は歴代6位

[編集] タイトル・表彰・記録

[編集] 韓国

  • MVP:5回(1997年、1999年、2001-2003年)
  • 本塁打王:5回(1997年、1999年、2001-2003年)
  • 打点王:4回(1997年、1999年、2001-2002年)

[編集] 日本

[編集] WBC

[編集] 個人記録

[編集] 背番号

[編集] 脚注

先代:
小久保裕紀
読売ジャイアンツ4番打者
第70代
次代:
二岡智宏