大江健三郎

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大江 健三郎
(おおえ けんざぶろう)
大江 健三郎
誕生 1935年1月31日(73歳)
愛媛県喜多郡大瀬村
職業 作家
国籍 日本
活動期間 1957年 -
ジャンル 小説
代表作 飼育』(1958年
個人的な体験』(1964年
万延元年のフットボール』(1967年
洪水はわが魂に及び』(1972年
新しい人よ眼ざめよ』(1983年
主な受賞歴 芥川龍之介賞(1958年)
新潮社文学賞(1964年)
谷崎潤一郎賞(1967年)
野間文芸賞1973年
読売文学賞(1983年)
大佛次郎賞(1983年)
伊藤整文学賞1989年
ノーベル文学賞(1994年)など
処女作 『奇妙な仕事』(1957年)
子供 大江光長男
親族 伊丹万作(岳父)
伊丹十三義兄
  
ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年: 1994年
受賞部門: ノーベル文学賞
受賞理由: 「詩的な言語を用いて現実と神話の混交する世界を創造し、窮地にある現代人の姿を、見る者を当惑させるような絵図に描いた」[1]
文学
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出版社文芸雑誌
文学賞
作家
詩人小説家
その他作家

大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年1月31日 - )は、日本小説家

愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。血液型はA型。東京大学文学部フランス文学科卒。大学在学中の1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。サルトル実存主義の影響を受けた作家として登場し、戦後日本の閉塞感をグロテスクな性のイメージを用いて描き、石原慎太郎開高健とともに第三の新人の後を受ける新世代の作家と目される。その後外国文学の読書経験から独特の詩的な文体を獲得し、国家主義などの人類的な問題と、故郷の四国の森や知的障害のある子供(長男の大江光)という自身の体験とを重ね合わせ独自の文学世界を作り上げた。1994年ノーベル文学賞受賞。

主な作品に『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『洪水はわが魂に及び』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』『人生の親戚』など。一時は1995年完結の『燃えあがる緑の木』を最後の小説にするとしていたが、1999年より執筆を再開。以降の『取り替え子(チェンジリング)』などの作品は自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と位置づけている。

映画監督伊丹十三は義兄にあたる。

目次

[編集] 来歴

[編集] 生い立ちから作家デビューまで

1935年1月31日愛媛県喜多郡大瀬村(現内子町)に生まれる。両親、兄二人、姉二人、弟一人、妹一人の9人家族であった。大瀬村は森に囲まれた谷間の村で、のちの大江の文学世界の形成に大きく関わることになる。1941年、大瀬小学校入学、この年に太平洋戦争が始まり、5年生の夏まで続いた。1947年、大瀬中学校入学。この年新憲法が施行され、自身の思想を形作るうえで多大な影響を受けた。1950年愛媛県立内子高等学校に入学するも、いじめをうけたため翌年愛媛県立松山東高等学校へ編入。このときのいじめの体験はのちに『芽むしり仔撃ち』で題材とされている。高校時代は石川淳小林秀雄渡辺一夫花田清輝などを愛読。東高では文芸部に所属し部誌「掌上」を編集、自身の詩や評論を掲載した。東高在学中、同級生だった伊丹十三と親交を結ぶ。

1953年に上京、予備校に通ったのち翌1954年東京大学教養学部文科二類に入学。学生演劇の脚本として「天の嘆き」「夏の休暇」を執筆、教養学部学友会機関紙に「火山」を掲載し銀杏並木賞受賞。このころパスカルカミュフォークナーノーマン・メイラー安部公房などを愛読、またサルトルに興味を持ち始める。1956年文学部フランス文学科にすすみ渡辺一夫に師事。このころよりサルトルを原書で読み始める。学生演劇の脚本「死人に口なし」を執筆、また戯曲「獣たちの声」(「奇妙な仕事」の原案)で創作戯曲コンクールに当選。同年10月、立川基地拡張反対のデモに参加する。

1957年、五月祭賞受賞作として小説「奇妙な仕事」が『東京大学新聞』に掲載、『毎日新聞』で平野謙の激賞を受ける。これを契機として同年『文学界』に「死者の奢り」を発表し、学生作家としてデビュー。「他人の足」「石膏のマスク」「偽証の時」を次々に発表。「死者の奢り」は第38回芥川賞候補となり、川端康成井上靖舟橋聖一の推薦を受けるが、この回は開高健の『裸の王様』が受賞した。デビュー時よりサルトルの実存主義からの影響を強く受けた作家とされたが、この「死者の奢り」について江藤淳は、「実存主義を体よく表現した小説」というよりも、安岡章太郎川端康成などの叙情家の系譜につらなる作品ではないかと分析している(新潮文庫『死者の奢り・飼育』解説)。

[編集] 芥川賞作家として

デビューの翌1958年、長編小説『芽むしり仔うち』を発表。同年、「飼育」で第39回芥川賞を23歳で受賞。1956年の石原慎太郎に続き当時最年少での受賞となった。選考委員の川端康成は、「芥川龍之介と大江健三郎では時代も、才質も作風も違うが、23、4の学生が、異常な題材を小説に仕上げた点を芥川と似通ったものと解釈し、芥川龍之介の名前を冠した賞に加えたいと思った」とした。一方舟橋聖一は前回の芥川賞の選考に異議を唱える立場から、「飼育」よりも「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行っている。

また、同1958年に、石原慎太郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司浅利慶太永六輔黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。

1959年、東大卒業。卒業論文は「サルトルの小説におけるイメージについて」。同年書き下ろし長編『われらの時代』刊行。この作品から性的な主題を全面に押し出すようになる。またこの年に武満徹と知り合う。翌1960年、伊丹ゆかり(伊丹十三の妹)と結婚。

1961年、浅沼稲次郎暗殺事件に触発され『セヴンティーン』とその第二部『政治少年死す』を発表。犯人の山口二矢をモデルとして描くが、この作品に対し右翼団体によって文藝春秋等に脅迫が行われた。このため『政治少年死す』は単行本に収められていないが、鹿砦社の『スキャンダル大戦争2』に、著者の許可なく収録されている。

1963年、長男の誕生。頭蓋骨異常のため知的障害を持つ子供として生まれる。「障害を持つ子」の誕生は、戦後社会に希望を持てない青年を描いてきた作家にとって転機となった。1964年、『個人的な体験』で第11回新潮社文学賞受賞。知的障害をもって生まれた子供の死を願う父親が、想像力によって悲劇を乗り越えるに至るまでを描いた作品であり、「想像力」は以後大江作品のキーワードの一つとなる。同年、広島に何度も訪れた体験や世界原水爆禁止大会に参加した体験を元にルポルタージュ「ヒロシマ・ノート」の連載を開始。これ以降の大江は、障害を持つ子供という「個人的な体験」と、広島の被爆という「人類固有の悲劇」を自身の主題として深めていく。

[編集] ノーベル賞受賞まで

1967年、30代最初の長編として『万延元年のフットボール』を発表、第3回谷崎潤一郎賞受賞。万延元年(1860年)に四国の村で起こった一揆と、100年後の安保闘争とを重ね合わせて描き大きな反響を呼んだ。この作品から顕著になる特異な文体はしばしば難解とも言われるが、近代の標準的な日本語である東京方言に対抗しうる詩的な言語として、ノーベル文学賞に選出された際の受賞理由として挙げられている。しかし江藤淳はこの作品を厳しく批判し、以後大江と対立するようになる。

『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969年)を経て1972年に発表された中篇『みずから我が涙をぬぐいたまう日』『ムーン・マン』では、前年の三島事件を受けて天皇観を問い直すことを主題とし、その後の『洪水はわが魂に及び』(1973年、野間文芸賞受賞)、『ピンチランナー調書』(1977年)では天皇制や核の問題を考えつつ、大江の後期のテーマである「魂の問題」に移行していく。40代から山口昌男らの文化人類学の影響を受け、1979年に発表された『同時代ゲーム』では、村=国家=宇宙の歴史を書く主人公の物語を描いたが、文芸評論家からは名声を確立したあとの「奢り」のようなものとして批判を受けた。ただし大江自身は、宇宙の創建者である「壊す人」や魂の問題を取り上げたものとして、自身の作品の中でも重要なものと位置づけている。

1982年、武満徹の「雨の樹」に触発された連作集『「雨の木(レインツリー)を聴く女たち』を発表、翌年に第34回読売文学賞受賞。1983年の『新しい人よ眼ざめよ』では、ブレイクの詩を引用し、大江自身の子供の言葉と重ね合わせて自身の私生活を描いて、第10回大佛次郎賞受賞。1987年にはダンテの『神曲』を下敷きにして『懐かしい年への手紙』を発表した。1989年の『人生の親戚』では初めて女性を主人公とし、子供を失った女性の悲劇を描いて第1回伊藤整文学賞を受賞した。1990年に発表された連作『治療塔』では、SFの枠組みを借りながらと人類救済の主題を描いている。 1994年1月、朝日賞受賞。同年10月13日にノーベル文学賞を受賞。川端康成以来26年ぶり、日本人では二人目の受賞者となる。記念講演として川端の「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」を行なう。11月より三部からなる大作『燃えあがる緑の木』刊行開始。四国の村を舞台に「魂の救済」のテーマの集大成を行なった。

[編集] 後期の仕事(レイト・ワーク)

1995年に『燃えあがる緑の木』が完結。当初大江はこの作品を自身の「最後の小説」としていたが、1996年、武満徹の告別式の弔辞で新作を捧げる発言をし、1999年の『宙返り』で執筆活動を再開した。以降の創作活動は大江自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と読んでおり、伊丹十三の死をうけて書かれた『取り替え子』(2000年)、それに続く『憂い顔の童子』(2002年)、『さようなら、私の本よ!』(2005年)は、「スウード・カップル(おかしな二人組)」が登場する後期三部作として位置づけられている。三部作最後の『さようなら、私の本よ』では、三島由紀夫と戦後の問題を自身の人生と重ね合わせ、デビュー作の『奇妙な仕事』に回帰するという複雑な構成を取った。三部作をはさんで2002年には、自身の唯一のファンタジーとして児童向けに『二百年の子供』を発表している。最新作は『新潮』連載の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(2007年)である。

2006年、大江健三郎賞設立。大江自身が日本の優れた小説作品を選び、受賞作は英語・フランス語などに翻訳刊行される。

[編集] 政治思想

戦後民主主義者を自認し、国家主義、特に日本における天皇制には一貫して批判的な立場を取っている。また平和憲法を守る立場から核兵器憲法第9条についてもエッセイや講演で積極的に言及しており、自衛隊の存在に対しても否定的である。1994年のノーベル賞記念講演の際にはデンマークの文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引き、「抗議すること」という概念に言及した。また芸術院会員となったり文化勲章を受けたりする文学者の姿勢には批判的であり、ノーベル文学賞は“スウェーデン国民から贈られたと言えるもの”として賞を受けたが、その直後に文化勲章文化功労者の授与が決定した際、「私は、戦後民主主義者であり、民主主義に勝る権威と価値観を認めない」として受章を拒否した。 2003年の自衛隊イラク派遣の際は「イラクへは純粋な人道的援助を提供するにとどめるべきだ」とし、「戦後半世紀あまりの中でも、日本がこれほど米国追従の姿勢を示したことはない」と怒りを表明した[1]。2004年には、憲法九条の戦争放棄の理念を守ることを目的として、加藤周一鶴見俊輔らとともに九条の会を結成し、全国各地で講演会を開いている。2006年に中国社会科学院・外国文学研究所の招きで訪中し、南京大虐殺記念館などに訪れた。北京大学付属中学校で行われた講演では、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に触れて「日本と日本の若い世代の将来を最大限に損ねるものだ」と述べた。

[編集] 評論家からの批判

毎日新聞1958年6月25日夕刊に掲載されたコラム「女優と防衛大生」において、大江は「ここで十分に政治的な立場を意識してこれをいうのだが、ぼくは、防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている。」 と発言したことが、防大生や防大出身の幹部自衛官の人格を否定するものだとして批判を招いた。(小川和久「リーダーのいない経済大国」、杉山隆男「兵士を見よ」)

大江は1982年に、小田実小中陽太郎中野孝次が中心となった『核戦争の危機を訴える文学者の声明』[2]に呼びかけ人として賛同している。この声明に対し本多勝一が、反核運動に批判的であるばかりか軍備拡張に熱心な意見に賛同している文藝春秋から文学賞(芥川賞直木賞など)を貰ったり、それらの審査委員をするなどして協力しているのは「体制・反体制の双方に『いい顔』をみせる」非論理であるばかりか利敵行為ですらあると批判し、大江に公開質問状を送ったが、大江は何も回答しなかった。また本多は大江がノーベル文学賞を受賞した際にも『週刊金曜日』誌上で集中的に批判的に取り上げ、大江が九条の会を結成した際も、エッセイ『貧困なる精神』で、名指しこそしないものの会自体に疑問を投げかけた。本多による一連の批判について、大江は『取り替え子(チェンジリング)』(2000年)の中に描いている。

1970年のルポルタージュ『沖縄ノート』には、作品内で集団自決を強制したとされている元守備隊長を「屠殺者」と表現した箇所があるが、「虐殺」を「屠殺」になぞらえる事に対しては、差別表現であるとして部落解放同盟が苛烈な糾弾を行ってきた歴史がある。それにも関わらず、部落解放同盟が『沖縄ノート』や大江健三郎を非難しないのは、悪質な差別であると同時に大江健三郎の神格化がなされていると評論家の呉智英は指摘している[3]

2006年の訪中の際に、共産党幹部に対し終始低姿勢でいたことから、「民主主義を叫んで害のないところでは叫ぶけど、民主主義を許さないところでは一所懸命に権力に媚びるんです」と評論家の石平より強い非難を受けた。

[編集] 沖縄戦裁判

詳細は大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判‎を参照

2005年8月に梅澤裕と赤松大尉の遺族が、大江健三郎と岩波書店に名誉毀損と賠償・出版差し止めを求める裁判を起こした。

大江が1970年の著書『沖縄ノート』にて、赤松嘉次陸軍大尉について「渡嘉敷島民の集団自決を強要した」と断定した上、多くの誹謗中傷を書いたと訴えられたものである。

しかし大江は、『沖縄ノート』には両氏の名前はないこと(これは原告も認めている)、「罪の巨塊」という表現で沖縄戦での日本政府・軍の責任を批判したものであり、名誉毀損ではないと反論している。また執筆のソースとなったのは沖縄タイムス社の『鉄の暴風』であり、執筆当時として信頼に当たるものだし、本人も体験者の話を聞いた上で書いたと述べている。

1審・2審とも原告の請求が棄却され[4]、原告側は上告する方針を示している[5]


[編集] エピソード

  • 1960年代に、三島由紀夫がノーベル賞を逃した時、「次は大江君だよ」と、当時まだ新進であった大江の名を挙げた。大江が実際にノーベル賞を受賞するのは三島の発言から20年余り経っての事となる。三島は大江を自邸のパーティに招くほど親しくしていた時期もあったが、政治思想の右傾化と共に疎遠になった。三島は大江について「東北の山奥から出てきた小娘が上野駅で女衒にかどわかされて淫売屋に叩き売られるみたいに、あいつは四国の山奥から出てきて、渡辺一夫という女衒にかどわかされて、岩波楼っていう淫売屋に叩き売られたんだよ」と揶揄したこともある[6]
  • 阿川弘之とは犬猿の仲であり、その著書の中でお互いを批判しあっている。
  • アンドレイ・タルコフスキー監督の映画「ストーカー」を評価している。NHKの山登義明ディレクターが「世界はヒロシマを覚えているか」という番組の構想を話した時、大江は「タルコフスキーのような映像にしたいですね」といった。
  • また、「ストーカー」の原作者であるソ連のSF作家、ストルガツキー兄弟の作品も愛読している。1989年、大江が「世界作家会議」に出席するため、モスクワに行った際、兄のアルカジイ・ストルガツキーと対談を行い、NHKスペシャル「世界はヒロシマを覚えているか」で放映された。

[編集] 主な作品

著作は英語フランス語ドイツ語ロシア語などに翻訳されている。

[編集] 小説

[編集] 評論・随筆等

  • 世界の若者たち(1962年)新潮社

(中国レポートのほか、大鵬島津貴子大藪春彦黒柳徹子らとの対談)

  • ヨーロッパの声、僕自身の声(同)毎日新聞社
  • 厳粛な綱渡り(1965年)文藝春秋、のち文庫、講談社文芸文庫
  • ヒロシマ・ノート(同)岩波新書
  • 持続する志(1968年)文藝春秋、のち講談社文芸文庫
  • 壊れものとしての人間(1970年)講談社、のち文庫、文芸文庫
  • 核時代の想像力(同)新潮選書
  • 沖縄ノート(同)岩波新書
  • 鯨の死滅する日(1972年)文藝春秋、のち講談社文芸文庫
  • 同時代としての戦後(1973年)(作家論集)講談社、のち文庫
  • 文学ノート(1975年)新潮社
  • 言葉によって-状況・文学(1976年)新潮社
  • 小説の方法(1978年)岩波現代選書、のち同時代ライブラリー
  • 表現する者-状況・文学**(同)新潮社
  • 方法を読む-文芸時評(1980年)講談社
  • 核の大火と「人間」の声(1982年)岩波書店
  • 日本現代のユマニスト渡辺一夫を読む(1984年)岩波書店
  • 生き方の定義-再び状況へ(1985年)岩波書店
  • 小説のたくらみ、知の楽しみ(同)新潮社、のち文庫
  • 新しい文学のために(1988年)岩波新書
  • 『最後の小説』(同)講談社、のち文芸文庫

(シナリオ「革命女性」を含む)

  • ヒロシマの「生命の木」(1991年)NHK出版
  • 僕が本当に若かった頃(1992年)講談社、のち文芸文庫
  • 広島からオイロシマへ―’82ヨーロッパの反核・平和運動を見る (1982年) 岩波書店 
  • 人生の習慣(ハビット)(同)岩波書店
  • 文学再入門(同)NHK出版
  • 新年の挨拶(1993年)岩波書店、のち同時代ライブラリー、現代文庫
  • 小説の経験(1994年)朝日新聞社
  • あいまいな日本の私(1995年)岩波新書
  • 日本の「私」からの手紙(1996年)岩波新書
  • 私という小説家の作り方(1998年)新潮社、のち文庫
  • 鎖国してはならない(2001年)講談社、のち文庫
  • 言い難き嘆きもて(同)講談社、のち文庫
  • 暴力に逆らって書く2003年)朝日新聞社、のち文庫
  • 「話して考える」と「書いて考える」(2004年)集英社、のち文庫
  • 「伝える言葉」プラス(2006年)朝日新聞社
  • 読む人間-読書講義(2007年)集英社

[編集] 共著

[編集] 共編著

[編集] その他

「無気力(アパシー)青年」の事例検討に参加し、文学者の視点から彼等の内面を語る。
  • SwitchVol.8 No.1 『緑したたる森 萌え出ずる樹 大江健三郎扶桑社1990年3月号)
氏の子供達「イーヨーオーちゃんマーちゃん」が語る、 アンドレイ・タルコフスキーの 映画『ストーカー』の解説と、「四国の森の谷間の村」や「読書遍歴」、 氏と違って (同じく)
「 ” 奇妙な ” ディーセンシー ( 古雅な上品さ・まっとうさ ) 」 のある 『ご母堂』 (88歳)の肖像。

[編集] 作品の映画化

[編集] テレビ番組

[編集] 関連人物

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 大江健三郎(らしき人物)を演じた俳優

[編集] 脚注

  1. ^ 自衛隊派遣に「怒っている」大江健三郎氏が仏紙で論陣 2003年12月1日朝日新聞
  2. ^ 後に岩波ブックレットから公刊 ISBN 4000049410
  3. ^ 大江健三郎の“特権” 産経新聞 2007年12月1日
  4. ^ 元守備隊長の請求棄却 沖縄集団自決訴訟 2008年3月28日MSN産経ニュース
  5. ^ 「沖縄ノート」差し止め訴訟「真実でないことが明白になったとまでいえず」 2008年10月31日MSN産経ニュース
  6. ^ 中条省平編『続・三島由紀夫が死んだ日』pp.190-191、実業之日本社2005年