福岡ソフトバンクホークス

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福岡ソフトバンクホークス(ふくおかソフトバンクホークス、Fukuoka SoftBank HAWKS Baseball Club)は、日本プロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。福岡県保護地域とし、同県福岡市中央区にある福岡Yahoo! JAPANドーム専用球場(本拠地)としている。また、ウエスタン・リーグに所属する二軍の本拠地は同市東区にある福岡市雁の巣レクリエーションセンター野球場である。

1989年に本拠地を大阪府から福岡県に移転して以来九州地方で唯一のNPB球団である

福岡ソフトバンクホークス
チーム名 福岡ソフトバンクホークス
会社名 福岡ソフトバンクホークス株式会社
加盟団体 パシフィック・リーグ(1軍)、ウエスタン・リーグ(2軍)
創設年度 1938年
チーム名の遍歴 南海軍(1938年 - 1944年途中)
→近畿日本軍(1944年途中 - 1945年
→グレートリング(1946年 - 1947年途中)
→南海ホークス(1947年途中 - 1988年
→福岡ダイエーホークス(1989年 - 2004年
→福岡ソフトバンクホークス(2005年 - )
フランチャイズ
の遍歴
大阪府1952年 - 1988年)→福岡県1989年 - )
本拠地 福岡Yahoo! JAPANドーム(1軍)、福岡市雁の巣レクリエーションセンター野球場(2軍)
収容人員 35,695人(ヤフードーム)(野球開催時35,773人)
オーナー 孫正義
運営母体 ソフトバンク
監督 秋山幸二
タイトル リーグ戦:15回、日本シリーズ:4回、セ・パ交流戦:1回
優勝年度 (リーグ戦)
1946、1948、1951、1952、1953、1955、1959、1961、1964、1965、1966、1973、1999、2000、2003
(日本シリーズ)
1959、1964、1999、2003
(セ・パ交流戦)
2008
プレーオフ
(前後期制)
1回 - 1勝0敗(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)
1973
プレーオフ
(2004-2006)
3回 - 0勝3敗(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
2004、2005、2006
クライマックス
シリーズ
1回 - 0勝1敗(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
2007
  

目次

[編集] 球団の歴史

[編集] 南海時代

[編集] 戦前

[編集] 鶴岡監督政権

  • 終戦後の1946年にプロ野球が再開されリーグに復帰。あわせてチーム名をグレートリングに改名した。愛称は「近畿」で、「近畿グレートリング」と呼ばれることもあった(参照)。監督は鶴岡一人(当時は山本姓)が選手兼任で勤めた。戦後の混乱で物資・食料が不足する中、鶴岡は公私を問わず選手らの面倒をみるなど奔走。機動力を重視した戦術で、プロ野球再開シーズンを球団初優勝で飾った。
  • 1947年6月1日、旧南海鉄道の事業一切が近畿日本鉄道から南海電気鉄道へ譲渡され、球団の親会社も南海電気鉄道へ移行。これにあわせてチーム名を南海ホークスに改称した。
  • 1948年オフにはエース・別所昭読売ジャイアンツ(以下、巨人と省略)に引き抜かれる事件が発生した。詳細は別所引き抜き事件を参照。
  • 1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。1950年に新本拠地として大阪球場が完成し、ようやく自前の球場を確保する。
  • 1951年からリーグ3連覇。戦後より続けてきた機動力野球は、鉄壁の守備力を誇る「100万ドルの内野陣」(一塁・飯田徳治、二塁・鶴岡のち岡本伊三美、三塁・蔭山和夫、遊撃・木塚忠助)を生み出した。この頃の南海は「洗練されたプレーで観客を魅了する都会的なチーム」と評された。1955年にもリーグ優勝を果たしたものの日本シリーズではいずれも巨人に敗れ、「ナンカイ(何回)戦っても巨人に勝てないナンカイ(南海)」と揶揄された。
  • 機動力野球では巨人に対抗できないと考えた鶴岡は、チーム構想を長打力重視の「400フィート打線」へと転換した。しかしなかなか軌道に乗らず、1956年から3年連続で西鉄ライオンズに苦杯を喫する。
  • 1959年に立教大学から立教三羽烏「長嶋・杉浦・本屋敷」の一人杉浦忠が入団。長嶋茂雄は大学時代から南海に「栄養費」の支給を受けており、入団は確実と言われたが、土壇場のどんでん返しで巨人に奪われる。
  • 1959年に4年ぶり7度目のリーグ優勝を果たす。この年は打線以上に杉浦忠を中心とする投手陣が強固であり、日本シリーズでは杉浦が第1戦から4連投して4連勝、4勝0敗のストレートで巨人を下し、球団初の日本一に輝いた。大阪市内を巡航したパレードは「涙の御堂筋パレード」と言われた。当時は強豪チームというだけでなく人気も阪神タイガースを凌ぎ関西一であった。
  • その後、1961年にはリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは巨人に敗れる。しかし、1964年には阪神との日本シリーズジョー・スタンカの2試合連続完封で制し、2度目の日本一に輝く。
  • 鶴岡は1965年に一旦辞任するが、後任監督となった蔭山和夫が就任4日後に急死したため復帰し、1968年まで指揮を執った。詳細は南海蔭山新監督急死騒動を参照。
  • テレビ野球中継が始まると、南海は人気を背景に高額の放映権料を要求した。また、直接球場に足を運ばなければ意味がないとして、TVの効果を疑問視していた。ところが、TV中継の拡大ともに、系列の日本テレビ放送網による全国ネット中継を行う巨人と同一のセ・リーグである阪神タイガース戦ばかりが放送され、野球人気そのものがセ・リーグ偏重となり、パ・リーグの南海の人気は低落していった。その結果として、南海戦のTV中継はさらに減少する悪循環であった。かつて南海電鉄が毎日放送の主要株主であった関係から、放映権も毎日放送中心だったが、阪神への一極集中が進むにつれ、いかに阪神戦を確保するかに放送局の関心も移っていった(ただ、毎日放送との関係は、ダイエーへの球団売却まで続いた)。
  • 快進撃を続けたチームだが、当時から経営的には低迷した。毎年の赤字を電鉄本社が補填し続ける現状に、電鉄労働組合からは賃上げ闘争のつどやり玉に挙げられ、「野球に回す金があったら給料を上げろ」「早く球団を売れ」と黒字化の見通しの立たない球団への風当たりは強いものがあった(同じく鉄道会社が親会社の近鉄阪急も苦戦続きであった)。また、本拠地球場が難波という南海以外の鉄道でも来場可能な立地にあったために、鉄道業へのプラス効果が自社鉄道以外では来場困難な阪神(甲子園)や近鉄(藤井寺)などに比べて大幅に低いことも南海内でのホークスの立場を弱くしていた。

[編集] 野村監督時代

  • 1969年飯田徳治が監督に就任したが、投手陣に怪我人が続出したこともあって戦後初の最下位に転落した。飯田は1年で辞任し、後任には選手兼任で野村克也が就任した。野村はヘッドコーチにドン・ブレイザーを招聘し、現在のID野球の原点となる「シンキング・ベースボール」をスローガンとした。野村時代はリーグ優勝は1973年のみだったが、6度のAクラス入りと安定した成績を残した。しかし1977年シーズン終盤に野村が解任されると後を追うように江夏豊柏原純一もチームを去り、チーム力が大きく低下する。

[編集] 広瀬監督時代から南海身売りまで

1978年広瀬叔功が監督に就任すると、野村カラーの一掃を目指し、「泥まみれの野球」を標榜するも門田博光アキレス腱断裂などもあり、6位、5位と低迷。

  • ホークスの成績低迷と同時期に阪神では掛布雅之岡田彰布などの若きスター選手が台頭したこともあってますます両球団の人気格差は開き続けた。
  • 1980年には「ドカベン」こと香川伸行が入団し、序盤は首位争いを演じるも結局は最下位に低迷し、広瀬は退陣。1981年1982年は野村監督時代のヘッドコーチであるブレイザーが監督を務め、1983年にはかつてのスター穴吹義雄が二軍監督から昇格した。1984年には阪急や近鉄と首位争いを演じるも終盤に10連敗を喫し、優勝戦線から脱落してしまう。さらにシーズンオフ(1985年早々)にはスター候補として期待を集めていた久保寺雄二が帰省先で急死するアクシデントもあった。1986年に黄金時代のエース・杉浦忠が監督に就任するも長期低迷には歯止めがかからず、川勝傳オーナーが亡くなった1988年ダイエーへの球団売却が決定した。同年門田が40歳という年齢で44本塁打・125打点を挙げ40歳の選手としての最高記録をマークして南海最後の花道を飾った。

[編集] 福岡移転以降

[編集] 平和台

  • 1988年11月1日、南海電鉄は「ホークス」の名を残すことと杉浦監督の留任を条件に、球団をダイエーに売却した。関西国際空港開業に伴う難波再開発事業を推し進め、不採算の球団を売却しようとする南海側と、福岡再開発事業の目玉に球団を保有し、九州を核としアジアをも視野に入れた商圏拡大を目論むダイエー側の思惑が一致したためであった。
  • 大阪市では売却に対し反対運動も行われたが(関西地区においても、今でもホークスファンが少なくない。その点に関しては後述)、チームの本拠地は福岡市平和台球場に移され、球団名も福岡ダイエーホークスと改められた。新天地となる福岡は、かつて南海と覇権を激しく争った西鉄ライオンズ(当時は埼玉に移転して西武ライオンズ)の本拠地だっただけに福岡のファンに受け入れられるか心配されていたが、10年ぶりのプロ球団設置に地元では歓迎ムードの方が大きかった。もっとも移転後ダイエーがしばらく下位低迷を続けたこともあり、今のような圧倒的人気という訳には行かずスタンドには空席が目立つことも多かった。また、当時の西武との対戦では西武ファンの割合が多かった。
  • 移転初年の1989年は近鉄バファローズに13勝11敗2分け、オリックス・ブレーブスに12勝13敗1分け、西武ライオンズに11勝13敗2分けと上位球団と互角に戦い、最終的に1位と3位の勝率が2厘差というパ・リーグ史上最大の混戦を演出する立役者となった。さらに準本拠地の北九州市民球場では7戦して全勝(特に最初の主催ゲームとなった4月20日吉田豊彦の完投で、オリックスの開幕連勝を8で止めている)しており、ファンの間では「北九州不敗神話」と言われた。
  • 1990年から田淵幸一が監督に就任し、福岡移転時に関西残留を希望しオリックスに移籍していた門田の復帰(91年)をはじめ積極的にトレードを敢行。生え抜きでも佐々木誠吉永幸一郎村田勝喜といった若手の成長はあったものの、90年チーム成績6位、1991年5位、1992年4位とBクラスの壁を敗ることができず田淵は辞任した。この時期のトレードで獲得した選手は今井雄太郎島田誠、そして門田と引退間近な高年齢の選手の獲得が目立ち、池田親興大野久本原正治といった成功例はあったものの1~2年のみ活躍した後は長続きしなかった。この年を最後に平和台球場から撤退。

[編集] 福岡ドーム

  • 1993年根本陸夫が監督に就任。この年、日本初の開閉式屋根を有するドーム球場として福岡ドームが完成するも、新本拠地での初年度は、ホームゲーム60試合でわずか18本塁打しか打てず(この年福岡ドームで個人年間最多ホームランを記録したのはホークスの選手ではなく近鉄のラルフ・ブライアントという有様)、また投手陣も平和台時代の惨状が改善されないまま最下位に転落。これで南海時代の1978年からこの年まで16年連続シーズン負け越しで、これは国鉄スワローズの15年連続(1962年1976年)を更新した日本プロ野球ワースト記録である。現状打破に向け、同年11月に佐々木誠村田勝喜橋本武広とのトレードで、西武ライオンズから秋山幸二渡辺智男内山智之を獲得。当人同士は勿論の事、両チームの監督やオーナーなどにも正式発表まで知らされなかった、水面下での大型トレードを成立させ、日本中を驚かせた。
  • 1994年、福岡に移転後初めて優勝争いに加わり、阪神よりFA移籍の松永浩美カズ山本ケビン・ライマー秋山幸二という重量打線で快進撃を見せるも、わずかの差でAクラス入りを逃し4位となった。しかし、南海時代の1977年以来17年ぶりに勝ち越した(最終的に貯金が9あった)。同年オフのドラフト会議では、駒澤大学への進学を内定していた城島健司を1位指名した。また、FAで西武から石毛宏典工藤公康も移籍。西鉄時代の本拠地だった関係で当時の福岡にはライオンズファンも多かったが、ライオンズから多くの主力選手を移籍させることにより、これらのファンをホークスファンとすることに成功した。
  • 1995年王貞治が監督に就任。大物助っ人・ケビン・ミッチェルも加入するなど実績のある選手が揃い、一気に優勝への期待が高まったが、故障者続出などにより5位に終わる。
  • 1996年5月9日日本生命球場で開催された近鉄バファローズ戦で敗北した後、日頃の采配を疑問視されていた王の乗ったバスに、ファンから生卵がぶつけられるという事件が発生した(詳細は後述)。この年は大不振で、この日で9勝22敗と大きく負け越しており、結局最下位に終わった。なお、本試合は同球場最後のプロ野球公式戦であった。また、この年で南海時代から19年連続Bクラスとなり、それまで広島カープが保持していた連続Bクラス日本記録(1950年から1967年までの18年)を更新した。この年、村松有人盗塁王のタイトルを獲得。
  • 1997年日本ハムファイターズと同率の4位に終わり、20年連続Bクラスでかつ4位以下。連続4位以下の記録は近鉄バファローズ1950年から1968年までの19年連続を更新する日本プロ野球ワースト記録となった。
  • 1998年オリックス・ブルーウェーブと同率の3位に入り、南海時代から続いていた連続Bクラスの記録は20年で止まる。ただし前年度(1997年)の順位がオリックスの2位に対しダイエーは4位だったため、翌1999年の本拠地開幕権を獲得できなかった。
  • 1999年、福岡移転後初のリーグ優勝。このとき、シーズン終了直前まで総得点が総失点を下回り、史上初の珍事かと話題になったが、最終的には総得点が上回った。さらに日本シリーズでは星野仙一率いる中日ドラゴンズを4勝1敗で下し、日本一となった。また、キャプテン秋山幸二が2本の本塁打とファインプレーでシリーズMVPを獲得した。秋山は西武時代の1991年にも日本シリーズMVPを獲得しており、史上初の2球団での日本シリーズMVP獲得者となった。球団の地元である北部九州地区でRKB毎日放送で中継された1999年10月28日の第5戦は、ビデオリサーチ調べで平均視聴率47.1%(RKB毎日放送史上1977年・1978年の日本レコード大賞に次ぐ歴代3位)、瞬間最高視聴率71.6%という驚異的な数字を記録した。
  • 2000年、リーグ2連覇。日本シリーズ長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツとの対戦で「ON対決」と騒がれたが、2勝したのち4連敗で敗れた。
  • 2001年シーズンは終盤まで大阪近鉄バファローズ・西武ライオンズと優勝争いするも、最後は近鉄に破れ三連覇を逃した。この年は西武ドーム千葉マリンスタジアムで3勝11敗とビジターで弱かったのが敗因となった。
  • 2002年5月14日5月15日台湾台北市立天母棒球場で行われた対オリックス・ブルーウェーブ戦で、日本のプロ野球の公式戦としては戦後初となる台湾での試合が興行された(試合は1勝1敗、詳細は後述)。しかしその後失速し、優勝した西武に16.5ゲーム差をつけられる惨敗を喫する(台湾での蒸し暑い気候から一転、次のカード〈長野〉の気温1ケタ間近という寒さの中での試合が、多くの選手に同時に不調をもたらした原因ではないかと見られている)。同年、秋山が現役引退。チームは首位西武の独走を許しながらも近鉄と同率2位。
  • 2003年、前年まで21年連続で負け越していた西武にも勝ち越し、リーグ「完全優勝」(全球団への勝ち越し)を達成。その後、阪神タイガースとの日本シリーズを4勝3敗で制し、福岡ダイエーホークスとして2度目(南海時代から数えて3度目)の日本一を達成した。また、史上初の100打点の選手が4人(井口資仁松中信彦城島健司ペドロ・バルデス)の「100打点カルテット」が活躍した。詳細は後述。優勝パレード直後の11月3日小久保の無償トレードが発表され多くのファンから抗議が殺到する。(小久保無償トレード問題。)
  • 2004年はシーズンを1位で通過しながら、同年から導入されたプレーオフ第二ステージで西武に2勝3敗で敗れ、優勝を奪われた。レギュラーシーズンの活躍と打撃三冠王を評価されてチームの主砲松中信彦がリーグMVP、抑え投手として活躍した三瀬幸司新人王に輝き、ベストナインにも4名が入った。
  • 2004年10月、秋山が2軍監督として球団復帰。

[編集] 二度目の球団売却

  • 2004年10月13日、経営再建していたダイエーが自主再建を断念し産業再生機構への支援を要請し、機構側が「国営ホークスになることは無い」と語ったことから球団の売却が濃厚になる。11月30日ソフトバンクが球団を総額200億円で買収することなどを正式発表し、同日付でNPB(日本プロフェッショナル野球組織)への加盟申請を行った。12月24日、加盟申請(球団譲渡)がプロ野球オーナー会議で承認され、翌年1月28日にダイエーの保有する球団株式(所有割合98%、残りの2%は中内正オーナー〈当時〉が継続保有)をソフトバンクが50億円で譲り受けることになった。これと同時にソフトバンクとホークスタウンは、営業譲渡と合わせ20年間の福岡ドーム使用契約を結んだ。1年間の球場使用料は48億円となる。また同日付けでコロニー・キャピタル傘下のホークスタウンが所有する興行権を150億円で取得する営業譲渡契約を締結することで合意した。同日、ソフトバンクは新チーム名「福岡ソフトバンクホークス」と球団ロゴマークを発表。なお、次項に掲載しているマスコットや球団の応援歌などについてはダイエー時代のものを必要最小限の変更に留め、そのまま継承することを合わせて発表した。
  • 2005年1月28日ソフトバンクがダイエーの保有していた球団株式と興行権を取得し、福岡ドームの使用契約を締結することで名実ともに「福岡ソフトバンクホークス」のスタートを切った。また監督の王貞治が球団の取締役副社長兼GM(ゼネラルマネージャー)に就任することも発表された。
新チームマークは英語の「S(SoftBank)」と「h(Hawks)」を組み合わせたもの。チームロゴに挿入されている黄色の2本線は親会社であるソフトバンクのCIロゴをアレンジした。オリックスへ吸収合併された大阪近鉄からFA宣言した大村直之を獲得。また、大リーグ通算214本塁打を誇り、独特のオープンスタンスで日本でも有名なスラッガーであるトニー・バティスタを2年総額1500万ドル(約15億8000万円)で獲得したほか、イチローのチームメイトでレギュラーとして活躍していたことで日本のファンにも知名度が高かったホルベルト・カブレラを年俸2億8000万円で獲得。二人の現役メジャーリーガーは新球団の目玉として期待された。
  • 2005年1月30日、新チームお披露目・ファン交流イベント「The First Reception 2005」が福岡Yahoo!JAPANドームで行われた。このイベントで初めて新ユニフォーム・新応援歌・2005年のスローガンなどが発表された。「中高年が少年のような顔をして歌っているのを見て、これを変えたら暴動が起きるなと思った」と孫正義オーナーが語ったとおり、応援歌は歌詞などの一部最小限を改定した(「ダイエー」の部分を「ソフトバンク」に変えた)のみでそのまま引き継がれた。このイベントは有料だったが、入場料は全額がスマトラ島沖地震新潟県中越地震の被災者を支援するための義援金に充てられ、孫オーナー自らもこれと同額の義援金を送ることを発表した。
  • 2005年3月9日6月28日6月29日に予定されていた千葉ロッテマリーンズ戦の韓国開催が、ソウルで試合ができなくなったことと韓国プロ野球の人気低迷から採算が合わないと判断されたため、中止されることとなった。この2試合はロッテ側の主催試合であったため、千葉マリンスタジアムで代替開催された。千葉ロッテマリーンズ#360度全席自由席も参照。
  • 2005年シーズンの開幕直後はロッテに先行を許したものの、セ・パ交流戦終盤からの15連勝や本拠地ヤフードームでの12連勝で首位に立つとその後は1度も転落することなく、レギュラーシーズンを89勝(勝率.664)という好成績で2位ロッテに4.5ゲーム差を付けて1位で通過した。しかし、プレーオフで1勝のアドバンテージを得るための条件「5.0ゲーム差以上」にはわずか0.5ゲーム届かなかった。また、城島の負傷離脱、松中の不振が最後まで響いた形となり、プレーオフでは2勝3敗で敗れ、またしても優勝を逃した。シーズンオフ、バティスタが退団、城島がシアトル・マリナーズへFA移籍。
  • 2006年7月5日、ヤフードームでの西武戦後に王監督が記者会見を開き、胃の手術のため休養することを発表し、翌日からシーズンオフまでチームを離脱した。監督代行は森脇浩司チーフコーチが務めた。
  • 2006年のプレーオフではレギュラーシーズン3位から第1ステージを制し勝ち上がるが、第2ステージでレギュラーシーズン1位の北海道日本ハムファイターズに2連敗を喫し、3年連続のプレーオフ第2ステージ敗退となった(この年は1位チームに無条件で1勝のアドバンテージが与えられていた)。
  • 2006年シーズンオフ、カブレラが退団。フリオ・ズレータが千葉ロッテへ移籍。ヤクルトを自由契約になったリック・ガトームソンを獲得。小久保裕紀がFA移籍で巨人から復帰。寺原隼人とのトレードで横浜ベイスターズから多村仁を獲得。3番多村、4番松中、5番小久保の日本人クリーンナップは「和製大砲:TMK砲」と呼ばれる。
  • 2007年は前年オフの大型補強により優勝の最有力候補に挙げられていたが、川﨑宗則斉藤和巳をはじめ大村、新垣渚、小久保など主力選手に故障者が続出、ガトームソンのドーピング違反による出場停止、新垣の暴投連発、東北楽天に対する予想以上の苦戦(10勝14敗、特に田中将大に5敗、フルキャストスタジアム宮城で2勝10敗等)と予想外の事態が続いた。期待された「TMK砲」も3人合計で53本塁打にとどまるなど、結局シーズンを通じて波に乗れず3位に終わる。クライマックスシリーズ第1ステージでも千葉ロッテに1勝2敗で敗れ、4年連続のプレーオフ敗退となった。ただ、チーム打率・チーム防御率が共にリーグ1位だった。優勝から遠ざかっていることに対して、「TMK砲」が機能してなかったにも関らず頑なに打順を変更しなかった事など、長期政権の弊害が出ているのではないか、という指摘もある。
  • また、同年の大学・社会人ドラフトにおいて注目を集めていた大場翔太を巨人、オリックス、横浜、阪神、日本ハムとの抽選の末獲得。同年12月19日、契約金1億円+出来高5000万円、年俸1500万円の最高条件で仮契約を結んだ。
  • 2008年のセ・パ交流戦で巨人、日本ハム、阪神と14勝9敗で首位に並ぶ四つ巴のデットヒートの末、最終戦でソフトバンクが巨人、阪神が日本ハムにそれぞれ勝利。15勝9敗で阪神と勝率、勝ち数で並んだが、交流戦の前年順位(9位=ソフトバンク、10位=阪神)により、ソフトバンクの初優勝が決まった。その後も3位以上のCS圏内をキープしていたが、中継ぎの不振、相変わらずの貧打に泣かされ続け、9月1日時点では2位だったが9月は5勝18敗と大ブレーキ。10月7日、レギュラーシーズン最終戦となった同率最下位で並んでいた楽天との直接対決で、延長12回裏サヨナラ負けを喫し、ソフトバンクホークスとしては初、ダイエーホークス時代からだと1996年以来12年ぶりのレギュラーシーズン単独最下位でシーズンを終えた。しかしこの不振などで主力選手(特に外国人投手陣など)が2軍に多くいたこともあって、2軍チームはウェスタン・リーグを圧倒的な成績で24年ぶりの優勝を決めファーム日本選手権でもイースタンリーグ覇者のヤクルトを破り初の日本一となった。
  • 球団側は王を終身監督とする意向があったが、同年9月23日、王監督が体調不良を原因に2008年シーズンを最後に辞任することを発表した。後任としてチーフコーチの秋山幸二が10月8日、監督に昇格した。

[編集] チームの特徴

[編集] 監督

  • 南海時代はチームの生え抜き選手が監督に就任したが、1981年から2年間指揮を取ったドン・ブレイザーは大リーグでプレーした後1967年に南海に移籍し3年間活躍した。その後、ダイエーになってからは田淵幸一根本陸夫王貞治と外様監督を招聘している。
  • 優勝すれば監督の任期は長くなり、逆に優勝できなければ短くなるという傾向はどの球団にも見られるが、ホークスの場合はそれが顕著である。優勝11回の鶴岡一人が23年、優勝1回の野村克也が8年、優勝3回の王貞治は14年務めた。

[編集] 大阪時代

[編集] 福岡時代

  • ダイエー時代は強力打線を前面に押し出した豪快な野球を展開。ただし平和台時代は投手力の弱さから終盤での逆転負けが多かったため、親会社に掛けて「閉店間際の大バーゲン」とも呼ばれた。1994年には「おっしょい打線」、2001年には「ダイハード打線」という愛称が付いた。特に2001年以降は、小久保裕紀松中信彦城島健司井口資仁といった中軸を担う日本人選手のレベルが高く、来日以来3年連続で打率3割をマークしたペドロ・バルデスや、ホークス外国人のシーズン最多本塁打をマークしたフリオ・ズレータでさえ、彼らが極度のスランプに陥るか怪我で戦線を離脱しない限りはクリーンナップを打てないほどであった。2003年以降は、それまで打線の中核を担ってきた選手の長期離脱や退団(2003年に小久保、2004年に井口、2005年に城島など)が相次ぎ、助っ人外国人やトレードによる多村の獲得で凌いでいる。
  • 福岡移転後の首脳陣の背番号は基本的に1軍が80番台、2軍が70番台、トレーニングコーチが91番以降の90番台("90番"は後述の準永久欠番)を使用している。南海最後の監督であり、引き続き福岡ダイエーの初代監督となった杉浦忠もこれに基づき、南海時代の71番を福岡ダイエーとなってからは81番に変更している。
  • ダイエー時代のチームカラーはオレンジとエメラルド・グリーン。オレンジはユニフォームのラインや球団ロゴなどに使われ、エメラルド・グリーンは球団旗の地色などに使われた。
  • チーム名が福岡ダイエーホークスだった1989年から2004年までの16年間、単独の優勝・2位・4位・5位・最下位はすべて経験しているが、単独3位になったことが1回もなかった。単独3位になりかけたことは1994年・1998年・2002年にあった。だが、チーム名が福岡ソフトバンクホークスになってから2年目の2006年にはホークスが福岡に移転して以来、初の単独3位を経験した。それまでは大阪近鉄バファローズ東北楽天ゴールデンイーグルスを除く11球団ではもっとも単独3位から遠ざかっていたチームであり、現在では千葉ロッテマリーンズがそうである。
  • 本拠地である福岡ドームでは、一塁側・ライト側はもちろんのこと、三塁側・レフト側もホークスファンが占めることがほとんどである。本拠地が日本で一番西に位置し、かつ他球団の本拠地からも遠く離れている(近接するチームはセ・リーグの広島東洋カープで約200km離れている)ため、他チームのファンが行きづらく、地元ファンが多数であることによる。福岡ドームの一試合平均の観客数は32,044人で、パ・リーグではトップ、プロ野球12球団の中では阪神(43,669人)、巨人(40,436人)、中日(33,202人)に次ぎ第四位(2007年)。
  • 当然ながら地元九州では圧倒的な支持を集めているが、関東や関西にもホークスファンが多い。これは、関西では南海時代からのファンを引き継いだこと、関東では九州人の東京志向の強さから、比較的出身者が多いことが理由として挙げられる。
  • 他球団よりも、比較的に若い年齢層のファンが多い。
  • ホークスには、ダイエー時代より『月刊ホークス』と言う機関雑誌が存在し、地元九州はもちろん、全国の書店で販売されている(むしろ九州では発売日が2日遅れる)。
  • 松中信彦川崎宗則を中心にホークスの全選手がファンサービスを大事にしており、そのことが人気の理由のひとつになっている。これは現役時代どんなに不調のときもファンへのサインを断らずに応じ続け、監督就任後も快くファンサービスを行う王監督の姿勢がホークスナインに伝わったものといわれる。
  • 他球団のファンや野球解説者からは、井口資仁城島健司など、様々な主力選手がチームを離れて戦力ダウンしているにも関わらず、首位争いをしているのはさすがと言われている。
  • 福岡移転の元年である平成元年(1989年)は、福岡ダイエー(当時)の試合を平日のホームゲーム(勿論ナイター)の限定で、福岡放送制作で中継していたものを、系列局である東京の日本テレビで深夜0時30分から1時間程のダイジェストに編集し割と頻繁に録画放送していた(これは同年のみの中継で、解説は現在と同じ長池徳士を中心に、ごく稀に当時系列局・広島テレビの解説者だった小林聖始[現・中日コーチ]も担当した)。
  • かつての城島や、松中、馬原、杉内、本多、川﨑など主力選手に九州出身者が比較的多くいる。

[編集] 球団愛称

  • 戦後チームの球団愛称となった「グレートリング」は鉄道の車輪をイメージし、併せて近鉄の社章や沿線の「大和」(大→おおきな 和→わ に掛けて、大きな輪→グレートリング)地区、並びに合併会社である近鉄の一致団結をイメージしたものだった。しかし当時の英語のスラングで「女性器」を意味していたため、このチーム名を面白がって観戦に来た米軍兵士が「グレートリング」という言葉を聞くたびに大笑いしていたと言われる(グレートリングは米兵の間では性交そのもの、または男性器を意味していたとの説もある。あくまで俗語であり明確な定義がないため真説は不明)。そのため翌年の親会社の変更に合わせて南海「ホークス」と改称している。
  • ホークス」は南海電鉄の社章が車輪の両側からの羽根が伸びる意匠だったことにあやかったもので(この社章はもともと南海電鉄の前身の1つである阪堺鉄道〈現在の阪堺電気軌道とは別〉のもので、さらに元をたどれば当時阪堺鉄道がイギリスから輸入した客車に付いていたカーテンのデザインに由来するという)、ダイエーソフトバンクがそれぞれ買収した後も現在に至るまで引き継がれている。鶴岡一人の著書『御堂筋の凱歌』には「『コンドルス』も愛称の有力候補に挙がったが、当時の球団代表の頭髪が薄いため『いくらなんでもコンドル(=ハゲタカ)じゃまずいだろう』ということで『ホークス』」になった」というエピソードが記されているが、これは後に監督を退いた鶴岡が講演会に呼ばれた時に、聴衆を引き付けるためによく利用した冗談である。また、ソフトバンクに譲渡される際にもチーム名を「コンドルス」にするプランがあったと孫正義オーナーが語っていたが、これもまた自らの頭髪が薄いことにかけた冗談である。

また、一説にはホークスの名前の起源は高島屋難波店にある鷹の彫刻によって命名された。 という説もある

  • 「ホークス」は1947年途中から使用しており、これは日本球界では「タイガース」(1936年から、ただし戦時中は使用していない)、「ジャイアンツ」(1947年から、ただし「巨人軍」は1936年から)、「ドラゴンズ」(1947年から)に次いで歴史が長い。
  • 福岡移転直後のダイエーホークス低迷期には「ホークスの愛称を変更か?」との報道が何度かマスコミを賑あわせたことがあったが当時フロント入りしていた杉浦忠氏らの反対もあり存続され今日に至り、今や地域に根付いている。当時のオーナー代行の中内潤は「伝統のあるホークスの名前をダイエーという一企業の判断で代えることは出来なかった」とある雑誌のインタビューで語っている。

[編集] マスコット

福岡ソフトバンクホークスのマスコットは鷹を擬人化したもので、「ハリー・ホーク」など8体。

詳細はホークファミリーを参照

[編集] ユニフォームの変遷

[編集] 大阪時代

  • 1938年 - 1940年:「NANKAI」のロゴで前立てにラインが入る。左袖にはボールに羽が生えたマーク。
  • 1940年 - 1943年 戦況の悪化によりロゴが漢字となるが、ワッペンはそのまま残された。1944年に親会社・南海電鉄が近畿日本鉄道と合併し近畿日本となったがユニフォームは不明。
  • 1946年 - 1947年:前立てラインに新しいチームカラーのグリーンを使用。1947年からユニフォームの左胸に南海のマークを使用。ビジターは「GREATRING」のロゴで後に「N」一文字に。
  • 1947年 - 1949年:球団名が南海ホークスとなり、ダークブルーのユニフォームが登場。帽子が白でツバが緑。
  • 1948年:戦後の黎明期に縦縞を使用。優勝するものの1年で廃止。
  • 1949年 - 1950年1988年の球団身売りまで使用していたロゴが登場。縁取りは黄色。ビジター用にあたるグレーのユニフォームは鷹のマークだったが、1950年からシールズ型のユニフォームが登場。
ロゴや鷹のマークなど、この年に登場したホークスの意匠は今竹七郎が制作した。
  • 1951年 - 1958年:ボタンが比翼仕立てのユニフォームが登場。ラインも廃止され、シンプルな印象となった。この間、帽子マークが1956年から変更される。
  • 1959年 - 1968年:鶴岡監督のアイデアで肩から袖、パンツに太いラインを入れたデザインが登場。1960年から腰番号が付けられる。南海黄金時代を象徴するユニフォームであり、オールドファンは南海と言えばこのユニフォームを連想する。帽子のNHマークがNの右側とHの左側の縦線を共有するものから、電車の車輪をモチーフとしたHをNと組み合わせたものに変更された。
  • 1969年飯田徳治監督就任で心機一転の意味もあり、深緑をオレンジが挟むデザイン、胸番号が登場(胸番号はオレンジ色)。背番号、胸番号の書体が近鉄バファローズと同様のものになる。しかし最下位ということもあり1年で廃止。
  • 1970年 - 1971年野村克也監督就任時より、鶴岡監督時代のデザインに戻る。但し、袖には太ラインが入っているが、肩ラインは無く。胸番号がつく。
  • 1972年 - 1977年:カラーテレビの普及により、大幅にモデルチェンジ。伸縮性ニット製ユニフォームを採用する。ゲンを担ぐ野村克也兼任監督らしく毎年のように目まぐるしく細部のマイナーチェンジがあった。1974年1976年にかけてはホーム用2種類、ビジター用2種類の計4種類のユニフォームを使い分けた。
    • 【パイレーツ型(1972年1976年)】
      • 1972年より、当時のピッツバーグ・パイレーツを参考にしたベルトレスプルオーバータイプが登場。胸ロゴ、背番号、胸番号、帽子、アンダーシャツ、ストッキングは黒に近い深緑。NHマークと通気穴は黄土色、首、パンツのラインは深緑と黄土色の2本、袖、腰は深緑、白、黄土色の3本。
        • ホーム用は上下白。Hawksのロゴ、背番号、胸番号は黄土色の縁取り。
        • ビジター用は上下ブルーグレーで、NANKAIのロゴ、胸番号、背番号には白の縁取りがつく。
      • 1974年より、パンツのラインが、深緑と黄土色の2本ラインから、黄土色のラインの両サイドを深緑の細ラインで挟んだ3本ラインに変わる。
      • 1975年より、ホーム、ビジター共左袖にペットマークがつけられる。
    • 【アスレチックス型(1974年1976年)】
      • 1974年よりパイレーツ型ユニフォームにプラスする形で、当時のオークランド・アスレチックスを参考にしたユニフォームを新たに採用する。帽子、アンダーシャツ、ストッキングが黄緑色、NHマークは白。パンツのサイドラインは黄緑・黄・黄緑の3本ライン。またソックスが黄色になる。(1974年の初期のみアンダーシャツが黄色)。
        • ホーム用は、Hawksロゴ、胸番号、背番号は黄緑色で、縁取りは深緑、首は黄色、黄緑の2本ライン、袖、腰は黄緑、黄、黄緑の3本ライン。
        • ビジター用の上着は黄緑色、パンツは白で、NANKAIロゴ、胸番号、背番号は白で、縁取りは深緑、首は黄色、白の2本ライン、袖、腰は黄、白、黄緑の3本ライン。
      • 1975年には、Vネックになり3本ラインに変わる。さらに左袖にパイレーツ型同様、ペットマークが付けられる。
        • ホーム用は黄緑、黄、黄緑の3本ライン。
        • ビジター用は黄、白、黄の3本ライン。
      • 1976年には、ビジター用のパンツのサイドラインが消える。
    • 【プロトタイプ(1976年1977年)】
      • さらに1976年、ホーム用に限り、アスレチックス型の首、袖にラインのない白地のVネックユニフォームがオープン戦オールスターゲーム期間限定で登場する。(パンツは通常タイプと同様)
      • 1977年には丸首になり、オレンジ色で背番号の上に選手名、左袖のペットマークの下にNANKAIのロゴが入る。
  • 1977年のみ、パイレーツ型ユニフォームが廃止になり、アスレチックス型ユニフォームがマイナーチェンジ。袖、腰のラインに新たに赤が取り入れ、首周りがVネックから丸首に戻る。この年より背番号の上にローマ字で選手名が入り、スパイクの色が白地に黄緑のラインとなる。
    • ホーム用は、袖、腰が黄緑、黄、赤の3本ライン、首が深緑、黄緑、深緑の3本ライン。
    • ビジター用は、袖、腰が赤、白、黄の3本ライン、首が黄、白、黄の3本ライン。
  • 1978年 - 1983年野村克也監督解任、広瀬叔功監督就任に伴い、ユニフォームを一新。左肩のペットマークが取り外され、ホーム、ビジター共色使いはそのままで、鶴岡監督時代の象徴であった肩、袖の太ラインが復活。(太ライン、ロゴ、背番号、胸番号:ホーム用は黄緑、ビジター用は白で、それぞれ黒の縁取り)、
    • 1980年のみ、ホーム用が深緑の縦縞に変更され、帽子のツバが赤になる。さらに後期のみ胸番号が赤になる。しかし、最下位のため1年で廃止。
  • 1984年 - 1988年:前年の穴吹義雄監督就任に伴い、南海黄金時代の象徴であった深緑色が復活。肩、袖のラインが肩、袖に深緑の2本ラインとなる。
    • ビジター用は上半身深緑で肩にラインがない。

[編集] 福岡時代

  • 1989年 - 1992年:球団名が「福岡ダイエーホークス」となり、三宅一生デザインにより一新。ダイエーのイメージカラーであるオレンジと、こげ茶色を基調とした縦縞(ホーム、ビジター共)となる。胸ロゴはホーム用が「Hawks」、ビジター用が「Daiei」、「Daiei」の左上に小さく「FUKUOKA」がつく。背番号、胸番号の書体が変更になり、西武ライオンズと同じ書体になる。
    • 1991年途中から、ビジター用の自色をベージュからグレーに変更する(投手陣から「捕手の出すサインが見づらい」との指摘があったため)。縦縞の色もこげ茶からオレンジに変更される。
      • この時に注目を集めたのが鷹の顔をモチーフとしたヘルメットで、ファンからは「ガッチャマンヘルメット」と呼ばれた。
  • 1993年 - 2004年根本陸夫監督就任により、モデルチェンジ。シンプルなデザインとなる。上着はホーム用は白地、ビジター用は黒地で、ホーム用は黒・ビジター用は白のラケット・ライン。パンツは白地。また帽子のFDHマークを縦並びにしたロゴが左胸につき、右みごろの中心には胸番号がつく。帽子は黒地。FDHマークは帽子・ユニフォームともにホーム用はオレンジ、ビジター用は白。
    • 2001年 - :ペットマークが右袖に移動。
    • 1999年 -(2軍は2001年 - ):ヘルメットと同様に、帽子のつばがオレンジ、FDHマークは白になる。
  • 2005年 - :球団名が「福岡ソフトバンクホークス」に変更。ダイエー時代のデザインを継承しつつ、基本的は色づかいは変わらないものの、ダイエーのイメージカラーのオレンジから、ソフトバンクのイメージカラーであるレボリューション・イエローにチームカラーが変わり、胸に「SoftBank HAWKS」(ホーム)・「SoftBank」(ビジター)のロゴが入る。両袖にはソフトバンクのイメージシンボルである2本の太ラインが入っている。ラインの色は、ホーム用がレボリューション・イエロー、ビジター用が白。地色は、上着はホーム用が白、ビジター用は黒、パンツは白と、ダイエー時代の色を踏襲。帽子・ヘルメットのつばは再び黒となった。帽子マークは「h」に「S」を絡めたモノグラム。
    • 2006年7月 - :帽子が、後述の鷹の祭典ユニフォームで登場したつばがレボリューション・イエローのものになる。つばの色が違う帽子は、ダイエー時代後期と同じである。
    • 2008年:右肩のペットマークが「ホークス70周年&福岡移転20周年」のロゴマークになる。同年から、スパイクが黒地に白ラインのものに変更される。

[編集] 特別ユニフォーム

  • 2006年7月15日から17日まで「鷹の祭典2006 in ヤフードーム」と題したイベントが開催され、3日間限定のユニフォームを使用。イベントのキャッチフレーズである「BIG YELLOW DREAM」にちなみ、チームカラーであるレボリューション・イエローをベースにしている。また、同時に登場したつばの色がレボリューション・イエローの帽子は後半戦以降も継続して使用されることになった。この帽子は2007シーズン以降も使用されている。2007年の鷹の祭典でも、違うデザインの限定ユニフォームが着用されている(鷹の祭典参照)。
  • 2008年の交流戦の阪神タイガース戦では、ホークス誕生70周年及び福岡移転20周年記念事業の一環としてホーム(5月24日、ヤフードーム)ではダイエー時代の復刻版ユニフォーム、ビジター(6月6日、甲子園)では南海時代の復刻版ユニフォームをそれぞれ使用した。なお、ダイエーモデルを着用していた2003年、南海モデルだった1964年はともに、阪神を下して日本一になっている。また同じく交流戦の中日ドラゴンズ戦においても6月12日のヤフードームでの試合にダイエー時代のユニフォームを着用することが追加決定された。福岡移転後のホークスが初めて日本一になったのが1999年で相手は中日だった。
  • また、南海時代のユニホームの復刻版は8月3・4日のオリックス戦(