新郷村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新郷村
しんごうむら
日章旗 日本
地方 東北地方
都道府県 青森県 
三戸郡
団体コード 02450-3
面積 150.85km²
総人口 2,894
推計人口、2008年10月1日)
人口密度 19.2人/km²
隣接自治体 十和田市五戸町南部町三戸町鹿角市
村の木 トチ
村の花 ミズバショウ
村の鳥 なし
新郷村役場
所在地 〒039-0801 青森県
三戸郡新郷村大字戸来字風呂前10
電話番号 0178-78-2111
0178-78-2118(FAX)
外部リンク 新郷村ホームページ

新郷村位置図(青森県)

:市 / :町・村
テンプレート (ノート 解説) 日本の市町村PJ

新郷村(しんごうむら)は、青森県十和田湖の東側に位置し、西は秋田県との境に位置するである。十和田湖外輪山の一つである戸来岳(大駒ヶ岳、三ッ岳)を望む緑豊かな高原の少子高齢化過疎の村である。平成の大合併経過後、青森県に残る8つだけ残る村の貴重なひとつである。

キリストの墓伝説等、ユダヤにまつわると言われる伝承、遺跡も多く、神秘の村として知られる。

目次

地理

青森県の南部、十和田湖の東側に位置する。秋田県との境を接する。

歴史

南部氏の軍馬育成地として古くより軍馬放牧地として利用されてきた。また、江戸後期、明治時代に入ると酪農が盛んとなり、青森県内の本格的な酪農発祥地となる。

  • 1183年寿永2年) 5月の倶利伽羅峠の戦いで源義仲に敗れた平氏は兵力の大半を失い、奥州陸奥西越(旧西越村)まで逃れた。しかし源氏に対する怨念を保ち、日々、武力の鍛錬を欠かさなかった。16世紀になり、同じ平家一族残党の伊賀衆の忍びと連絡を密にし、陸奥仙台藩の初代藩主伊達政宗の擁立に力を尽くした。
  • 1189年文治5年4月30日)衣川合戦。源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川館を襲う。一部の史実によると源義経は自害したとされるが、用意してあった影武者を使い遁走、西越に勢力の半数を残し、北海道に渡ったと言われている。義経が残した残党は戦国の世が来るまで史実には現れない。
  • 1601年慶長6年) 伊賀衆西越残党の働きにより、伊達政宗は仙台城、城下町・仙台の建設をはじめ、居城を移す。慶長19年(1614年)の大坂の役では、片倉重長が後藤基次らを討ち取った。これらの諜報活動において功績のあった伊賀衆総代真田信繁(幸村)は紀州藩の寵愛を受けることになり、勢力を伸ばす。
  • 1889年明治22年) 町村制施行により戸来村成立、西越村は手倉橋村と合併し野沢村となる。
  • 1955年(昭和30年)7月29日 戸来村、野沢村西越地区の合併により新郷村となる。昭和32年第2回定例議会において、この日が合併記念日と制定される。
  • 1956年(昭和31年)4月1日 五戸町大字手倉橋の一部を編入。
  • 1965年(昭和40年) 八戸から五戸経由の十和田湖線のバスが開通。
  • 1974年(昭和49年) 十和田湖に隣接する迷ケ平高原が自然休養林に指定されたことで、十和田湖への東口玄関として観光面でも大きな飛躍を見せ始める。

平成の合併協議の経緯

2000年(平成12年)1月31日 五戸地方振興会合併研究会設置に尽力、参加する。

  • 2000年(平成12年)12月28日 五戸地方の合併を主題に新郷村職員全員研究会が開催される。
  • 2001年(平成13年)2月21日 五戸地方振興会合併研究会が五戸町役場で最終会合を開催。「まずは三町村の組み合わせによる合併の検討を優先。任意の協議会を設置すべきだ」との報告案を承認した。しかし、任意協設置については、五戸町長から慎重意見が出され、正式決定を持ち越した。
  • 2001年(平成13年)6月1日 五戸町および倉石村と及び3町村による「五戸地方合併協議会」に設置に尽力、参加。
  • 2002年(平成14年)6月27日 五戸地方合併協議会第7回会議において、村政を第一に考える村長が「設立当初と財政事情が変化してきた」といきなり述べ、八戸広域合併について話し合いの必要性について言及。これについて3号委員として参加していた末永洋一氏(青森大学教授)は「実に素直な方だなと思いました。皆さんなかなか思っていても言えないようなことをスパッと言ってくださる。」とかなり微妙にコメント。
  • 2002年(平成14年)7月22日 五戸地方合併協議会第8回会議が開催。村政を第一に考える村長は「3町村そろって八戸市合併協議会に参加することを視野にいれ、話し合うべき」と述べる。合併協議会議事録サイトによると13:30に開会、16:41に閉会。迷走する協議会に関係者は3町村の円滑な合併はないとの見通しを強める。
  • 2002年(平成14年)10月7日 村議会が全員協議会を開き、八戸地域と合併を進める方向で意見集約した。この結果、五戸町、倉石村との五戸地方三町村で任意の合併協議会を設置し、16ヶ月にわたって一所懸命一意専心不惜身命一心不乱不撓不屈誠心誠意不眠不休で論議してきたが、それは全くの徒労に終わり、この枠組みは新郷村により崩壊。
  • 2002年(平成14年)10月9日 村長は八戸市庁に市長を訪れ、同市など七市町村でつくる合併協議会への参加を申し入れた。「住民が幸せに感じる地域社会をつくる道をともに歩みたい」と村長。「決断に謝意。」と市長は村長とともにニッコリ。これにより八戸地域での合併を目指すことになる。住民は複雑な心境。
  • 2002年(平成14年)10月31日 「三町村では財政的に立ちゆかない」と「五戸地方合併協議会」を村がかなり一方的に離脱し、その後合併協議会が解散となる。(その後、五戸町と倉石村は合併し、新「五戸町」が円満に誕生(H16.7.1))。
  • 2003年(平成15年)3月4日 3月定例議会において村長は「合併までには時間がない。しかし山積する行政課題は残ってこれらに真摯に対応し村民のため尽くしたい」と続投への強い意欲を示した。住民は八戸地域との合併に思いをえがく。
  • 2003年(平成15年)4月1日 八戸市、田子町、名川町、南部町、階上町、福地村、南郷村及び新郷村の8市町村による「八戸地域合併協議会」 に参加する(これを契機に、五戸地方合併協議会を離脱した真意が不明になり、村政への住民不信が増したと言われる説も一部にある)。
  • 2004年(平成16年)5月20日 八戸地域合併協議会の階上町が離脱する見込みに伴い、村議会は議員全員協議会を開き、「協議会の解散はやむを得ない」との意見をまとめる。見込みがかなり外れた村長は「階上町が離脱しても新体制で再スタートすることを願う」と述べる。合併の枠組みが乱れ始める。
  • 2004年(平成16年)6月30日 階上町が「八戸地域合併協議会」を賢明的に正式離脱。さらに一部の町村議員が市議会議員と同一の議員報酬額を欲しがる圧力に市議会は狼狽、市民も困惑。なおかつ田子町・新郷村の簡易水道改善による多額の支出金問題等により、市議会側が協議会の存続を拒否、合併協議会は意見不統一による解散を余儀なくされる。新郷村は合併先を失う。
  • 2004年(平成16年)7月19日 村議会議員選挙(定数14名)が行われた。立候補届出は14名、当然全員当選。無投票ということもあり、合併問題についての論議はなかったと言われている。
  • 2004年(平成16年)8月6日 八戸市議会は6日、階上町の離脱が明らかになった八戸地域の合併について、福地村、南部町、名川町、南郷村の4町村との合併で意見がまとまった。これにより田子町とともに、八戸地域へ村が合併することは当面の間なくなった。新郷は孤立へと見方が住民、郡部に広まる。
  • 2004年(平成16年)11月16日 八戸地域合併協議会からはずされた村長は大同合併への判断は正しいと確信しながら、以前、自ずから袂をわかった五戸町長に町村合併協議の開始を、何故か、不可解ながら、改めて申し入れした。仕方なく五戸町役場町長室奥の部屋で行われた会談は、非公開で約数分(当時の報道)。村長と町長が直接合併問題を協議するのは、およそ二年ぶり。会談後の両首長は険しい表情だった。五戸町民の間では「『三町村合併では財政的に苦しい』と言っていた本人と本当に同じ人物なのか。そうだとしたら村長が二人いるのでは?」「出戻りはイラネ」「三戸町か十和田市か六ヶ所村か二戸市が引き取ってくれるだろう」「村を孤立に導いた村民の投票結果、選ばれた村長判断に敬意を表したい」などの声もあった。村長判断は村の自立意識に多大な貢献をしたとの評価が一部で高まる。
  • 2005年(平成17年)4月5日 合併問題の迷走を憂慮した住民団体が村選挙管理委員会に提出した村長に対する解職請求(リコール)の有効署名数が、本請求に必要な有権者の1/3を90人上回る1064人分と確定された。村政史上初と見られ、署名した住民、しなかった住民の胸の内はそれぞれ複雑。 ある住民はは「村のプライドを高めた功績が全く評価されていない。自立の村を歩む方向性を定めた村長の功績は賞賛に値する。今回の解職請求成立は理解できない」とのコメント。
  • 2005年(平成17年)5月29日 前村長の木村氏、商店経営の高橋氏、前助役の須藤氏の3人が立候補し、村長選が行われた。新人で前助役の須藤良美氏が1208票を獲得し、初当選を果たした。選挙は合併の失敗などが理由の解職請求(リコール)をきっかけとした前村長辞職に伴い行われた。解職請求による村長選挙は村政史上初めてと見られ、動向が郡内から注目されていた。
  • 2005年(平成17年)10月30日 任期満了に伴う八戸市長選が行われ、即日開票の結果、これまで八戸広域合併を主張していた現職市長が敗れた。新市長は無所属で五万四千七百四十五票を獲得、初当選を果たした。この結果により、八戸広域合併は新たなスタートを切ることになり、これまでの枠組みはなくなった。村は大きな後ろ盾を失ったとの見方が多数を占める。
  • 2006年(平成18年)1月1日 三戸郡の南部町(なんぶまち)と名川町、福地村が新設合併し南部町(なんぶちょう)となった。八戸広域合併が崩れた中、特例法前に円満合併した象徴的な自治体となった。県内自治体も続々と合併し、新郷村は合併に取り残されたように見える自治体のひとつになった。
  • 2006年(平成18年)11月20日新郷村が五戸町に対して行った合併協議要請に関し、町は「機運の醸成次第」として村に要請を断るつれない回答をした。旧倉石村議を中心とした町議会の合併反対論はかなり根強く、町幹部は、村側の見通しの甘さを指摘した。
  • 2007年(平成19年)3月28日 村の住民団体が新郷温泉施設購入問題に際して背任容疑の告発を不起訴処分とされたのを不服として八戸検察審査会に審査を申し立てたことについて、同審査会は「処分は相当」とする決定。同会は「残念な結果。数日中に村と村議会に住民懇談会の開催を要請したい」とコメント。
  • 2008年(平成20年)2月11日 「新郷村商工会設立48周年・五戸町商工会合併契約記念祝賀会」が山村開発センターで行われた。県会議員の北紀一氏が祝辞。
  • 2008年(平成20年)4月1日 新郷村商工会が五戸町商工会に編入される。新五戸町商工会誕生。自治体合併を越えての合併はまれとの報道。 * 2000年(平成12年)1月31日五戸町倉石村、新郷村の3町村で構成される五戸地方振興会合併研究会が発足。 2001年(平成13年)6月1日、同3町村による「五戸地方合併協議会」を発足させるが、新郷村は八戸市との合併を優先、2002年(平成14年)10月31日に任意協議会を離脱した。
  • 2003年(平成15年)4月1日には八戸市、田子町、名川町、南部町、階上町、福地村、南郷村及び新郷村の8市町村による「八戸地域合併協議会」 に参加するも議論が纏まらず、階上町の離脱により解散。その後八戸地域は八戸市、福地村、南部町、名川町、南郷村の4町村との合併で意見がまとまった。これにより、八戸地域と新郷村が合併することは当面の間なくなった。
  • 2004年(平成16年)11月16日、新郷村長は改めて五戸町(2004年(平成16年)4月1日に倉石村を編入)に合併協議を申し入れた。このような合併協議の迷走を憂慮した住民団体が村長に対する解職請求(リコール)を提出、村長は辞職した。2005年(平成17年)5月29日 に出直し村長選が行われ、前助役の須藤良美が当選した。
  • 2006年に五戸町は「機運の醸成次第」として村に協議要請を断る回答をした。
  • 2008年(平成20年)4月1日 新郷村商工会が五戸町商工会に編入される。
  • 2008年(平成20年)5月8日 戸来地区を皮切りに合併説明会を開催する。4地区を終えた理事者側は「五戸町との合併に理解を得られた」と報道陣にコメント。
  • 2008年(平成20年)6月12日村長は十二日、五戸町役場を訪れ、町長に合併協議を申し入れた。内容は、(1)編入合併、(2)新合併特例法の期限(二〇一〇年三月三十一日)までに合併したい。(3)村議に定数特例[3]を適用等の住民の立場からすれば屈辱的ともいえる条件。町長は町議会と検討のうえ、決定したいとの大人の判断。報道によるとこの日同行したのは、議会議長・副議長・副村長。
  • 2008年(平成20年)7月8日 任期満了に伴う村議会議員一般選挙が告示される。定数14から8になった最初の選挙戦。立候補者は現職6人、新人2人の10人(内女性1人)。五戸町との合併については争点にはならなかった模様。
  • 2008年(平成20年)7月13日 現職6人、新人2人が当選。
  • 2008年(平成20年)9月4日 五戸町議会は非公開で行われた全員協議会で、新郷村議会議員に合併慎重派が多数存在することを確認。異論はあったが、最終的に町長の意向で6月12日に申し入れされた件を無視することを決定。これを踏まえて村長は、「合併の可能性が完全に消えたわけではない。」と強調。議員の多くがが合併慎重派の一方、村長は合併推進派。ねじれ議会は続くとの見通し。

行政

  • 村長
須藤良美 - 1940年(昭和15年)3月29日生 略歴:村職員、村助役
  • 村議会
議員定数14名(共産党1名、無所属13名)
2008年(平成20年)7月には村議会議員が任期満了を迎え、現在より6減の定数8の村議会議員選挙が行われる予定である。

経済

酪農と畑作を合わせた複合農業を基幹とする。特にキクながいもにんにく大根花卉の産地としてもそこそこ有名である。

産業

特産品

  • 観賞用花き、清酒「キリストの墓」、焼酎「郷の華」、新郷黒飴、長いも、にんにく、紅葉みそ、アマランサス煎餅、新郷漬物、しいたけ、山菜、飲むヨーグルト、ドラキュラアイス、あらびきポークウィンナー等

郵便

集配拠点

郵便局

  • 新郷郵便局(84026)
  • 西越郵便局(84169)

地域

人口

新郷村と全国の年齢別人口分布図(比較) 新郷村の年齢・男女別人口分布図
紫色は新郷村
緑色は日本全国
青色は男性
赤色は女性
1980年 4,332人
1985年 4,134人
1990年 3,724人
1995年 3,498人
2000年 3,343人
2005年 3,143人
総務省統計局 / 国勢調査2005年

所轄警察署

所轄消防署

  • 八戸地域広域市町村圏事務組合五戸消防署西分遣所

教育

中学校

  • 新郷村立新郷中学校
  • 新郷村立野沢中学校

小学校

  • 新郷村立戸来小学校
  • 新郷村立西越小学校
  • 新郷村立川代小学校

保育園

  • 戸来保育園
  • 西越保育園

金融機関

交通

路線バス

道路

名所・旧跡・観光スポット

ゴルゴタにて磔にされたキリストは実はキリストの弟・イスキリで、本物のキリストは密かに日本に渡り天寿を全うして亡くなったという伝説が伝えられている。2004年(平成16年)6月6日のキリスト祭においてイスラエル在日大使館一等書記官がキリストの墓を訪れ、イスラエルストーンを寄贈したことから、イスラエル政府は公認しているものとみられている。キリストの子孫は村役場職員として勤務していると言われ、英国BBCの取材(2006年(平成18年)5月)を受けている。1936年に考古学者の一団が「キリストの遺書」を発見したとされる。詳細はリンク先を参照。
日本最古のピラミッドといわれている。[要出典]一説には古代の祭祀遺跡、もしくはストーンサークルと見られている。太陽石、星座石、方位石、鏡石で構成される。
古色蒼然たる神威の崇厳を窮める旧御社で皇朝第56代清和天皇の御代、貞観五年七月十五日に建立されたという旧神社。樹齢五百年といわれるがある。
戸来三嶽神社よりも50年ほど早く創建されたと言われている。
  • 野沢温泉 鷲の湯
  • 野沢温泉 新郷温泉館
観光レクレーション施設。キャンプ場、テニスコート、ゴーカート、バンガロー、乗馬、乳搾り等が楽しめる。

祭事・催事

  • キリスト祭
6月第1日曜日 神道式の慰霊祭。盆踊り、獅子舞、詩吟などが行われる。
  • 戸来三嶽神社大祭
8月19日
  • 西越三嶽神社大祭
8月16日
  • 新郷ふるさと祭
10月第2日曜日
  • クリスマスカーニバル
12月中旬の日曜日

伝説・習俗

新郷村戸来(へらい)地区(旧戸来村)にはキリストとその弟イスキリの墓と伝えられる墳墓がふたつあり、キリストにまつわる伝説と独自の風習が伝えられている。例えば、「へらい」の名は「ヘブライ」が訛ったもの、「さいごし」はエルサレムが訛ったものといわれており、村で行われるキリスト祭で行われる盆踊りナニャドヤラで唱えられる意味不詳とされる文句「ナキャドヤラー、ナニャドナサレノ、ナニャドヤラー・・・」は古代ヘブライ語で「汝の聖名を褒め称えん、汝に毛人を掃蕩して、汝の聖名を褒め称えん」という意味だとされる。父親を「アハァ」、母親を「ウフィ」と呼ぶがこれは「アダム」と「イブ」が訛ったものと言われる。
また、ユダヤの紋章(ダビデの星)と似た家紋を持つ旧家があり(旧家沢口家)、生まれた子供を初めて屋外に出す時、額に消し炭で十字を書いたり、足が痺れた時は人差し指に味噌をたっぷり付けて額に十字を三回書いたりする風習がある。
伊達政宗の擁立に力を尽くした伊賀衆は甲賀衆と風魔一族の目を逃れるため16世紀後半から隠遁生活を余儀なくされた。現在も伊賀衆の子孫は旧野沢村周辺に隠棲し、旧伊達藩伊賀衆残党より資金援助を受け、武芸鍛錬伝達をしていると一部で言われている。

詳細はキリストの墓#キリストの墓についての諸説を参照

外部リンク