荒川静香

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オリンピック
フィギュアスケート
2006 女子シングル
あらかわ しずか
荒川 静香
2004年NHK杯での荒川静香
基本情報
代表国: 日本
生年月日: 1981年12月29日(26歳)
出生地: 東京都品川区
身長: 166 cm
体重: 53kg
元コーチ: ニコライ・モロゾフ
佐藤久美子
タチアナ・タラソワ
リチャード・キャラハン
長久保裕
元振付師: ニコライ・モロゾフ
タチアナ・タラソワ
トーラー・クランストン
佐藤有香
所属クラブ: プリンスホテル
引退: 2006年5月
ISU パーソナルベストスコア
SP+FS トータル: 191.34 2006 トリノ五輪
ショートプログラム: 66.02 2006 トリノ五輪
フリースケーティング: 125.32 2006 トリノ五輪
ウィキメディア・コモンズ

荒川 静香(あらかわ しずか、ラテン文字Shizuka Arakawa, 1981年12月29日 - )は、日本を代表する女性プロフィギュアスケーターである。2006年トリノオリンピック女子シングル金メダリスト2004年世界選手権チャンピオン。

目次

[編集] 人物

東京都品川区の病院で生まれ、神奈川県鎌倉市で1歳4ヶ月まで過ごす。父親の転勤に伴ない高校卒業まで仙台で育った。静香という名前は、出生時の現住所である鎌倉に縁のある静御前に因んで名付けられた。宮城県に転居後、仙台市(現・同市青葉区)のわかくさ幼稚園に通園。仙台市立台原小学校入学。6年生の途中で同市のベッドタウンである利府町に引越し、利府町立しらかし台小学校に転入。利府町立しらかし台中学校卒業、東北高等学校卒業(本田武史より1学年後輩)。早稲田大学教育学部卒業(村主章枝より1学年後輩)。プリンスホテル所属。

栄典紫綬褒章受章。賞歴は宮城県民栄誉賞、JOCスポーツ賞特別功労賞、JOCスポーツ賞最優秀賞、JOCオリンピック特別賞受賞など。

海外メディアからは、ポーカーフェイスな表情から「クールビューティー」と称されていた。日本での愛称しーちゃん。しーちゃんと呼んでいるのは本田武史をはじめ、後輩の安藤美姫高橋大輔などの代表選手、佐藤有香恩田美栄など多岐にわたる。特に、安藤や恩田に慕われており、プライベートでも非常に仲が良い。長野オリンピックソルトレイクシティオリンピックの日本代表を争った村主章枝とは確執が取り沙汰されていたが、トリノオリンピック中に一緒に食事をするなどし和解が報じられた。

身長166cm、血液型O型。一人っ子である。趣味グルメ

[編集] 経歴

[編集] 少女時代(-1994)

5歳のとき「ちびっ子スケート教室」に入会、小学校入学後本格的にフィギュアスケートを始めた。他にも3歳から水泳を始め6歳で全泳法を覚えるなど幼少時よりスポーツ万能であった。泉市(現:仙台市泉区)のオレンジワン泉(2002年から「コナミスポーツクラブ泉」と改称し2004年12月閉鎖。2007年3月「アイスリンク仙台」と改称し再開)に通い、本田武史を育てた長久保裕に師事。小学校3年生のときに5種類の3回転ジャンプをマスターし「天才少女」と呼ばれた。10歳で第一回野辺山合宿に参加、12歳のときに初めての国際大会であるトリグラフトロフィーに出場し、優勝を果たす。

[編集] 中学時代(1994-1997)

全日本ジュニア選手権で史上初の3連覇を達成し、全国中学校スケート・アイスホッケー大会でも3連覇を達成、国際大会のネーベルホルン杯でも連続3回転ジャンプを成功させ優勝するなど才能を開花させる。中学3年生でシニアの第65回全日本選手権に特例出場し2位(優勝は村主章枝)。1997年世界選手権の日本女子シングル代表枠は2枠であったが、ジュニア選手であったことやシニアでの実績がないことから世界選手権代表に選出されなかった。

[編集] 高校時代(1997-2000)

シニアへ完全転向した東北高校1年生の1997-1998年シーズン、第66回全日本選手権で初優勝を果たし、たった1枠しかなかった長野オリンピックと1998年世界選手権の女子シングル日本代表を勝ち取る。その長野オリンピックでは今上天皇皇后観戦のもとで演技を行い、ショートプログラムでは連続3回転ジャンプを成功させるが13位(ショート14位、フリー14位)、初めての出場となる1998年世界選手権では22位(ショート22位、フリー21位)に終わった。

1998-1999年シーズン、第67回全日本選手権で2連覇を果たし、続く全国高等学校スケート選手権大会(インターハイ)でも優勝、1999年アジア冬季競技大会では2位となるが、初めて行われた1999年四大陸選手権で6位となり、1999年世界選手権の代表権を得られなかった。これ以後スランプに陥る。

1999-2000年シーズン、第55回冬季国民体育大会冬季大会(青森国体)で優勝を果たすが、スパルカッセンカップNHK杯第68回全日本選手権で5位となり、再び2000年世界選手権の代表権を得られなかった。

[編集] 大学生時代(2000-2004)

自己推薦入試早稲田大学に進学しプリンスクラブに在籍した2000-2001年シーズン、第26回東日本フィギュアスケート選手権大会で優勝を果たすが、国際大会ではロシア杯7位、ラリック杯9位、四大陸選手権6位と振るわず、第69回全日本選手権は2位。

2001-2002年シーズン、ソルトレイクシティオリンピックの女子シングル日本代表枠は2枠であったが、グランプリファイナルに進出した恩田美栄が早々と内定を得る。残りの1枠を賭けた第70回全日本選手権では4年前と同様に村主章枝との事実上の一騎打ちとなったが敗れて2位、ソルトレイクシティオリンピックの出場権を得ることができなかった。

2002-2003年シーズン、恩師である長久保コーチが「ソルトレイク五輪に出場できなかったことでやっとやる気になった」と後年述べたように、荒川は精力的に試合をこなす。10月の東京フィギュアスケート選手権大会(優勝)を皮切りに、同月関東学生フィギュアスケート選手権大会(優勝)、11月ロシア杯(5位)、同月NHK杯(3位)、12月第71回全日本選手権(3位)、新年1月ユニバーシアード冬季競技大会(優勝)、2月冬季アジア大会(優勝)、同月四大陸選手権(2位)、同月初めての進出となるグランプリファイナル(4位)、3月には5年ぶりとなる2003年世界選手権(8位)、4月国際チャレンジ(7位)。エキシビションイベントも3公演に参加するなど、驚異的なスケジュールをこなし何かが変わったシーズンであった。

2003-2004年シーズン、大学生生活の集大成となるこのシーズンではスケートアメリカで3位、続くスケートカナダ2位、ラリック杯2位となり、2年連続でグランプリファイナルに出場(3位)。第72回全日本選手権では3位となったが、2004年世界選手権の切符を得た。 ドルトムントで行われた世界選手権では予選で1位、ショートプログラムで2位となり、迎えたフリースケーティングで3回転ルッツ-3回転トウループ-2回転ループ、3回転サルコウ-3回転トウループのコンビネーションジャンプなど全てのエレメンツを完璧に決め、技術点でジャッジから完全無欠を意味する6.0満点を獲得し、日本人選手として10年ぶり3人目の優勝を果たした。

なお、荒川は大学卒業後の所属先も未定だったこともあり、この世界選手権を最後にアマチュア引退を決意していた。しかし、帰国後にプリンスホテルへの所属が決まり、周囲のトリノオリンピックへの期待も高まり、迷いながらも現役続行することになる。

[編集] 社会人時代(2004-2006)

2004-2005年シーズン、新採点方式が本格導入されNHK杯で初優勝、続くロシア杯は2位となり、3年連続進出のグランプリファイナルでは2位となった。第73回全日本選手権ではショートプログラムで1位となるも足のケガによりフリースケーティングを棄権。2004年世界選手権で優勝し、日本人として3人目の世界女王となり連覇が期待された2005年世界選手権では9位と惨敗する。

2005-2006年シーズン、持ち技のひとつであったイナバウアーは新採点方式の導入により技術点の得点対象から外れていた。さらに中国杯エリック・ボンパール杯ともに3位で、獲得スコアは第3位であったにも関わらず、組み合わせの妙でグランプリファイナルへの進出を逃したことで、荒川は絶望的になったのか「(自分以外の)日本選手3人がグランプリファイナルで表彰台に上がったら(トリノオリンピック出場の3人が内定してしまうので)、その時点で引退する」と発言してファンを心配させたといわれる。12月末の第74回全日本選手権で3位。長野オリンピック以来8年ぶりとなるトリノオリンピック代表選手に決定。

荒川は、2004年よりロシア人コーチのタチアナ・タラソワに師事していたが、トリノオリンピックに向け演技の方向性がかみ合わなかった事と、タラソワが活動拠点を母国ロシアに移動・特化したため、タラソワとの師弟関係を2005年12月に解消する。日本国内ではこれまで通り佐藤久美子に、海外ではかつてタラソワのもとで振り付けを担当していたニコライ・モロゾフにそれぞれ師事することにした。加えて、2005-2006シーズンのフリー曲だった「幻想即興曲」をショート曲用に作り変え、フリー曲を2004年世界選手権で優勝したときに使用した「トゥーランドット」に変更し、一度はプログラムから外したイナバウアーを組み入れるという大胆な作戦に打って出る。

トリノオリンピックでは、ショートで荒川、サーシャ・コーエンイリーナ・スルツカヤの上位3人が1点差以内に並ぶ大接戦となるも、フリーでは自己最高得点をマークし優勝。会場の観衆はスタンディングオベーションで荒川の演技に賞賛を送り、アジア選手として五輪フィギュア史上初の金メダル(併せて同大会日本人選手最初で唯一のメダル)を獲得し、地元イタリアのマスコミにより東洋の女神と称された。旧採点方式での最後の世界選手権女王であるとともに、新採点方式での最初のオリンピック女王となった。また、CNNやニューヨーク・タイムズなど海外有名メディアでも荒川静香金メダル獲得を一面トップで飾った。なお、06年2月現在で24歳の荒川は、五輪女子フィギュア史上最年長の金メダル獲得選手でもある。

2006年5月7日、記者会見を行いアマチュア競技選手としての引退とプロへの転向を表明。会見の席で『今後は自身の演技力の向上やスケート界を広くサポートしていきたい』と語った。プロ転向後はアイスショーなどに出演しながら、フィギュアスケートの解説、テレビ出演など、多忙な日々を送っている。

[編集] 現在(2006-)

2006年5月8日、プロスケーターとして初めてのアイスショー「フレンズ・オン・アイス」を企画・プロデュース。この企画に賛同した現役選手はもとより引退した選手までもが集まり、大成功を収めた。2006年6月からは、ショーの本場アメリカの「チャンピオンズ・オン・アイス 2006」に、11月にはプロフィギュアスケートの祭典「アイス・ウォーズ」に参加するなど、トリノオリンピックから1年間で国内外計100公演以上のアイスショーに出演し多忙を極めた。

2007年4月3日、小学校から高校を卒業するまで練習拠点としていた地元仙台の「アイスリンク仙台」でスケート教室を開いた。このリンクは経営難から2004年12月に一度閉鎖されたが、荒川のトリノオリンピック金メダル獲得をきっかけにしてリンク再開の機運が高まり、宮城県や仙台市の支援もあって2007年3月末に再開されたリンクで、「子どもたちのために何かしたい」という荒川の申し出から開かれた。7月28日には、長野県南牧村で開かれた日本スケート連盟主催のアイスショー「野辺山サマーフェスティバル・オン・アイス」にサプライズゲストとして出演。

現在は「プリンスアイスワールド」と「チャンピオンズ・オン・アイス 2007」に参加しながら多方面で活躍している。自らプロデュースする「フレンズ・オン・アイス」も、2007年は8月18日、19日、2008年は7月5日、6日に開催され、毎年恒例のイベントとして定着しつつある。

[編集] スケート技術

荒川静香のイナバウアー 側方から

[編集] オールラウンダー

荒川の最大の特徴は、新採点方式で技術点の採点対象となるジャンプステップスピンスパイラルの4つすべてにおいて非常に高い技術を持ち、弱点がないことに尽きる。トリノオリンピックのショートプログラムフリースケーティングにおいて、合計7つのスピンと合計2つのスパイラルは全て最大評価であるレベル4を獲得し、合計2つのステップはともに女子シングルの選手として最高の評価と言えるレベル3を獲得した。このような最高評価を受けた選手は、出場選手中荒川ただ一人であり、新採点方式導入後のISU公式試合で初めてのことである。

[編集] ジャンプ

もともと中学生時代から伊藤みどり以来の日本女子連続3回転ジャンパーとして騒がれるほど、様々な種類の連続3回転を跳ぶことができる数少ない選手。プログラムに入れることはなかったが、トリノ五輪の公式練習では3回転サルコウ-3回転トウループ-3回転ループ、3回転トウループ-3回転トウループ-3回転ループの3連続3回転を披露している。なお、2004年世界選手権で出した旧採点方式の技術点6.0満点は、女子シングルの歴史上伊藤みどり、イリーナ・スルツカヤ、荒川静香の3人しか出したことのない最高評価である。 プロ転向後のアイスショーでも、3回転トウループ-3回転トウループといった連続3回転や、転倒を避けたいショーでは高難度ゆえに、行われる事が少ない3回転ルッツなどを披露している。

[編集] イナバウアー

いまや代名詞となった大きく背中を反らせた「レイバック・イナバウアー」。イナバウアーをする選手は存在するが、大きく体を反らせた「レイバック・イナバウアー」は、荒川の特長と言ってもよい。演技の優雅さ、滑らかさ、女性らしさは世界でも随一。しかし、早い曲や小気味のいい曲は苦手だという。荒川の活躍からイナバウアーのものまねが流行し、イナバウアーは2006年の新語・流行語大賞を受賞した。

[編集] 主な戦績

大会/年 93-94 94-95 95-96 96-97 97-98 98-99 99-00 00-01 01-02 02-03 03-04 04-05 05-06
冬季オリンピック 13 1
世界選手権 22 8 1 9
四大陸選手権 6 6 2 2
全日本選手権 2 1 1 5 2 2 3 3 棄権 3
冬季アジア大会 2 1
GPファイナル 4 3 2
GP中国杯 3
GPエリック杯 9 6 2 3
GPロシア杯 7 5 2
GPNHK杯 7 6 8 5 3 1
GPスケートアメリカ 9 4 3
GPスケートカナダ 2
GPスパルカッセン杯 7 5
ユニバーシアード 1
世界Jr.選手権 8 7 8
全日本Jr.選手権 1 1 1
ネーベルホルン杯 2 1
トリグラフトロフィー 1 N

[編集] プロ


プログラム 曲名
EX フローズン(Frozen by Madonna)
誰も寝てはならぬ(Nessun Dorma by Cortes)
フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン(Fly me to the moon by Leanne Weatherly)
ユー・レイズ・ミー・アップ(You Raise Me Up by Celtic Woman)


[編集] シニア

[編集] ジュニア

[編集] ノービス

[編集] エピソード

  • 父・晃市は秋田県男鹿市出身であり、“日本人唯一の金メダルを獲得し、市民を大いに感動させ、勇気づけた”として男鹿市は荒川に対し「特別表彰」を行っている。
  • フィギュアスケートでは費用が莫大に掛かるが、荒川静香の両親は一般的なサラリーマン家庭であった為、母親が衣装を手作りするなど、両親の支えがあった。このエピソードはテレビ朝日系列のグレートマザー物語「荒川静香の母~願いを込めた1000個のビーズ~」(2004年6月13日放送)[2]と「荒川静香の母~二人三脚で掴んだ金メダル~」(2006年2月26日放送)[3]が詳しい。
  • 尊敬するスケーターはクリスティー・ヤマグチ佐藤有香。なお、佐藤有香は1998-1999年シーズンの振り付けも担当している。
  • 愛犬家であり、2匹のカニヘンダックスフントを飼っている。それぞれ「ティラミス」「アロマ」という名で、「ティラミス」の名の由来は、2005-2006年シーズンのエキシビション曲だったケルティック・ウーマンの「You Raise Me Up(私を元気付けて)」のイタリア語「Tirami su」から。このイタリア語をもとに、荒川のエッセイ集のタイトル「Tira mi su」が付けられた(イタリア語ではTiraとmiの間にスペースはない)。「アロマ」の名の由来は「静香」の「」から。
  • 1992年に8歳から12歳までの有望な選手を全国から集め世界と戦える選手を育てることを目的にスタートした「全国有望新人発掘合宿(野辺山合宿)」1期生である。
  • 学生時代は日焼けに憧れて試みたが、水着の痕が白く残ってしまい、大学時代の試合でコーチに「下着着けて出てくるな。」と怒られた経験がある。ト