赤塚不二夫
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| 赤塚 不二夫 | |
|---|---|
| 本名 | 赤塚 藤雄 |
| 生誕 | 1935年9月14日 (現・中華人民共和国北京市密雲縣古北口と河北省承德市灤平県との境界線。) |
| 死没 | 2008年8月2日(満72歳没) |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 漫画家 |
| 活動期間 | 1956年 - 2002年 |
| ジャンル | ギャグ漫画、少女漫画 |
| 代表作 | 『天才バカボン』 『おそ松くん』 『もーれつア太郎』 『ひみつのアッコちゃん』 |
| 受賞 | 第10回小学館漫画賞 (『おそ松くん』) 第18回文芸春秋漫画賞 (『天才バカボン』) 第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞 紫綬褒章 |
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赤塚 不二夫(あかつか ふじお、1935年(昭和10年)9月14日 - 2008年(平成20年)8月2日)は、日本の漫画家。本名は赤塚 藤雄(あかつか ふじお)。血液型A型。本籍地は新潟県内。
旧満州国に出生。終戦後に日本に引き上げ、1953年に上京。1956年に少女漫画『嵐をこえて』で漫画家としてデビュー、その後手塚治虫を慕いトキワ荘に入居。以後少女漫画の『ひみつのアッコちゃん』、ギャグ漫画『おそ松くん』『天才バカボン』などの人気作を発表。代表作はそれぞれ数度に渡りアニメ化されており、「シェー」(『おそ松くん』)「これでいいのだ」(『天才バカボン』)など多くの流行語を生み出した。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 満洲 - 新潟時代
1935年(昭和10年)、満州国熱河省に生まれ、6人兄弟の長男として育つ。後に「バカボンのパパ」のモデルとなった[1]父親は、憲兵やスパイとして僻地で宣撫工作を行う特務機関員をしていた[2]。
赤塚が10歳の時、第二次世界大戦終戦。父親は終戦直前にソビエト軍によってソビエトへ連行され、裁判にかけられることとなった。残された家族は1946年(昭和21年)に奉天から母の故郷の奈良県大和郡山市に引き揚げた。帰国までに妹(次女)の綾子はジフテリアにより死去し、弟は他家へ養子に出されたため、日本に帰還する頃には兄弟は半数となった。死んだ次女の名を継いだ生後6ヶ月の妹・綾子も、母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため死去。その時、赤塚の母親には泣く気力もなく、赤塚は「胸がえぐられるようだった」という[3][4]。 赤塚は小学校に編入し、5年生となった。
満州にいた頃は父親から漫画を読むことを禁じられ、引き揚げ後は一家が生活苦の状態にあった赤塚は、同級生が『のらくろ』や『冒険ダン吉』の話をしていてもついていけなかったが、2学期の時、貸本屋で5円で漫画を借りて読んだところ、すぐに夢中となった。その頃に手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意、漫画の執筆に没頭することとなった[2]。12歳の時には『ダイヤモンド島』というSF長編漫画を描き、大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行った[5]。
1949年(昭和24年)、父親が帰国。父の故郷の新潟県に移り中学校を卒業後、金銭的な問題のために高校への進学は断念。少しでも絵に関係した仕事に就きたいという思いから、映画の看板を制作する市内の看板屋に就職した。仕事柄あらゆる映画を鑑賞することとなり、バスター・キートンやチャーリー・チャップリンの喜劇に感銘を受けた[2][6][5]。同時に『漫画少年』への投稿も始めた。
[編集] トキワ荘時代
18歳の時に上京。東京都江戸川区の化学工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人となった。が、つげ義春に独立を勧められ貸本漫画家として一本立ちする事を決意。同人のよこたとくおと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動する事となり1956年(昭和31年)、曙出版から描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー[5]。
その後、不二夫も上京した石森を手伝う形で鈴木伸一や藤子不二雄らのいた豊島区のトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。のちに赤塚の母も上京し、しばらくの間同居した[7]。 後にブレイン役として長く不二夫を支えた長谷邦夫ともこの頃知り合う。当時赤塚はトキワ荘一の美青年として認識されていた[8]。
当時の不二夫は石森のアシスタントの傍ら、数ヶ月に一本程度の少女漫画を描いていた。横山光輝の出張アシスタントも経験。1958年、作家不足に陥った『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石ノ森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか」[9]名義で作品を発表した。
合作の楽しさから続いて石ノ森と水野英子との合作ペンネーム「U・マイア」[10]で『赤い火と黒かみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』を合作し発表。同年、石森の推薦[7]で『まんが王』(秋田書店)11月号の穴埋めのために描いたギャグ漫画「ナマちゃん」がヒットしてそのまま連載扱いになる。1961年、最初の妻・登茂子との結婚のためにトキワ荘を退去[11]。
[編集] フジオプロ設立
1962年(昭和37年)、『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となる。1964年(昭和39年)、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。1965年(昭和40年)、長谷、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等と東京都新宿区十二社にフジオ・プロダクションを設立(#フジオ・プロダクション参照)。この年に長女のりえ子が誕生[12]。 また1963年に、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加[13]。 1966年(昭和41年)には『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作により毎日放送系でテレビアニメ化された。
1967年(昭和42年)、『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」を発表。天才ギャグ作家として時代の寵児となる。1969年(昭和44年)に『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』、1971年(昭和46年)に『天才バカボン』と、代表作が相次いでテレビアニメ化された。以後2008年現在までに『天才バカボン』は4度、『ひみつのアッコちゃん』は3度、『おそ松くん』『もーれつア太郎』が2度にわたりテレビアニメ化されている。
1972年(昭和47年)、『天才バカボン』で文芸春秋漫画賞を受賞。また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『まんがNo.1』を創刊。実質的な編集作業は長谷が行い、不二夫の荒唐無稽なイメージを伝える事に腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字を出し、1973年(昭和48年)に6号で休刊[14]。 1974年(昭和49年)、実験的に山田一郎というペンネームに改名し、連載中の作品をすべて同名義で執筆したが、3ヶ月で元に戻した。
[編集] 闘病生活、そして晩年
1987年(昭和62年)、多忙を極める中アルコール依存症に陥っていた不二夫のサポートをと、別れた最初の妻・登茂子が勧めたことにより、眞知子夫人と結婚。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席した[15]。
以後入退院を繰り返すも依存症から回復せず、このため1994年(平成6年)、長年アイデアブレーンとして赤塚を支えてきた長谷がやむなくフジオプロを脱退した[16]。 1998年に食道がんが見つかってからも酒は手放さなかったという。
1997年(平成10年)、第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。1998年(平成11年)、紫綬褒章を受章。
2000年(平成12年)4月、硬膜下血腫で手術[12]。8月、点字の漫画絵本『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表。ある日テレビで見た視覚障害をもつ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈された。なお、赤塚は同書を少しでも安い価格で提供するためにと、印税を辞退している[17][18]。
2002年(平成13年)には点字絵本の第2弾『赤塚不二夫のさわる絵本“ニャロメをさがせ!”』を発表。
2002年4月、検査入院中に脳内出血を起こし倒れ、一切の創作活動を休止。この年に小学館からデビュー以降の作品を集めたDVD全集『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-BOX』が発売された。2005年からはオンデマンド出版形式で全271巻が販売されている[19]。 2003年(平成14年)、妻の尽力により青梅市に青梅赤塚不二夫会館を設立。
2006年(平成18年)7月、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急逝[20]。 2年後の2008年(平成20年)8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都内の順天堂医院で死去した。最後まで意識が戻ることはなかった。72歳没[21]。赤塚は2004年から意識不明のまま植物状態にあったという[22]。 2008年2月24日にはちばてつやが赤塚を見舞い、似顔絵をブログで公開していた[23]。 また赤塚の死去の3日前の7月30日に、最初の妻でありりえ子の母である登茂子が死去していた事が後に報じられた[24][25]。
赤塚不二夫の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げた他、一般紙も一面で大きく掲載した。また、民放各局ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げるなど、一連の報道は彼が一時代を築いた漫画家であったことを改めて世間大衆に印象付ける形となった。
また赤塚が才能を見出し、芸能界へデビューさせたタモリは「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉も載せた[26]。
赤塚の葬儀では、藤子不二雄A(安孫子素雄)[27]が葬儀委員長を務めることとなり、8月6日に通夜、翌7日に告別式が東京都中野区内の寺で営まれた。告別式には漫画・出版関係者や芸能関係者、ファンなど約1200人が参列し、藤子不二雄A、古谷三敏、北見けんいちらが弔辞を読み上げた。タモリは本名の森田一義として弔辞を読み[28]、「私もあなたの数多くの作品の一つです」と結んだ[24][29]。 アイドル・フォーが歌う「天才バカボン」のアニメ第1作のテーマソングが葬送曲として流れる中で出棺、遺体は赤塚の自宅にほど近い新宿区の落合斎場で荼毘に付された。法名は「不二院釋漫雄(ふにいんしゃくまんゆう)」[30]。
[編集] 人物
愛猫家。1979年から飼った菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者な猫でCMに出演、一躍人気者になった。『菊千代』の名前は、黒澤明監督の映画『七人の侍』で三船敏郎演じた主人公の名前から採った。不二夫自身も『花の菊千代』(コロコロコミック連載)といった漫画を描いた。しかし1997年に菊千代は他界、不二夫自身のみならず周辺のファンをも悲しませた。
映画通でありハタ坊のコミカルな動きはバスター・キートンを範としていること、自分でパロディ映画を作ったことがあることなどを明かしている。自宅のライブラリーには(当時としては高価で珍しい)大画面モニターと、数千本の映画のビデオがあったという。また、少年時代の夢は喜劇王チャーリー・チャップリンの弟子になることだったという。
[編集] 芸能界での交流
1967年、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を、黒柳徹子と共に担当[31]。 これを機に、不二夫の交流は立川談志、荒木経惟、坂田明、篠原勝之、唐十郎など各界に広がった。後に受章する紫綬褒章は荒木経惟に贈っている。
1970年代半ばには山下洋輔等を介してタモリと出会う。タモリの芸を認めた不二夫は大分県日田市のボウリング場の支配人であったタモリを上京させ、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、のちの芸能界入りに大きな貢献をした。またタモリや高平哲郎、滝大作らと「面白グループ」を結成した。高平からは由利徹を紹介され、その後由利の弟子だったたこ八郎が赤塚家の居候となった(赤塚は終生、由利徹を敬愛していた[32])。 この他にも青島幸男、川内康範[33]、美空ひばり[34]など、様々な人物と交友をもっていた。
1970 - 80年代の、テレビで放映される洋画などの音響効果担当者に同姓同名の“赤塚不二夫”がおり、下記のアルバム『ライヴ・イン・ハトヤ』でも音響効果を担当するなど、ふたりは親交があった。
[編集] フジオ・プロダクション
1965年に長谷、古谷、横山孝、高井等と設立。長谷と古谷が主にブレーンを務め、不二夫がネーム(コマ割りとセリフ)とアタリ(ラフな下描き)を作成し、高井と古谷(のちにあだち勉など)が下絵を完成させて製作を進行。全てのスタッフがアイデア出しや作画に協力するという分業での制作を行っていた[35]。 現在は故・眞知子夫人に替わって長女のりえ子(ロンドン在住の現代美術アーティストであった)が、フジオ・プロダクションの社長を務めている。
[編集] 元アシスタント
フジオプロの場合、特に古株は赤塚と年齢も近いため師弟関係はなく実質的共同製作者である。
- 長谷邦夫
- 古谷三敏
- 高井研一郎
- 横山孝雄
- 北見けんいち
- とりいかずよし
- 土田よしこ
- あだち勉
- 佐々木ドン
- 木崎しょうへい
- てらしまけいじ
- 河口仁
- 及川こうじ
- キリ光乗
- 近藤洋助
- 椎屋光則
- なかのゆみ
- 南ひろゆき
[編集] 作品リスト
[編集] 連載作品
- くらやみの天使 (1958年-1959年、少女クラブ)
- ナマちゃん (1958年-1963年、漫画王)
- まつげちゃん (1958年-1961年、ひとみ)
- まりっぺ先生 (1959年、りぼん)
- おハナちゃん (1960年-1961年、少女クラブ)
- ハッピィちゃん (1960年-1961年、りぼん)
- トンネルチーム (1960年-1961年、たのしい四年生)
- おカズちゃん (1960年-1961年、たのしい五年生)
- がんばれマミちゃん (1960年、なかよし)
- ホームラン教室 (1960年-1961年、冒険王)
- 原作・高垣葵、初回は石森章太郎との合作
- あらマアちゃん (1960年-1961年、なかよし)
- ボクはなんでもしっている (1961年-1962年、たのしい五年生)
- カン太郎 (1961年、冒険王)
- ママなにしてるの (1961年、たのしい三年生)
- キツツキ貫太 (1961年、週刊少年マガジン)
- まつげちゃん (1961年、りぼん)
- おそ松くん (1962年-1967年、週刊少年サンデー)
- オーちゃんと11人のなかま (1962年-1963年、たのしい五年生)
- ジンクスくん (1962年-1963年、中一コース)
- ひみつのアッコちゃん (1962年-1965年、りぼん)
- 青い目の由紀 (1962年、少女クラブ)
- すすめ! ケン太郎 (1962年、漫画王)
- カン太郎 (1962年、冒険王)
- おた助くん (1963年-1965年、小学四年生)
- アイ・アム・ア・トランジスターボーイ (1963年-1964年、中一コース)
- サーカス☆ジン太 (1963年-1964年、冒険王)
- まかせて長太 (1963年-1965年、少年)
- カン太郎 (1964年-1965年、少年ブック)
- メチャクチャ No.1 (1964年-1968年、冒険王)
- そんごくん (1964年-1965年、小学四年生)
- ケンちゃん (1964年-1965年、朝日新聞日曜版)
- しびれのスカタン (1965年-1968年、少年画報)
- そんごくん (1965年、小学五年生)
- $ちゃんとチビ太 (1965年-1966年、少年ブック)
- なんでもやろうアカツカくん (1965年、少年ブック)
- おた助・チカちゃん (1965年-1966年、小学四年生)
- ジャジャ子ちゃん (1965年-1967年、少女フレンド)
- 過激派七年生 (1965年、別冊漫画サンデー)
- ユー・ラブ・ミー君 (1965年-1966年、平凡)
- いじわる教授 (1965年、ボーイズライフ)
- キビママちゃん (1965年-1966年、りぼん)
- スリラー教授 (1966年、ボーイズライフ)
- 怪盗1/2面相 (1966年、少年ブック)
- 中一コースケ (1966年、中一コース)
- いじわる一家 (1966年、少女フレンド)
- 赤塚不二夫のガンバリまショー (1967年、少年ブック)
- ミータンとおはよう (1967年、りぼん)
- スリラー一家 (1967年、少女フレンド)
- 天才バカボン (1967年-1969年、週刊少年マガジン)
- 天才バカボン (1967年-1969年、別冊少年マガジン)
- スリラー教授 (1967年、ボーイズライフ)
- ハレハレ学園 (1967年、中一コース)
- たまねぎたまちゃん (1967年-1969年、小学一年生)
- へんな子ちゃん (1967年-1968年、りぼん)
- テッちゃんただいまケンカ中 (1967年、少女フレンド)
- おそ松くん (1967年-1969年、週刊少年サンデー)※月一連載
- もーれつア太郎 (1967年-1970年、週刊少年サンデー)
- ヒッピーちゃん (1967年-1968年、少女フレンド)
- 荒野のデクの棒 (1968年、週刊少年キング)
- なんでもヤリます (1968年、週刊漫画サンデー)
- 高井研一郎との合作
- 花のデコっ八 (1968年、週刊少年サンデー増刊)
- われら8(パー)プロ (1968年、週刊少年キング)
- パア助くん (1968年-1969年、小学二年生)
- 二代目社長 一郎くん (1968年-1969年、小学四年生)
- ひみつのアッコちゃん (1968年-1969年、りぼん)
- まんが大学院 (1969年、少年ブック)
- にわとり一家 (1969年、週刊少年キング)
- SOSエンチャカ丸 (1969年、小学四年生)
- やってきた(おいら)ズル長 (1969年、少年ジャンプ)
- ハレンチ名作シリーズ (1969年、りぼんコミック)
- 天才バカボン (1969年-1970年、週刊少年サンデー)
- 天才バカボン (1969年-1970年、デラックス少年サンデー)
- 天才バカボンのおやじ (1969年-1973年、週刊漫画サンデー)
- 赤塚ギャグ笑待席 (1969年、少年ジャンプ)
- おれはゲバ鉄 (1970年、週刊少年ジャンプ)
- 風のカラッペ (1970年-1971年、週刊少年キング)
- ギャグ+ギャグ (1970年、週刊少年サンデー)
- ぶッかれ※ダン (1970年-1971年、週刊少年サンデー)
- 死神デース (1970年-1971年、ぼくらマガジン)
- 狂犬トロッキー (1971年、週刊少年マガジン)
- シナリオ・滝沢解
- ハタ坊 (1971年、赤旗日曜版)
- くりくりくりちゃん (1971年-1972年、幼稚園)
- おれはバカラス (1971年、週刊少年キング)
- 天才バカボン (1971年、ぼくらマガジン)
- 天才バカボン (1971年-1975年、週刊少年マガジン)
- レッツラゴン (1971年-1974年、週刊少年サンデー)
- ワルリーマン (1971年-1972年、東京タイムズ)
- にちようパパ (1971年-1972年、東京タイムズ日曜版)
- ケムゴロー (1971年-1972年、小学四年生)
- 名人 (1971年-1973年、リイドコミック)
- 天才バカボン (1971年-1975年、月刊テレビマガジン)
- 赤塚不二夫とフジオ・プロ名義
- ワンペイ (1972年、赤旗日曜版)
- おそ松くん (1972年-1973年、週刊少年キング)
- クロッケくん (1972年-1973年、小学四年生)
- はくち小五郎 (1972年-1974年、冒険王)
- ギャグゲリラ (1972年-1982年、週刊文春)
- クソばばぁ (1972年-1973年、まんがNo.1)
- ワンペイモウチャン (1972年-1973年、赤旗日曜版)
- スケ番ケロ子 (1973年、週刊少年チャンピオン)
- 天才バカボンのパパ (1973年、まんがNo.1)
- 歌謡曲シリーズ (1973年、月刊明星)
- ニャロメ (1973年-1974年、リイドコミック)
- ギャグギゲギョ (1974年、週刊少年キング)
- おいらダメ高 (1974年、高二コース)
- 少年フライデー (1974年-1975年、週刊少年サンデー)
- 天才バカボン (1974年-1975年、別冊少年マガジン)
- オッチャン (1974年-1975年、週刊少年キング)
- ワルワルワールド (1974年-1975年、週刊少年チャンピオン)
- おまわりさん (1974年、全電通文化)
- つまんない子ちゃん (1975年-1976年、プリンセス)
- ニャンニャンニャンダ (1975年-1976年、冒険王)
- B.C.アダム (1975年、週刊少年マガジン)
- のらガキ (1975年-1976年、週刊少年サンデー)
- オッチャン PARTII (1975年-1976年、週刊少年キング)
- ラクガキ (1975年、読売新聞日曜版)※月一連載
- 四畳半の西日 (1975年、新潟日報)
- 天才バカボン (1975年-1978年、月刊少年マガジン)
- 天才バカボン (1975年-1976年、週刊少年マガジン)
- 元祖天才バカボン (1975年-1977年、月刊テレビマガジン)
- ひさし・不二夫の漫画全集 (1976年、週刊小説)
- わんぱく天使 (1976年-1977年、プリンセス)
- 母ちゃんNo.1 (1976年-1977年、週刊少年サンデー)
- コングおやじ (1976年-1977年、週刊少年キング)
- タトルくん (1976年、マンガくん)
- 建師ケン作 (1977年、週刊少年マガジン)
- 原作・牛次郎
- 怪球マン (1977年-1978年、どっかんV)
- 不二夫のギャグありき (1977年、週刊少年サンデー)
- ハウスジャックナナちゃん (1977年、週刊少年マガジン)
- あんたが名人 (1977年、月刊コミック野郎)
- おバカさん (1978年、週刊少年マガジン)
- 原作・遠藤周作
- アニマル大戦 (1978年、週刊少年キング)
- ちびママ (1978年-1979年、どっかんV)
- アニメまんが (1978年、アニメージュ)
- ニャロメの研究室 (1978年、コスモコミック)
- ギャグランド (1979年、リイドコミック)
- モンスター13番地 (1979年、少年チャレンジ)
- おじさんはパースーマン (1979年-1981年、小学五年生)
- ロメオとジュリー (1980年、少年チャレンジ)
- チビドン (1980年-1981年、コロコロコミック)
- キャスター (1980年-1981年、ポップコーン)
- パパッチ先生 (1980年-1981年、少年少女新聞)
- なんじゃらママ (1980年、少年チャレンジ)
- 乙女座★虎右衛門 (1981年、週刊ヤングジャンプ)
- 花の菊千代 (1981年-1982年、コロコロコミック)
- 四谷H (1981年、少年ジェッツ)
- 赤塚不二夫のギャグ・フォトランド (1981年-1982年、ショートショートランド)
- 不二夫のワルワル・ワールド (1982年-1983年、別冊コロコロコミック)
- 赤塚不二夫の文学散歩 (1983年-1985年、オール讀物)
- 松尾馬蕉 (1983年、平凡パンチ)
- 週刊スペシャル小僧! (1983年-1984年、週刊少年チャンピオン)
- TOKIOとカケル (1985年、週刊少年チャンピオン)
- トキワ荘グループ テーマ競作選 (1985年-1986年、コミックWOO)
- 「大先生」を読む。 (1986年-1989年、ビックコミックオリジナル)
- 天才バカボン (1987年-1989年、コミックボンボン)
- おそ松くん (1987年-1990年、コミックボンボン)
- 天才バカボン (1988年-1989年、月刊少年マガジン)
- ひみつのアッコちゃん (1988年-1989年、なかよし)
- 天才バカボン (1989年-1991年、月刊ヒーローマガジン)
- 平成天才バカボン (1990年-1991年、コミックボンボン)
- もーれつア太郎 (1990年-1991年、コミックボンボン)
- 大日本プータロー一家 (1990年-1991年、コミックボンボン)
- へんな子ちゃん (1990年-1994年、週刊女性)
- ギャグ屋 (1991年、週刊現代)
- MR・マサシ (1991年-1992年、コミックボンボン)
- 平成天才バカボン (1991年-1992年、デラックスボンボン)
- そんごくん (1992年、デラックスボンボン)
- ネコの大家さん (1993年-1994年、デラックスボンボン)
- 母ちゃんNo.1 (1994年-1995年、デラックスボンボン)
- 下落合シネマ酔館 (1994年-1996年、ビッグゴールド)
- 赤塚不二夫&やまさき十三名義。映画について語る対談連載
[編集] 共同作品
- くらやみの天使(U・マイア名義。ほか2作。いずれも石ノ森、水野英子との合作)
- ちりぬるを…(いずみあすか名義。ほか3作。石ノ森との合作。「石塚不二太郎」名義の作品も1作あり)
- おハゲのKK太郎(藤子・F・不二雄との合作。チビ太とオバQの共演)
- ギャハハ西遊記(藤子不二雄、つのだじろうとの合作)
- しびれのスカタン(原案とキャラクターデザインを担当。実際は長谷邦夫の作品)
- オールナイトデッコ(原案を担当。実際は古谷の作品。不二夫の名前を出していないが、初期の『ダメおやじ』も同様のケース[36]。なお、古谷との共作は青年誌向けを中心に他に数作ある)
- 聖ハレンチ女学院(古谷、芳谷圭児との合作)
- 天才バカボンのおやじ(連載途中より古谷が作画を担当)
- 元祖天才バカボン(不二夫名義だが、長谷が作画を担当)
- 風のカラッペ(佐々木ドンとの共作)
- おれはバカラス(佐々木との共作)
- 48チビ(佐々木との共作)
[編集] 代表的なギャグ
- シェー!(『おそ松くん』、イヤミ)
- だよーん(『おそ松くん」、ダヨーン)
- これでいいのだ!(『天才バカボン』、バカボンのパパ)
- 賛成の反対なのだ!(『天才バカボン』、バカボンのパパ)
- 不思議だが本当だ。本当だが不思議だ(『天才バカボン』、バカボンのパパ)
- おでかけですか?レレレのレ(『天才バカボン』、レレレのおじさん)
- タイホする!(『天才バカボン』、おまわりさん)
- 国会で青島幸男が決めたのか?(『天才バカボン』ほか)
- 忘れようとしても思い出せない(『天才バカボン』ほか)
- …でやんす(『もーれつア太郎』、ケムンパス)
- …のココロ?(『もーれつア太郎』、ココロのボス)
- …べし(『もーれつア太郎』、べし)
- …だニャロメ!(『もーれつア太郎』、ニャロメ)
[編集] 漫画以外でイラストを描いた作品
- 『映画批評』表紙イラスト(1972年-1973年)
- 山下洋輔トリオ:アルバム『ミナのセカンド・テーマ』内(うち)ジャケット(※べしを描いた)
- 喜納昌吉&チャンプルーズ:フィリップスレコードから出されたシングル「ハイサイおじさん」ジャケット
- でん六:節分用豆製品の付録として“赤塚不二夫の鬼の面”をデザイン。
- ゲームソフト(メガCD、PCエンジン)『爆伝 アンバランスゾーン』(SME、1994年)※キャラクターデザインを担当[37]。
[編集] 漫画以外の活動
[編集] 全日本満足問題研究会
1976年から、「週刊読売」誌上で「全日本満足問題研究会」(不二夫、赤瀬川原平、奥成達、高信太郎、長谷)と名乗り、「バカなことを真面目にやる」連載を行った。1978年には、レコード『ライヴ・イン・ハトヤ』を発表。
[編集] ライヴ・イン・ハトヤ
伊東市のホテル、ハトヤのステージでライブコンサートをやったらどうなるかという設定で作られた。
- 出演:赤塚不二夫/赤瀬川原平/長谷邦夫/奥成達/高信太郎/タモリ/山下洋輔/坂田明/小山彰太/林美雄/常木健男/伊東鳩子/ハトヤ混声合唱団/下落合テンタクルス/ハトヤ男子従業員一同/ビクター女子従業員一同/ハトヤ・ダンシングチーム/ハトヤ・オールスターズ
- 指揮:佐香裕之
- スタッフ:構成・演出:高平哲郎/音楽:小林亜星、佐香裕之/舞台監督:新井龍夫、星野ジロウ/美術:赤塚不二夫/音響効果:赤塚不二夫/セットデザイン:茂木のぶお/写真:国玉照男/録音:寺尾寿章、佐藤晋/振付:滝大作/制作:全日本満足問題研究会/協力:伊東ハトヤ、面白グループ、協和広告(株)
[編集] 面白グループ[38]
タモリや高平、滝らと結成したグループ。
- 1977年3月、タモリの初LPの完成記念キャンペーンとして、タモリと東京ヴォードビル・ショーの共演によるショー「タモリ・ヴォードビル・ウィーク」を企画・制作。
- 1978年11月、渋谷公会堂で『輝け!第一回いたいけ祭り』というタモリや赤塚の“宴会芸”を見せるイベントを行うが赤字。奥成達編集で書籍『空とぶ宴会芸』が刊行され、赤字を埋めた。
- 1979年3月、日活ロマンポルノにて監督:山本晋也、脚本:面白グループ、主演:柄本明、主題歌:所ジョージ、音楽:アルフィーで”赤塚不二夫のギャグ・ポルノ”として『気分を出してもう一度』を製作・公開。また同年6月、東映系で『ケンタッキー・フライド・ムービー』の日本版『下落合焼とりムービー』を監督:山本晋也、脚本・出演:面白グループで製作・公開。
- 1981年、面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生2人が執筆した書籍『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本『SONO・SONO(ソノソノ)』を刊行しベストセラーに。1986年には『ソノソノ』をミュージカル・ショーにして、銀座博品館劇場で『Oh! SONO・SONO(オー・ソノソノ)』を上演した。
[編集] 出演番組
※太字はタモリとの共演のあった番組
- お笑いスター誕生!!(日本テレビ、1980年~1984年ごろ)
- 徹子の部屋(テレビ朝日、1981年)ゲスト出演
- 今夜は最高!(日本テレビ、1981年)ゲスト出演
- 24時間テレビ 「愛は地球を救う」(日本テレビ、1981年)
- 笑っていいとも!(フジテレビ)数回ゲスト出演
他
[編集] 演じた俳優
- 堤大二郎 - NHKドラマ新銀河『これでいいのだ』
- 松田洋治 - NHK銀河テレビ小説『まんが道青春篇』
- 大森嘉之 - 映画『トキワ荘の青春』
- 水橋研二 - フジテレビ土曜プレミアム『これでいいのだ!!赤塚不二夫伝説』
[編集] 参考文献
- 長谷邦夫 『ギャグにとり憑かれた男―赤塚不二夫とのマンガ格闘記』 ISBN 4938913151
- 武居俊樹 『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』 ISBN 4163670807
[編集] 脚注
- ^ 赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!! パパの質問コーナー・片眼のジャックさんからの質問
- ^ a b c 日本漫画学院 赤塚不二夫インタビュー参考。
- ^ 武居俊樹・著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(文春文庫・2007年、P.69~74)より。
- ^ 2008年8月13日付『しんぶん赤旗』掲載・石子順「赤塚不二夫さんを送る」より。
- ^ a b c Villagecenter赤塚不二夫プロフィール
- ^ トウキョウトラッシュ MEDIA TRASH 赤塚不二夫インタビュー プロフィール
- ^ a b 「これでいいのだ!!赤塚不二夫伝説」(フジテレビ・2008年11月1日放映)[1]参考。
- ^ 2005年・二見書房刊「赤塚不二夫のおコトバ」P.60に「(トキワ荘仲間の中で)オレだけ彼女がいたんだよ。ハンサムだったから」という不二夫の発言が、藤子不二雄Aによって紹介されている。
- ^ 原稿提出日を「今日か明日か」と言うことから「泉鏡花」を連想し、そこをもじって「いずみあすか」となった(石ノ森章太郎 萬画大全集 動画インタビュー 水野英子・丸山昭(元『少女クラブ』編集長)対談(第2回))。
- ^ 3人ともワーグナーが好きだったためドイツ名の「マイヤー」が候補となり、そこにU(ドイツ読みでウー)を付け「うまいやー」となり3人の頭文字(水野のM、石ノ森のI、赤塚のA)になるようにもじって「U・MIA」、表記をカタカナとし「U・マイア」となった(石ノ森章太郎 萬画大全集 動画インタビュー 水野英子・丸山昭(元「少女クラブ」編集長)対談(第2回))。
- ^ INAXサウンドオブマスター くにまる東京歴史探訪
- ^ a b ZAKZAK 2004/09/06 赤塚不二夫さん頑張るのだ!幻の名作を初単行本化
- ^ ただし赤塚は同社の出版部門のみに属し、アニメーション部門にはノータッチであった。文藝別冊 KAWADE夢ムック「総特集 赤塚不二夫 ふしぎだけどほんとうなのだ」(2008年、河出書房新社)P.249より。
- ^ 北島町HOMEPAGE|文化ジャーナル|文化ジャーナル9月号『まんがNo.1』の時代(14)長谷邦夫さん◎インタビュー
- ^ 「これでいいのだ!!赤塚不二夫伝説」(フジテレビ・2008年11月1日放映)[2]参考。左から登茂子・不二夫・眞知子・りえ子の順に並んで座って行った。
- ^ 北島町HOMEPAGE 文化ジャーナル
- ^ 武居俊樹・著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(文春文庫・2007年、P350~351)より。
- ^ 2001年5月5日放送「美と出会う」漫画家 赤塚不二夫~ギャグのココロは愛なのだ~(NHK教育)より。
- ^ [3]にて発売中。未収録のタイトルやエピソード(「少年キング」版『おそ松くん』など)もある。
- ^ ZAKZAK 2006年7月25日 赤塚不二夫さんの妻、眞知子さんがまさかの死
- ^ “漫画家 赤塚不二夫さん死去”, スポーツ報知 (2008-08-02).
- ^ なぎら健壱FC会報
- ^ ちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』
- ^ a b 赤塚さん葬儀委員長は藤子不二雄(A)氏 エキサイトニュース参考。
- ^ ぐずてつ日記 2008年8月2日
- ^ “タモリ、赤塚不二夫さんへコメント「先生、ありがとうございました」”, スポーツ報知 (2008-08-02).
- ^ 「藤子不二雄A」 の「A」は正しくは、○で囲んだ A。
- ^ なお、真偽不明ながら、彼が手にした紙に弔辞が記されていなかった可能性が一部で報じられ、話題となった。項目タモリを参照。
- ^ タモリの弔辞の全文
- ^ 漫画好きで知られる麻生太郎自由民主党幹事長(当時)もコメントした。
- ^ コミックパーク特別企画〜赤塚ギャグの合奏者たち
- ^ 武居俊樹・著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(文春文庫・2007年、P244~245)に「オレ、由利徹、尊敬しているの。あの人、ずうっと、くだらないことやり続けてるじゃない」「オレは由利徹で行く。死ぬまでくだらない漫画描き続ける」という、不二夫の発言がある。
- ^ 1989年5月、あるパーティーで川内と初めて会った際、かつて『天才バカボン』の作中で「月光仮面は誰でしょう」の替え歌(「ウナギイヌの歌」」)を川内に無断で作り、載せていたことに関し、不二夫は「勝手に書いてすみませんでした」と頭を下げ、それを受けて川内は「いいよいいよ」と笑って応えた。それ以来、二人の親交は続いたという(2005年・二見書房刊「赤塚不二夫のおコトバ」P.142~143より、川内の証言)。
- ^ 「これでいいのだ!!赤塚不二夫伝説」(フジテレビ・2008年11月1日放映)[4]参考。新宿ゴールデン街でよく2人で飲んでいたとのこと。
- ^ コミックパーク特別企画〜赤塚ギャグの合奏者たち〜
- ^ 『ダメおやじ』は古谷名義の作品だが、その初期においては他の赤塚名義で発表された作品と同様のスタイルで制作されており(仕上げは古谷が担当)、後に古谷が単独で描くようになった。武居俊樹・著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(文春文庫・2007年、P214~215、P.235)より。
- ^ ゲームクエスト:作品データ(毎日jp まんたんウェブ)
- ^ 文藝別冊 KAWADE夢ムック「総特集 赤塚不二夫 ふしぎだけどほんとうなのだ」(2008年、河出書房新社)P.251~253に基づく。
[編集] 関連項目
- でん六(節分用豆製品に付録の鬼の面をデザイン)
- RIP SLYME(GROOVISIONSが赤塚に触発されたイラストでジャケットデザインを手がける)
- ウナギイヌ
- バカ田大学
- 赤塚賞(集英社が新人漫画家発掘の為に創設した漫画賞。赤塚不二夫自身が審査委員長を担っていた)
- アニメ週刊DX!みいファぷー(要所でニャロメなど赤塚キャラが進行役を務め、平成生まれの子供たちにに赤塚キャラを知らしめる役割を担っていた)
- 青梅赤塚不二夫会館


