中山雅史

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中山 雅史
名前
愛称 ゴン、中山隊長
カタカナ ナカヤマ マサシ
ラテン文字 NAKAYAMA Masashi
基本情報
国籍 日本
生年月日 1967年9月23日(41歳)
出身地 静岡県志太郡岡部町
身長 178cm
体重 72kg
血液型 O型
選手情報
在籍チーム ジュビロ磐田
ポジション FW
背番号 9
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ App (G)
1990-1993
1994-
ヤマハ発動機
ジュビロ磐田
065 (50)
337 (156)
代表歴2
1990-2003 日本 53 (21)


1国内リーグ戦に限る。2007年12月1日現在 22003年6月8日現在
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は、静岡県志太郡岡部町出身のプロサッカー選手である。ポジションはフォワードジュビロ磐田所属。Jリーグ選手協会名誉会長。ゴン中山の愛称で知られる。ほかに、中山隊長、隊長の愛称がある。

日本代表としてフランスワールドカップ日韓ワールドカップにも出場。Jリーグ(J1最優秀選手賞1度受賞、得点王2回、ベストイレブン4度受賞した経験を持つ。

妻は女優タレント生田智子で、2004年に第1子(女子)をもうけている。実父の中山儀助は岡部町町議会議員であり、静岡県ローカルのテレビやラジオにはたびたび登場する。

目次

[編集] プレースタイル

一番の強みは諦めないプレースタイル。ギリギリのボールにも反応してゴールしようと試み、少々のトラップミスも自らすぐに取りに行くプレーなど、当たり前のことができるプレイヤー。オフ・ザ・ボールの動きが良く、ゴールへの嗅覚が鋭い。日本人の中では泥臭いゴールが最も良く似合う「何かをやってくれそうな」ストライカー。

戦術眼もあり、パートナーを選ばない適応力の高さを持ち、また自己管理に務めて数々の負傷を乗り越えて数々の記録を作ってきた。サッカー選手のフィールドプレーヤーの寿命は30代前半とよく言われるが、40歳を超えてもなおプロとして活躍する息の長さも魅力である。年齢を重ねるにしたがって若い頃のスピードはなくなったが、今度は巧みなポジショニング・動きでスペースを作り出したり、依然として強さを発揮する空中戦のポジショニングでチャンスを生み出すなど、プレーの奥深さは増していると言える。ただ、さすがに衰えもあるのか「フィールドを縦横無尽に駆け回る」と言われた運動量も近年は減った。また常にスタメンフル出場ということも少なくなり、途中交代での出場も増えた(カレン・ロバート前田遼一といった若手の台頭もある)。

キャプテンシーの強さ、負けず嫌いな性格などチームを引っ張りつづけるだけのメンタル面の強さも特筆される。長く日本代表にとっても精神的支柱であった。そして、今でも名波浩が「中山魂」と言うようにジュビロの魂であり、ジュビロの精神的な柱である。なお、1996年からジュビロのチームキャプテンで、一時はゲームキャプテンも兼ねていた。

敗戦ムード漂うチームを一瞬で鼓舞できるカリスマ性と、ベンチにいるだけで安心できる存在感は今尚健在である。

[編集] 略歴

藤枝東高校ではエースストライカーとして活躍し、高校2年生の1984年は全国高校サッカー選手権静岡県予選を勝ち進み、強豪の東海大学第一高等学校(現・東海大学付属翔洋高等学校)と決勝戦で対戦。絶対的劣勢が予想される中、カウンターから中山のゴールで先制すると3-1で勝利し第63回全国高校サッカー選手権大会の切符を手にする。その大会では準決勝まで駒を進めるが、島原商業高校との対戦でPK負けしベスト4。しかし4試合で1失点もせず、中山も4試合で2ゴールを挙げ、得点源として活躍する。

1986年、筑波大学に進学。当初静岡県選抜でも経験のあったディフェンダーに回されるが、後に先輩の長谷川健太らの助言で本来のセンターフォワードに戻る。

1990年、ヤマハ発動機に入社、サッカー部(後のジュビロ磐田)に入部。当時まだ実業団であったチームに加入したため、サラリーマン生活も経験した。翌年、Jリーグ開幕10チームからヤマハ発動機サッカー部の落選することが決定すると、Jリーグ参戦が決まった新規クラブ・清水エスパルスからオファーを受けるが固辞しヤマハ残留を決めた。

1992年に広島で行われたアジアカップに日本代表として招集され、スーパーサブとして優勝に貢献した。クラブが旧JFL1部在籍にもかかわらず、中山は1994年アメリカワールドカップ予選の日本代表に選ばれ、最終予選では途中からスタメンに定着して獅子奮迅の活躍を見せる。また予選中その陽気なトークや(ニッポン放送のサッカー番組で彼のレポートコーナーが常設されていた)熱意剥き出しのプレーがマスコミで話題となり、一躍全国区の人気者となる。ドーハでのイラク戦でロスタイムに同点ゴールを決められた際に、交代してベンチに座っていた中山が地面に崩れ落ちた様子は、ワールドカップ行きの切符を逃したこの試合・出来事をテレビ番組などで振り返るときに必ずといっていいほど流されるシーンとなった。またこの年、ジュビロ磐田は旧JFLで2位となり、1年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たす。

前年までの代表及びクラブでのフル稼働が原因で、恥骨結合炎及びスポーツヘルニア(現在は「グローインペインシンドローム」と総称される、サッカー選手に頻発する股関節障害)が悪化し、1994年のシーズンは開幕当初は試合に出場したが、4月末に戦線離脱を余儀なくされる。当時の日本のスポーツ医学の立ち遅れで、同様の故障で引退に追い込まれる選手も居たが、同様の症状に苦しんだ経験のある菊原志郎福田正博に助言を受け、専門医のいるドイツで手術。以後リハビリが続き8ヶ月もの間ピッチを離れシーズンを棒に振る。

1995年には怪我から復帰し開幕から好調なスタートを切った。元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチとのコンビはJリーグ最強と言われた。前年の怪我のために離れていた代表にもキリンカップで復帰したが、6月のアンブロカップ英国遠征にて故障し、以後1997年まで一時期代表から遠ざかる。

1997年は、ドゥンガ山本昌邦らとのトレーニングにより、「ボールを持たない時の動きの質」に開眼、前年からの不調から脱し第2ステージで活躍、自身Jリーグでは初のハットトリックも記録する。そして1998年フランスワールドカップ最終予選の最終局面で代表復帰して日本代表の予選突破に貢献。直後の鹿島とのチャンピオンシップでも3ゴールを挙げてMVPとなる活躍を見せ、ジュビロ磐田のリーグ初制覇に貢献する。

1998年に フランスワールドカップに日本代表として出場。予選リーグで敗退したものの、3試合すべてで先発し、ジャマイカ戦で日本代表のワールドカップ初ゴール・日本人初ゴールを決める。その直後の相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了まで走り続けたことは、日本代表としての誇りと魂の象徴として、今も語り草になっている(但し「骨折していながらもゴールを決めた」「ゴールと引き換えに骨折した」というのは誤解)。

同年のリーグ戦では4月15日の対セレッソ大阪戦(長居)での5得点(Jリーグのリーグ戦における「1試合1人での最多得点」タイ記録)を皮切りに、4月18日の対サンフレッチェ広島戦(磐田)で4得点、4月25日の対アビスパ福岡戦(水前寺)で4得点、4月29日の対コンサドーレ札幌戦(磐田)で3得点と4試合連続のハットトリックを記録し、ギネスブックに掲載された。この荒稼ぎで第1ステージ制覇に貢献。ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったものの、後半戦も1試合1点のペースで得点しつづけ、シーズン合計では27試合出場で36得点(現在でもリーグ戦の最多得点記録)を記録し当年度の得点王、MVP獲得など個人タイトルを総なめにした。しかしチャンピオンシップでは前年の雪辱に燃える鹿島に敗れ、リーグ優勝を逃す。

1999年にJリーグ選手協会副会長に就任。コパ・アメリカに招待された日本代表にも招集されるが、アルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術。失明寸前の重傷で復帰まで1年近くはかかる、という医師の制止を振り切って2ヵ月で復帰した。それ以外にも手の骨折など怪我に苦しみ満身創痍ながらも、清水とのチャンピオンシップでは2ゴールを挙げ制覇に貢献。なお第1戦のPKによるVゴールは、彼のプロ生活初のVゴールであった。

2000年前期は故障もあって思うような活躍ができず、代表からも外され不本意な時期が続く。しかし、夏以降は本来の実力を発揮しJ通算100ゴールを達成、シーズン通算でも20得点を記録しJリーグ史上初の2回目の得点王を獲得する。なお、2月16日に行われたアジアカップ予選の対ブルネイ戦において、試合開始3分15秒でハットトリックを記録し、国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された。これ以前の記録は、1938年11月16日イングランド代表のジョージ・ホールがマークした3分30秒であった。

2001年に井原正巳に代わりJリーグ選手協会会長に就任。前年からの好調を続け代表にも復帰。クラブは第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位と年間を通して強さを発揮するが、チャンピオンシップで鹿島に敗れリーグ勝利をのがす。更にナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦の末敗れるなど、無冠に終わる。

2002年、当初は候補合宿に招集されるなど2002年日韓W杯代表入りが有力視されていたが、リーグ開幕から不調(ワールドカップによる中断までわずか1得点)で、直前の海外遠征のメンバーから外された。更に当時のトルシエ監督が落選をほのめかしたことから、本大会代表には選ばれないとの推測・報道が多数を占めたが、世間一般からの「中山待望論」(直前のカップ戦ではアウェイゲームにも関わらず相手サポーターからも「ナカヤマ・ニッポン」コールが起こった)に加え、ベテラン抜きだった直前遠征で結果が出せなかった代表に足りない「精神的支柱」としての意味もあり、秋田豊とともに2002年日韓ワールドカップ日本代表に選出され、背番号10を背負った。日本のワールドカップ初勝利となったロシア戦で後半途中からピッチに立つ。「ドーハの悲劇」・1998年W杯・2002年W杯を日本代表として経験した唯一の選手となった。

クラブではリーグ得点王となった高原直泰とのコンビで再開後のリーグ戦でゴールを量産。磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献しベストイレブンに選出された。

2003年5月に10年前の恥骨結合炎が再発し戦線離脱。半年のリハビリの末、終盤戦に復帰するが、リーグ戦の優勝は逃す。しかし天皇杯ではスーパーサブとして、ヤマハ発動機時代以来の優勝に貢献した。

2005年5月1日柏レイソル戦(柏の葉)前半2分、自らが倒されて得たPKを決め、Jリーグ史上初の個人150ゴールを達成する。9月24日の柏戦(ヤマハ)では、Jリーグ15人目(フォワードとしては史上初)の300試合出場を達成。久々にほぼフルシーズン稼動した。

2006年9月17日川崎フロンターレ戦(等々力)の後半32分に得点を挙げ、磐田がJリーグに加盟した1994年から、J1リーグ戦における13年連続ゴールという記録を達成した(「公式戦」での連続ゴールならば、既に同年4月25日のナビスコカップ・大宮戦で達成)。この記録は過去に三浦知良(2006年に当時J2の横浜FCにシーズン通して在籍しており、J1リーグ連続ゴール記録は断絶している)、澤登正朗(2005年引退)、藤田俊哉しか成し遂げていない記録である。

2007年には5月3日清水エスパルス戦(日本平)の前半22分にPKを決め、J1リーグ戦史上初となる14年連続ゴールを達成した。このゴール時の年齢は39歳7ヶ月10日で、同年5月12日に当時40歳2ヶ月16日の三浦知良がゴールを決めるまでJリーグの日本国籍選手最年長ゴール記録だった。また5月28日に2001年から続けてきた選手協会の会長職を藤田俊哉に譲り、名誉会長に就任する。

2008年3月15日ガンバ大阪戦(静岡スタジアムエコパ)でもロスタイムにゴールを挙げ、J1リーグ戦15年連続ゴールを達成。歴代3位となる自身のゴール時年齢記録も伸ばしている(40歳5ヶ月22日)。なおJ1史上最年長ゴール記録はジーコの41歳3ヶ月、2位はその後40歳6ヶ月まで記録を伸ばしている三浦である。

2008年5月25日ナビスコカップ清水エスパルス戦(静岡スタジアムエコパ)で、後半43分に船谷からのCKをヘディングで決めて、40歳8ヶ月2日で、40歳7ヶ月13日の最年長ゴール記録を保持していたジーコ(ブラジル)を抜いてナビスコカップ最年長ゴール記録を塗り替える快挙を達成したが、ジュビロ磐田が試合に敗れたため、本人から喜びの言葉はなかった。

自身のゴール以上にチームの勝利を望むという姿勢が、現在ジュビロの若手の手本ともなっている。

[編集] 所属クラブ

[編集] 個人タイトル

[編集] 背番号

[編集] ジュビロ磐田

9 1997年-
前身のヤマハ発動機サッカー部に加入していきなり背番号9を付けて以来、固定背番号制になる前からほとんどの試合で9をつけている。Jリーグの公式戦での例外は以下の2試合のみ。
1995年3月18日 対市原(現・千葉)戦(市原臨海競技場)-このシーズンの開幕戦で、スキラッチが9番、中山は11番で登場。しかし次のホーム・ジュビロ磐田スタジアムでの開幕試合(3月22日G大阪戦)から2人は背番号を入れ替える。
1996年5月1日 対横浜F戦(ジュビロ磐田スタジアム)-直前の静岡ダービーで怪我を負い、ベンチスタートしたため背番号はサブ用の15。

[編集] 日本代表

9 1998-2000年、2002-2003年
磐田ではおなじみの背番号。日本人初めてのワールドカップにおける得点などはこの背番号を背負って挙げている。
10 2002年
日韓W杯時の背番号。藤枝東高校時代以来だったというこの背番号を背負って、日本のW杯初勝利となったロシア戦のピッチに立った。
11 2001年
9番を西澤らに譲り、僚友カズの背番号だったこの背番号を背負った。
14 1995年
加茂代表時の背番号。1995年のイングランド遠征時もこの背番号だった。
16 1992-1993年
オフト代表時の背番号。中山の名を一躍有名にした1994年アメリカW杯予選の際もこの背番号を背負っていた。
32 1997年
1998年フランスW杯予選の土壇場で2年ぶりに代表復帰した時の背番号。ジョホールバルの歓喜として記憶されるイラン戦で先制点を挙げたときの背番号である。

[編集] 経歴

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1990-91 ヤマハ 9 JSL1部 13 4
1991-92 ヤマハ 9 JSL1部 18 15
1992 ヤマハ 9 旧JFL1部 16 13 -
1993 ヤマハ 9 旧JFL1部 18 18 0 0 1 0 19 18
1994 磐田 9 J 12 3 0 0 0 0 12 3
1995 磐田 9 J 45 18 - 0 0 45 18
1996 磐田 9 J 27 9 13 7 0 0 40 16
1997 磐田 9 J 27 18 11 6 4 2 42 26
1998 磐田 9 J 27 36 0 0 3 4 30 40
1999 磐田 9 J1 23 6 1 1 1 2 25 9
2000 磐田 9 J1 29 20 4 1 3 2 36 23
2001 磐田 9 J1 30 16 8 4 1 0 39 20
2002 磐田 9 J1 29 16 7 3 3 2 39 21
2003 磐田 9 J1 12 3 2 1 5 0 19 4
2004 磐田 9 J1 19 3 5 0 4 1 28 4
2005 磐田 9 J1 29 6 2 0 2 0 33 6
2006 磐田 9 J1 13 1 3 1 1 0 17 2
2007 磐田 9 J1 15 1 5 1 2 0 22 2
2008 磐田 9 J1
通算 日本 J1 337 156 61 25 29 13 427 194
日本 JSL1部 31 19
日本 旧JFL1部 34 31 0 0
総通算 402 206
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL
2004 磐田 9 4 1
2005 磐田 9 1 0
通算 AFC 5 1

[編集] 代表歴

[編集] 出場大会など

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 53試合 21得点(1990-2003)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
1990 1 0
1991 0 0
1992 6 3
1993 8 4
1994 0 0
1995 4 1
1996 0 0
1997 2 2
1998 10 4
1999 1 0
2000 7 6
2001 8 1
2002 3 0
2003 3 0
通算 53 21

[編集] エピソード

[編集] 幼少期-学生時代

長男ではあるが3人姉弟の末子。強い姉2人に対抗するため必然的に負けず嫌いの性格になった。

正式にサッカーを始めたのは小4で少年団に入った時だが、遊びレベルでは幼稚園の頃からサッカー遊びも野球もしていた。子供の頃から故郷の山や川で遊び回っていたことが、後年中山の身体能力の高さの土台となった。

中学時代はサッカー部・合唱部・陸上部を掛け持ちしていたが、大会で最初に敗退したのはサッカー部だった。一方合唱部では持ち前の高く、驚くほどよく通るその声を活かしてテノールのパートリーダーを務め、入賞したこともある。

地元の名門進学校でサッカーの名門校でもある藤枝東高校には一般入試で進学(併願で静岡学園も受験し合格している)。一緒に受験した他中学のサッカー部員に「あの中山と一緒か?!」と恐れられたという。同級生にはスピッツのリーダーでベーシストの田村明浩がいた。2学年上に俳優の別所哲也がいた。

藤枝東高校では2年生の時点で背番号10を背負うエースだったが、静岡県高校選抜では武田修宏の存在もあり、ディフェンダー(センターバックやサイドバック)としてプレーすることが多かった。この頃のサイドバックとしての経験のせいか、足元の技術が高くないと評されるにもかかわらず、プロになってからもクロスボールの精度は比較的高く、味方へのアシストも多い。

筑波大学への推薦入学を決めた中山に父・儀助氏が付けた唯一の条件は、サッカーを辞めた後の人生のための教員免許取得だった。教育実習に行った茨城県内の中学校には、10余年後にチームメイトとなるカレン・ロバートの兄がいた。

大学の同期生井原正巳は等身大のライバルにして同志。同じコンビニエンスストアでアルバイトをしたり、お互い相手には隠れてトレーニングを積んでいたという。

[編集] 愛称

ゴンの愛称は大学時代につけられたもの。当時、海外遠征中の不摂生で太ってしまった中山の顔立ちがTV番組「オレたちひょうきん族」でビートたけしが演じたキャラクター「鬼瓦権造」に似ていた、というのが由来で、大学時代の先輩だった鋤柄昌宏が名付け親。中山が大学時代生活していた寮の狭い部屋には不釣合いに大きなタンスがあったため(中山によれば、それ自体は事実)、「タンスに…」の連想から「ゴン」のあだ名が付いたという異説もあるが、これは後付け的説と言われる。

ファンはしばしば中山隊長とも呼ぶが、これは筑波大学時代にユニバーシアード代表でキャプテンを務めた際のチームメイトがそう呼んだことがきっかけ。

ファーストネーム、またはそれに由来する愛称で呼ばれるサッカー選手も多いが、彼の場合世間一般では「ゴン」「ゴン中山」「(ゴン)中山隊長」などの愛称のほうが通りが良く、日本ではよほどのマニアックなファンでもなければファーストネームの「雅史」のみで呼ぶことはまずない。ドイツW杯抽選会ではゲストは(通称を登録名としている人物以外)全員ファーストネームで呼ばれ、そこでは彼も「Masashi」と呼ばれた。

選手仲間、マスコミ関係者などからは「中山さん」「ゴンさん(ちゃん)」(彼より年上もしくは同輩のサッカー関係者からは敬称なし)と呼ばれることが多い。

同じチームに所属していた外国人選手の中には彼の実名が「Gon」だと勘違いしていたケースもあった。

2002年ワールドカップの日本代表に選出された際、トルシエ日本代表監督(当時)が「日本には『Gon』がいる」と発言したのを通訳者が聞き間違えて「『God』(神)」と誤訳したが、これはくしくも監督と日本サポーターの真意通りの表現であった。

2004年出生の中山の一人娘は、人の名前を認識し始めた当初、父親の名前を「なかやまジュビロ」だと思っていた。

[編集] Jリーグ

1993年秋の「ドーハの悲劇」で知名度・人気が高騰したことでCM出演依頼が増え、特に1994年にはCM出演は多数。Jリーグ加入が1年遅れたジュビロ磐田の知名度を上げることにも繋がった。しかしその1994年は怪我のため5月以後の試合出場はなかったので、一部マスコミは「CMでしか見ない人」「ドーハのみの一発屋」との痛烈な批判的記事もあったが、翌1995年の復活でそれらの風評を払拭した。

中山自らゴールを決めてチームの勝利に貢献すると、試合後サポーターの応援歌に応えて「ゴンダンス」を披露したりもする。かつてのチームメート・ドゥンガ(元ブラジル代表主将。2007年現在、サッカーブラジル代表監督)は「中山ほどファンと喜びを共有しようとする選手は他に知らない」と称えている。

2001年から2007年までJリーグ選手協会会長も務めており(現在は名誉会長)、Jリーグや日本サッカー界を盛り上げ、日本にサッカーを文化として根付かせたいという強い信念の持ち主でもある。内外のサッカー事情を把握すべく、新聞で毎節J2の観客動員数までチェック、静岡ローカルでTV放映される高校やユース年代の試合も出来る限り視聴し、その内容も驚くほど正確に記憶している。

[編集] 日本代表

1997年9月のワールドカップアジア地区最終予選では、国立競技場での日本対韓国戦を中継したTBSのピッチレポーターを務め、試合前にはスタンド前でサポーターを盛り上げ明るく振舞っていたが、後年「その試合のチケットを持っていなかったのでつい仕事を受けてしまったが、現役選手の自分が一体何をやってるんだ、とかなり複雑な心境でいた」と告白。また、その日韓戦終了後、韓国代表の車範根監督が完勝と自慢げに語ったインタビューに対し、「そんなに韓国が圧倒してたわけじゃないんですけどねぇ・・・」と反発、悔しさを顕にしていた。その後窮地に陥った日本代表を救うべく、ホームのカザフスタン戦から代表に選出され、まともに食事も摂れないほどのプレッシャーに苦しみながらも(本人曰く「力石状態」)結果的には大事な場面でゴールを決め、日本代表の救世主となる。

上記の最終予選で代表復帰した際には、ともにドーハの悲劇を味わい、代表で正FWを争ってきた高木琢也も同時に代表復帰した。復帰後初戦のカザフスタン戦では、二人とも直前のリーグ戦で好調、またカズと呂比須が累積警告による出場停止、岡田監督も情報統制を敷いたため、サポーターは「どちらが先発するんだろう?」といい意味でやきもきしていた。そして試合当日、場内アナウンスと大型ビジョンでの先発選手紹介、日本代表で最後に不敵な笑顔の画像とともに「FW、背番号32、中山雅史」が告げられると、国立競技場を埋めた5万人以上のサポーターから大歓声と「オーナカヤマ!ナカヤマナカヤマ、ゴンゴール」の大合唱が沸き起こった。

日本で開催される代表試合において、サブメンバーの中山がアップのペースを上げたり、メンバー交代で中山の出場がアナウンスされると異様な程の大声援となるので、中山を知らない相手の外国人選手は「そんなに凄い選手が出てくるのか?」と戸惑いを感じると言われる。2002年の日韓共催W杯のロシア戦において途中出場した際も同様の現象が起きた。

2002年の日韓W杯のメンバー発表以前に発売された日本版ウイニングイレブン6のイメージキャラクターを務めた。その後、メンバー発表で土壇場のサプライズ選出が起こり、このソフトの売り上げが増大したという。なお、発売元のコナミでは中山の起用を「狙った訳でなく、全くの偶然」と話している。

2006年のドイツW杯組み合わせ抽選会(2005年12月9日、ドイツ・ライプツィヒ)に招待ゲスト(ドローワー)として参加した。

2006年FIFAW杯ドイツ大会の代表には選出されなかったが、現地レポーターやゲスト解説として活躍。珍妙な発言や妙なポーズをとったりし視聴者や共演者から笑いを誘う一方、過去W杯日本代表として闘った経験から、身をもって残してきた教訓が全く生かされなかった惨敗への苛立ちもコメントの端々から感じられた。ただ出場した選手に対しては、クロアチア戦でシュートを外した柳沢敦のプレーについてコメントを求められて、自身の経験談を交えながらプレーの際の選手心理を説明してその立場を慮るなど暖かい配慮も見せている。本気か冗談か「エントリー変更のリミットまで連絡待ちしていた」とも言い、スタジオの日本代表歴のある選手達・コメンテーター達からも「今からでもいいから代表に合流して選手達を一喝してやれ」と言われていた。

[編集] 人物

凡庸なタレントやアナウンサーよりもサービス精神が旺盛で話術に長け滑舌も良く、見ているファンを喜ばせようと場を盛り上げるべく軽妙なトークを披露することで知られている。

多くの伝説的名言珍言があるが、世間が「ゴン中山的」だと思っている奔放な発言の多くはその場のひらめきで、本人はあまり覚えていないとのこと。一方で中山は先述の数々のエピソードでも言及されている通り記憶力に優れ、サッカーのプレイや熟考した上でのまともな発言は驚くほど正確に記憶しており、自身でも人の顔を覚えるのが得意と述べている。また自身のゴール集のDVDではJ昇格を目指して戦っていた頃のゴール(収録の時点の12年も前である)についても、映像を見ずにすらすらとその時の状況を回想している。

中山本人によると、最初は「ゴン」と呼ばれることには抵抗があったが、やがて「ゴン」としてのキャラが立つ分好き勝手な発言もある程度は許されることに気付き、周囲が喜んでくれるならと自然とリップサービスも増えていったという。

サッカーのプレーに関しての発言では、真面目に熟考した上での発言をすることが多い。特に試合直後のインタビューではその傾向が強くなり、過去中山を取材した「情熱大陸」などのスポーツドキュメンタリーでは、笑いを狙った発言などは一切ない。しかしオールスター戦など「お祭り」では硬い話はあまりせずに楽しませる会話が増える。

世間一般のイメージとは裏腹に、身近な人物たちによれば素顔は寡黙・真面目・謙虚・シャイ。自身でも「普段はむしろ聞き役」だといい、「明るく強いお祭り男」キャラは営業用かつ、自分の繊細な部分を隠す仮面でもある。

「自分は下手だからこそまだまだ上達できる」と常に練習に励み、試合後は「まだまだです」とコメントすることが多い。その真面目さ・ストイックな面を藤田俊哉は「他人にも厳しいけれども、自分にはもっと厳しい人」と評している。妻の生田智子曰く「ああ見えても普通の人間。意外とデリケートだし落ち込む時もある」。

妻の生田智子とは、まだ中山が無名選手だった頃、サッカー界・芸能界共通の知人を介して知り合う。生田が中山が生活している静岡県から比較的近い名古屋で舞台出演した際、中山が陣中見舞いに訪れるなどして徐々に親しくなる。「ドーハの悲劇」以降、世間に顔と名前が知られるようになった中山と生田が外で公然と会うのは困難となったため、生田が実家に中山を招いたことを機に、家族公認の本格的な交際に。遠距離恋愛、中山の選手生命を脅かす故障などの困難を乗り越え、1996年に結婚。プロポーズは東京駅新幹線ホームに向かうエスカレーターで中山が生田に「結婚…するか?」と言ったというが、その前に中山は生田の両親に「結婚を前提に真剣に交際している」ことを告げていたという。

結婚9年目の2004年、第1子の女子が誕生。この子が父親のサッカー選手としての雄姿を記憶できる年齢になるまではと、中山が現役選手であり続ける大きな原動力の一つになっている。

試合前に聴く「勝負曲」の好みは中西圭三のバラード。1998年のW杯初出場記念に中西圭三が中山への応援歌として製作した曲『SON OF THE SUN』では、中山自身が自慢のテノールで特別ゲストとしてコーラスに参加している。中西以外にはB'zの大ファン。しばしばライブ会場で夫婦そろって目撃されている。またボーカルの稲葉浩志とは同じ誕生日(9月23日)というよしみもありプライベートでの付き合いもある。

身体を投げ出すプレイスタイル故に、何度も大きな怪我をし、受けた手術は十数回、全身麻酔での手術も少なくない。その全身麻酔の度にいつまで意識を保てるか「勝負」し、1999年の眼窩底骨折の手術の時は目を見開いたまま意識を失ったという。

本業のサッカー選手としてのキャラクターに留まらず多様なメディアに露出している。中山のニックネームにかけて金鳥「タンスにゴン」のCMにも出演した。この金鳥は長らく磐田のスポンサーであり、1998年から2005年まではユニフォームの背中にスポンサーロゴ(KINCHO)を掲出していた。他にも多数のCMに出演し、侍姿で殺陣を披露したり、紳士服モデルを務めたこともある。いかにもスポーツマンらしい情熱的かつ爽やかな印象を買われてか、2004年参院選など公的イメージキャラクターにも多数起用されている。アニメ『ハングリーハート WILD STRIKER』では中山が登場するエピソードで自ら「中山雅史」の声を演じた。その声優としての実力は「プロ顔負け」と高く評価された。

シーズンオフには年末年始特番やスポーツ・情報・バラエティ等の番組に度々ゲスト出演もする。現役プロアスリートとしては異例だが、2003年放映の短期集中TVサイエンスバラエティ番組『ジュブナイル』ではメイン司会を務めた。その活動ぶりを「芸能人気取り」と誤解する向きも一部にはあるが、本人は「あくまで自分の本業はプロサッカー選手である」という自覚は常に持っている。

漫画『ホイッスル!』の作者樋口大輔が中山の大ファンであり(サイン入りキーパーグローブを所持)、主人公・風祭将の性格、ゴール、エピソードなどには、彼のそれをモチーフとしたものが多く登場する。なお同作に登場する周防将大は「本人を出すのはおこがましいので」と名前や設定は変えてあるものの、1975年「9月23日生まれ」と誕生日は中山と同じにしてある。

ジュビロ磐田初代監督の長澤和明は、女優の長澤まさみの実父であり、長澤家とは家族ぐるみの付き合い。長澤まさみは中山の妻である生田智子(東宝芸能所属)の勧めにより東宝「シンデレラ」オーディションに応募したことがきっかけで、現在の活躍に到っている。また小学校低学年だった長澤まさみからプロポーズされた中山は承諾するが後に生田智子と結婚、その後長澤から笑いながら「大人はうそつき」と言われたのを受けて中山は「まさみちゃん!今からでも遅くは無いよ!」とTV(やべっちFC)を通じてメッセージを送った。

以前は切れ長の一重瞼の眼をチャームポイントだと自称していたが、2007年初頭頃、特に右目がぱっちりとした二重瞼に変化し、間もなく左目も二重となった。妻の生田は「(本人は)風邪をひいたためだと主張していたがそのまま戻らない」「摩訶不思議」「今度テレビで見たら注意して見てください」とコメント。いわゆるプチ整形説、1999年の右眼窩底骨折の影響説もあった。

[編集] CM

[編集] 中山の発言

  • 「蝶のように舞い、蜂のように刺す!」('93年W杯最終予選の合宿中、テレビカメラに向かって放ったモハメド・アリの名文句)
  • 「オフト、俺はおまえを信じている。だから、おまえも俺を信じろ!」(オフト・ジャパン時代の代表合宿で、オフの時間を取材するテレビカメラに向かって放った言葉。スーパーサブとして活躍するものの、なかなかスタメン起用されないもどかしさに、ジョークの中に本音を込めていた。語る口調と姿はかなりコミカルなものであり、周りにいた代表選手は大爆笑していた)
  • 「全然ですよ。カズさんのほうが、全然下です。あっ、そんなことないです」(「カズさんを超えたという話がありますが?」と聞かれて)
  • 「勝ちたいんじゃなくて、負けるわけにはいかない」('93年のJリーグについて)
  • 「本当に来ちゃったんだよね。サブにならないように、一生懸命ガンバリマス」(オフトのジュビロ監督就任を聞いて)
  • 「Jリーグ!オレが行く前にファンをがっかりさせるなよ」(ジュビロがJリーグ参加した直後のインタビューで)
  • 「オレが岡部の中山だ!」(ドーハの悲劇直後、出身地岡部町の慰労会で)
  • 「僕がアンポンタンです!」(Jリーグの試合中、チームメイトの鈴木秀人選手が審判に対して「アンポンタンがっ!」と暴言を吐き、審判がカードを出そうとした時のとっさの機転の一言。思わず審判も笑ってしまい、カードは出さなかったという。セリフは「いかれポンチ」という異説あり)
  • 「カズさんのユニフォームの下には嫁さんのブラジャーを…」('97年W杯アジア最終予選の土壇場で代表復帰した中山はカザフ戦でゴールを決め、自分のユニフォームの下に着込んでいたカズ(この試合出場停止)の11番を見せた。この行為には賛否あり、本人も後に「やってしまったことは仕方ない」と語っている。無論、ブラジャー云々はウソ)
  • 「来た!」「アルゼンチンかぁ」(W杯ドイツ大会の抽選会で、アルゼンチンとオランダが同組になった時思わず発したセリフがマイクに拾われ、そのまま配信されてしまった)
  • 「彼のプレーする姿勢や練習する姿勢の中から学ぶものも多くありました」(中田英寿の引退を聞いて)
  • 「(自分に)技術を置いてけよ!って言いたいね」(中山よりずっと年下で優れた技術を持つはずの選手達が30歳そこそこの若さで次々と先に引退していく現状を見て)
  • 「ワールドカップですか?…それはもう自分にとって大きいですね。なんていったってダブルカップですよ」
  • 女の子の「どうしてそんなに点が獲れるのか」という質問に対し中山は「それは僕が炎のストライカーだからです!」と絶叫、その声の大きさに女の子が驚き半ベソになり慌てた中山は「あ、ボールを良く見て落ち着いてシュートする事だよ」と言い直す。
  •  「頭利き」(利き足を聞かれて)

[編集] 外部リンク

先代:
ドゥンガ
Jリーグ年間最優秀選手
1998
次代:
アレックス(三都主アレサンドロ)
先代:
パトリック・エムボマ
Jリーグ得点王
1998
次代:
黄善洪
先代:
黄善洪
Jリーグ得点王
2000
次代:
ウィル