ベネトン・フォーミュラ
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| 参戦年度 | 1986 - 2001 |
|---|---|
| 出走回数 | 260 |
| コンストラクターズ タイトル |
1 (1995) |
| ドライバーズタイトル | 2 (1994, 1995) |
| 優勝回数 | 27 |
| 通算獲得ポイント | 851.5 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 102 |
| ポールポジション | 15 |
| ファステストラップ | 36 |
| F1デビュー戦 | 1986年ブラジルGP |
| 初勝利 | 1986年メキシコGP |
| 最終勝利 | 1997年ドイツGP |
| 最終戦 | 2001年日本GP |
ベネトン・フォーミュラ (Benetton Formula Ltd) は、1986年~2001年にかけてF1に参戦していたコンストラクター。1995年にコンストラクターズチャンピオン獲得。長きに渡って4強の一角を占め、1980年代後半から1990年代のF1を代表するチームとなった。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 1986年
それまでもティレルやアルファ・ロメオのスポンサーを務めるなどF1に関係の深かったベネトン社が、トールマン・チームを買収。「ベネトン・フォーミュラ」として1986年開幕戦より参戦。初年度からテオ・ファビによりポールポジションを2回獲得し、ゲルハルト・ベルガーによりメキシコGPで初優勝を飾った。
[編集] 1987年
エンジンをBMWターボからフォードターボに変更。これは前年にハース・ローラチームに搭載されていたものを改良したエンジンである。チームに初優勝をもたらしたベルガーがアロウズに移籍したことに伴い、同じくアロウズからティエリー・ブーツェンを迎えた。この年はファビがファステストラップと3位を1回、ブーツェンが3位を1回記録した以外は振るわなかった。しかし、完走率は41パーセントから50パーセントと向上しており、コンストラクター順位でもひとつ上がって5位となった。
[編集] 1988年
1988年は、翌年からの3.5L NA(自然吸気)エンジン一本化化を見越して、フォード・コスワースが往年の名エンジン「DFV」をベースに3.5ℓ化されたカスタマー向けエンジン「DFZ」をさらにベースとした新型ワークスNAエンジン「DFR」を搭載してB188で参戦。なおこのエンジンはベネトンのみに独占供給するにあたりヤマハの「5バルブヘッド」を導入を予定していたが、テストの段階でフォードとコスワースが思っていたような成果とは行かずにレースには採用されなかった。マクラーレン・ホンダやフェラーリなどのターボエンジン勢に迫る速さを見せ、コンストラクターズランキング3位となる。
なおこの年に、後にマネージングディレクターとして辣腕を振るうことになるフラビオ・ブリアトーレがチームに加入している。
[編集] 1989年
1989年は新人ジョニー・ハーバートが開幕戦で優勝争いを演じるなど完全にトップグループの仲間入りを果たすかと思われたが、そのハーバートの足の傷が悪化、第6戦カナダをもって解雇。シーズン序盤に投入される予定だったB189だったが、新型のフォードHBエンジンに欠陥が発見された関係で投入が遅れ[1]、第7戦のフランスGPでエースドライバーのアレッサンドロ・ナニーニに、第8戦のイギリスGPから2台ともB189が投入された。第15戦日本GPで、アイルトン・セナとアラン・プロストの同士討ちの間隙を縫って、ナニーニが自身初優勝を飾った。
[編集] 1990年
1990年には、チーム初のチャンピオン経験者としてネルソン・ピケが加入し、完全にトップチームの仲間入りを果たす。第15戦日本GP直前にナニーニがヘリコプターの事故により右腕切断の重傷を負い戦線離脱するも、その日本GPでピケが優勝。ナニーニの代役として参戦したロベルト・モレノも2位に入り、チーム初の1-2フィニッシュを果たす。最終戦オーストラリアGPでもピケが連勝。
マネージメント面では、新たにマクラーレン・フェラーリ等で活躍したデザイナーのジョン・バーナードを獲得したが、代わりにトールマン時代からチーフデザイナーを務めてきたロリー・バーンがチームを離脱している。
[編集] 1991年
1991年にはメインスポンサーにR.J.レイノルズ社のタバコブランドである「キャメル」が付き、チーム名は「キャメル・ベネトン・フォード」となる。“天才デザイナー”と呼ばれたジョン・バーナードがマシンのデザインを担当し、タイヤをグッドイヤーからピレリへ変更した上、タイヤの空気抵抗を少しでも抑える為にフロントタイヤを通常より1インチ狭めたスペシャルタイヤを導入した。しかしピレリタイヤの性能がグッドイヤーを上回る事は無く、エンジンも前年と同じエンジンだったため、この年の勝利は最終ラップまで2位を走行していてトップを走行していたマンセルがストップして棚ボタで勝てたカナダGPのみであった。またイタリアGPでミハエル・シューマッハが加入。いきなりピケに迫る速さを見せ、前のレースであるベルギーGPでデビューして移籍初・デビュー2レース目で5位入賞を果たしすでに絶頂期を過ぎていたピケを引退に追い込む。この頃からチームはシューマッハ中心の体制へと変化していく。またこの年をもってピレリタイヤがF1から撤退する事になり、1992年以降はグッドイヤータイヤのワンメイクとなる事になった。
なおカナダGP直後にジョン・バーナードがチームを離脱。後釜にはレイナードに移籍していたロリー・バーンが復帰した。
[編集] 1992年
1992年はシューマッハをファーストドライバーとして、チームメイトにマーティン・ブランドルが加入した。マシンは第4戦までは前年までのB191Bで戦い、第5戦からB192を導入した。マニュアルギアボックスとパッシブサスペンションの「ノンハイテクマシン」であったが、エンジンとマシンの信頼性を武器に戦い、2人合わせて10回の表彰台に上がった。特に雨のベルギーGPではシューマッハが、既にワールドチャンピオンを決めていたナイジェル・マンセルをタイヤ交換で抜いて初優勝を飾った。
この年エンジニアリングディレクターとして、それまでスポーツカー世界選手権(SWC)のジャガーチームで監督を務めていたトム・ウォーキンショーがチームに加入。またウォーキンショーの部下としてロス・ブラウンもチームに加入し、シューマッハ・バーン・ブラウンという黄金トリオが成立した。
[編集] 1993年
1993年はウィリアムズからリカルド・パトレーゼを迎えてチャンピオン争いに加わるためにハイテクマシンB193Bを第3戦のヨーロッパGPから投入したが、ウィリアムズ・ルノーの前には歯が立たなかった。また、シーズン開幕当初はワークス・チームであるベネトンに最新のエンジンが供給され、「カスタマー」のマクラーレンはベネトンより1ランク下のエンジンが供給されていたにも関わらず、マクラーレンがベネトンを上回る活躍を見せたため、フランスGPからはベネトンと同じワークスエンジンがマクラーレンにも供給される事となった。シーズン中の優勝もポルトガルGPでシューマッハが上げた1勝のみで、コンストラクターズランキングもマクラーレンに敗れ3位に終わった。
[編集] 1994年
1994年はメインスポンサーが日本たばこのマイルドセブンに変わり、チーム名も「マイルドセブン・ベネトンフォーミュラ」となった。前年までのフォードHBエンジンから、同じV8ではあっても全く構造が違うZETEC-Rエンジンで戦い、とうとうシューマッハはドイツ人初のドライバーズチャンピオンを獲得した。この年から導入された「給油許可」ルールのせいか、ドイツGPではヨス・フェルスタッペンがピットイン時の再給油中にガソリンの給油口から漏れ出したガソリンが高温のエキゾーストパイプにかかり猛火となった。しかしドライバーとメカニックを含めて軽傷で済んだ。この火災の原因は、チームが給油口を改造した事が原因とされている。
[編集] 1995年
当初の予定では1995年も引き続きフォードエンジンを使う筈であったが、1994年のシーズン途中にフォードがF1からの撤退をチームに通告(その後フォードはF1からの撤退という決定を覆し、エンジンの供給先をザウバーに変更した)したことでチームもそれに伴いエンジン探しを行い、チームマネジャーのブリアトーレがリジェチームのオーナーとなった事でこの年のエンジンをルノーに変える事に成功した(リジェチームの買収は、ルノーエンジン獲得のために行ったものと言われている)。シューマッハは連続チャンピオン、チームとしても初のコンストラクターズチャンピオンに輝く。
一方でオーナーのベネトン一族との不仲がささやかれるようになったトム・ウォーキンショーが、ブリアトーレからリジェの株式を譲り受けてリジェのオーナーに就任しベネトンから離脱するなど、徐々にマネージメントスタッフの問題が表面化し始めた年でもあった。
[編集] 1996年
イギリスチームとして活動してきたベネトンは、この年からイタリアチームへと国籍を変更した[2]。
1996年にシューマッハはフェラーリに移籍。代わりにベルガーとジャン・アレジをドライバーに迎えたが、両ドライバーも思うような活躍ができなかった。また1997年をもってルノーがF1ワークス活動を停止する事がフランスGPで発表された。
同年のシーズン終了後、チーフデザイナーのロリー・バーン、テクニカルディレクターとなっていたロス・ブラウンの両名が、シューマッハの後を追ってフェラーリに移籍。マネージメントスタッフの弱体化がいよいよ決定的となった。
[編集] 1997年
1997年をもってベルガー・アレジの両ドライバーはチームを去ることになった。この年ドイツGPで病み上がりのベルガーが亡き父に捧げるポール・トゥ・ウィンを挙げたのがベネトンチームのF1での最後の勝利となった。またルノーエンジンが撤退し、翌年以降はルノーのワークスエンジンではなく、ルノーのカスタマーエンジンとなる「メカクローム(1999年からスーパーテック、バッジネームはプレイライフ)」エンジンとなり戦闘力が落ちるのは目に見えていたが、いずれルノーがワークス活動再開時には再度ルノーワークスとなる事を見越した政治的判断でもあった。
なお同年シーズン終了後、チームはブリアトーレを解雇。ただブリアトーレはこの頃メカクロームエンジンの販売代理権を獲得しており、ベネトンに供給されるエンジンにも関わっていたことから、エンジン供給側のスタッフとして引き続きチームと関わりを持つこととなった。
[編集] 1998年
1998年からジャンカルロ・フィジケラ、アレクサンダー・ヴルツの若手コンビで臨むこととなったが、ルノーのワークス活動停止も重なり急激に戦績が低下することとなった。この年からチームマネージャーがプロドライブ社の代表のデビッド・リチャーズとなるも、その年の最終戦を待たずに解任され、ベネトンの創設者のルチアーノ・ベネトンの子息であるロッコ・ベネトンが後任として就任する。
[編集] 1999年 - 2001年
2000年3月15日、ルノーがベネトン・フォーミュラを買収する形でコンストラクターとしてのF1復帰を発表。あわせてブリアトーレがチームマネージャーに復帰することになった。手始めとして2001年にワークスエンジンを供給し、翌2002年から「100%ルノー」である「ルノーF1チーム」として参戦を開始するに至り、16年にわたるベネトン・フォーミュラの歴史は幕を閉じ、F1からその名前は消えることとなった。
[編集] 変遷表
| 年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | 優勝数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1986年 | ベネトン・フォーミュラ | B186 | P | BMWM12/13 | モービル | ゲルハルト・ベルガー テオ・ファビ |
6 | 1 |
| 1987年 | ベネトン・フォーミュラ | B187 | G | フォードGBA | モービル | ティエリー・ブーツェン テオ・ファビ |
5 | 0 |
| 1988年 | ベネトン・フォーミュラ | B188 | G | フォードDFR | モービル | ティエリー・ブーツェン アレッサンドロ・ナニーニ |
3 | 0 |
| 1989年 | ベネトン・フォーミュラ | B188,B189 | G | フォードDFR,HB1,2 | モービル | ネルソン・ピケ アレッサンドロ・ナニーニ |
4 | 1 |
| 1990年 | ベネトン・フォーミュラ | B189B,B190 | G | フォードHB3,4 | モービル | ネルソン・ピケ アレッサンドロ・ナニーニ ロベルト・モレノ |
2 | 3 |
| 1991年 | キャメル・ベネトン・フォード | B190B,B191 | P | フォードHB4,5,6 | モービル | ネルソン・ピケ ロベルト・モレノ ミハエル・シューマッハ |
4 | 1 |
| 1992年 | キャメル・ベネトン・フォード | B191B,B192 | G | フォードHB6,7 | モービル | ミハエル・シューマッハ マーティン・ブランドル |
3 | 1 |
| 1993年 | キャメル・ベネトン・フォード | B193A,B193B | G | フォードHB6,7,8 | エルフ | ミハエル・シューマッハ リカルド・パトレーゼ |
3 | 1 |
| 1994年 | マイルドセブン・ベネトン・フォード | B194 | G | フォードZETEC-R | エルフ | ミハエル・シューマッハ JJ・レート ヨス・フェルスタッペン ジョニー・ハーバート |
2 | 8 |
| 1995年 | マイルドセブン・ベネトン・ルノー | B195 | G | ルノーRS7 | エルフ | ミハエル・シューマッハ ジョニー・ハーバート |
1 | 11 |
| 1996年 | マイルドセブン・ベネトン・ルノー | B196 | G | ルノーRS8 | エルフ | ジャン・アレジ ゲルハルト・ベルガー |
3 | 0 |
| 1997年 | マイルドセブン・ベネトン・ルノー | B197 | G | ルノーRS9 | Agip | ジャン・アレジ ゲルハルト・ベルガー アレクサンダー・ブルツ |
3 | 1 |
| 1998年 | マイルドセブン・ベネトン・プレイライフ | B198 | B | プレイライフCG01 | Agip | アレクサンダー・ブルツ ジャンカルロ・フィジケラ |
4 | 0 |
| 1999年 | マイルドセブン・ベネトン・プレイライフ | B199 | B | プレイライフFB01 | Agip | アレクサンダー・ブルツ ジャンカルロ・フィジケラ |
6 | 0 |
| 2000年 | マイルドセブン・ベネトン・プレイライフ | B200 | B | プレイライフFB02 | Agip | アレクサンダー・ブルツ ジャンカルロ・フィジケラ |
4 | 0 |
| 2001年 | マイルドセブン・ベネトン・ルノー | B201 | M | ルノーRS21 | エルフ | ジャンカルロ・フィジケラ ジェンソン・バトン |
7 | 0 |
*太字になっているドライバーはそのシーズンのドライバーズチャンピオン
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
[編集] チームカラー
初期のチームカラーは、親会社同様アバンギャルドな印象を与えた。ブラシでマシンに直接描いたようなデザイン(B186)、赤・青・黄・緑の極彩色を用いた大胆なカラーリング(B187~B190)。果てはタイヤにまでカラーリングを施したほどであった。ちなみにティレルやアルファ・ロメオのスポンサーだった頃は緑地に白のスポンサーネームとロゴとシンプルだったが、トールマン最後のマシンとなるTG185では白地に万国旗を散りばめたデザインを採用し、後のハイセンスなカラーリングデザインを髣髴とさせている。 またB186を駆ったベルガー、ファビのヘルメットのカラーリングデザインも当時はマシンカラーに合わせたものとなっていた。
大胆なのはカラーリングのみではなかった。マシンデザイナーのロリー・バーンは、空力が現在ほど重要視されなかった当時のF1において、トールマン時代にスポーツカーノーズを採用したTG183B、細く先鋭なペンシルノーズを採用したB187~B190、NAエンジン用エアインテークをマシン側方に配置したB188、高く持ち上がったバナナノーズを持ったB192など前衛的なデザインのマシンを次々と開発。現代F1への影響は少なくない。
しかし、バーンがチームを離脱した1997年以降は、成績の下降もあってコンサバティブな方向性にシフト。
カラーリングにおいても、1991年からキャメル(黄色)、1994年からマイルドセブン(青色)がスポンサーについたことで、初期の独自性を失ってしまった。
[編集] 脚注
- ^ 『F1グランプリ年鑑 1989-90』 アラン・ヘンリー、バベル・インターナショナル・訳、CBSソニー出版、1990年、p.28。ISBN 4-7897-0502-1。
- ^ "New Benetton launched today" (英語) (1996-02-05). 2008-06-28 閲覧。
[編集] 関連項目
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