鹿屋市
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鹿屋市(かのやし)は、日本の鹿児島県にある市。九州南東部、大隅半島の中央部に位置する。
人口10万人を擁する、大隅半島の行政・経済・産業の中核となる都市である。年間の平均気温17℃という温暖な気候と豊かな自然を活かした農業・畜産が盛んであり、黒豚やブロイラー、落花生、サツマイモなどが特産品である。また、国立大学の鹿屋体育大学や海上自衛隊鹿屋航空基地があることでも全国的にその名が知られている。
鹿児島県内では鹿児島市(県庁所在地)・霧島市に次いで3番目の人口規模を有する都市である(人口10万人を超える都市としては他に薩摩川内市がある)。現在の鹿屋市は2代目であり、旧鹿屋市が肝属郡の2町(吾平町・串良町)と曽於郡1町(輝北町)との合併により2006年に発足した。初代の鹿屋市は1941年5月27日に市制を施行し2005年まで存続していた。
現在は「ばらのまち」「健康・スポーツ都市」をキャッチフレーズとしている。
目次 |
[編集] 地理
[編集] 位置・地形
大隅半島のほぼ中心部に位置しており、市域は東西20km、南北41kmに及ぶ。市の北西部には高隈山地が連なり、南東部には肝属山地(国見山地)との間に笠野原台地・鹿屋原台地(シラス台地)や肝属平野が広がっている。市の中央部には肝属川が流れ、西部は鹿児島湾(錦江湾)に接し海岸線が続いている。
[編集] 気候
アメダス鹿屋(県立鹿屋農業高校内)の1976年からの統計資料[2][3][4]によると、年平均降水量は2,275.8mm、年平均気温は17度(1979 - 2000年)、年日照時間は1970.1時間(1986 - 2000年平均)である。
年降水量は1993年と1999年が特に多く、1993年は6月からの3か月で2,782mm(年間では3,887mm)を、8月1日には1日で365mmを記録した(平成5年8月豪雨も参照)。最少を記録したのは1986年の1,354mmであるが、1997年を最後に2,000mmを下回っておらず増加傾向にあるといえる。
年平均気温は16度から18度(1997年以降は17度を下回っていない)を推移しており日本国内では比較的温暖といえる。真冬日となったことはないが、最低気温がマイナス5度を下回ることもあり、鹿屋市より北に位置する鹿児島市や宮崎市と比較して冷え込みは厳しいといえる[5]。しかし、鹿児島市内で積雪に見舞われていても、鹿屋市では高隈山地などの山間部のみの積雪となることが多い[6]。
[編集] 風水害
平成5年8月豪雨も参照
鹿屋市内で発生した主な風水害として、1976年6月24日の集中豪雨や1993年の長雨などがある[7]。鹿屋市で「平成5年8月豪雨」といえば鹿児島市を中心とした「8.6水害」ではなく「8.1水害」のことを指し、同年9月3日の台風13号のほうがより大きな被害をもたらしている。
1993年の台風13号は「戦後最大級」と称されるほどの規模であった。鹿屋航空基地気象班の観測では最大瞬間風速約66m/sを記録し、九州電力鹿屋営業所管内のほとんどの世帯(98パーセント)で停電した。
[編集] 隣接する自治体
- 東
- 西
- 南
- 肝属郡錦江町
- 北
[編集] 人口
| 鹿屋市と全国の年齢別人口分布図(比較) | 鹿屋市の年齢・男女別人口分布図 | ||||||||||||||||||
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■紫色は鹿屋市
■緑色は日本全国 |
■青色は男性
■赤色は女性 |
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| 総務省統計局 / 国勢調査(2005年) | |||||||||||||||||||
[編集] 地区
第三次鹿屋市長期総合開発計画(1996年4月)では当時の鹿屋市を9の地区に分けている。その範囲はおおよそ鹿屋市内の中学校区に合致する。
旧鹿屋市内では大字は1950年に廃止され全て「○○町」の名称に統一された。昭和40年代には西原町・寿町・打馬町はそれぞれ「○○X丁目」(○○は地名、Xは数字)と改称された[8]。2006年に鹿屋市と合併した3町にも「○○町」の名称は採用されているが大字は残存している[9]。
- 市街地中心地区(北田・本町地区)
- 鹿屋中学校区。飲食店街、金融機関[10]などがある中心街。行政・商業地区である。百貨店の閉鎖や市役所の移転、郊外の大型店舗の進出[11]により空洞化が進んでいる。市役所跡地はイベント広場になっており近年までさまざまな催事に使われていた[12]。特に土曜朝市は地元住民に好評。2004年には旧桜デパート閉店後、唯一この地区に残っていたスーパーまるはセンターが閉店。商店街のシャッター通り化・空洞化がさらに進む。1995年4月時点の人口は8,075人。1975年4月時点では10,888人であったため、人口も減少傾向にあるといえる。
- この状況を打開するため、北田大手町地区では鹿屋市主導で市街地再開発事業が行われている。その中心施設であるリナシティかのやは2007年4月に総合オープン。それに先駆けて2005年春、中心的存在だった旧桜デパートと向かい側にある旧バスセンター(旧三州自動車、1964年以降は鹿児島交通)の建物が取り壊され、北田交差点付近は一時期かなり閑散となった。また、2006年6月には鹿屋バスセンター(大隅交通ネットワーク)の建物も取り壊され[13]、こちらは2007年4月にコンビニエンスストアとドラッグストアが建てられている。
- 西原地区
- 第一鹿屋中学校区。海上自衛隊鹿屋航空基地や運動公園、学校などが集まっている住宅・文教地区。旧国道220号沿いに団地や各種商店が並んでいる。スプロール現象が発生している。また、鹿屋市など大隅半島を拠点とするマスメディア(南九州新聞・おおすみ半島コミュニティ放送ネットワーク・かのやコミュニティ放送)は当地区に所在する。「バラ園」のある霧島ヶ丘公園は当地区と大姶良地区と高須・浜田地区との境界線上にある。
- 人口は1995年4月時点で20,125人。1975年時点では16,637人であったため増加傾向にあるといえるが、寿・札元地区がそれを上回るペースで増加しており、1995年4月時点では僅差で逆転された。
- 寿・札元地区
- 鹿屋東中学校区。第三次鹿屋市長期総合開発計画では単に寿地区とされる。旧国道220号(県道68号)、国道269号、国道220号鹿屋バイパスに囲まれた地区を中心に1970年代以降発展した商業・住宅地域。最近は札元地区の鹿屋バイパス沿いに大型店の進出が相次いでおり、寿・札元地区で新しい市街地を形成しつつある。1995年4月時点での人口は20,200人。1975年4月時点の11,473人の倍近くとなり、旧鹿屋市域内の地区別人口で首位になった。西原地区と同様にスプロール現象が発生している。かつてはここで地方競馬が行われており、現在では寿北小北東部の道路形状にそのコースの名残を確認できる。
- 東原・祓川地区
- 鹿屋中学校区。笠野原台地や高隈山地の山裾にあり農業が盛ん。東原町には気象庁地磁気観測所の鹿屋出張所があり[14]、地磁気や地電流の観測を行っている。鹿屋市のうち東原町・上祓川町・祓川町が区域内とされる。1995年4月時点の人口は3,469人。
- 田崎地区
- 田崎中学校区。寿地区との隣接地区を中心に住宅地の開発が進み、西原・寿地区と並び人口増加地区となっている。1995年4月時点の人口は9,020人。
- 大姶良地区
- 大姶良中学校区。鹿屋原台地にあり農業が盛ん。国立ハンセン病療養所の星塚敬愛園がある。1995年時点では人口は減少傾向にあったが、近年は住宅地の開発が進行しつつある。1995年4月時点の人口は7,439人。
- 古江・花岡地区
- 花岡中学校区。おおむね1941年以前の花岡村が範囲である。ただし高牧町は鹿屋町の一部であり、根木原町と有武町は1958年までは垂水町の一部であった。
- 鹿屋体育大学・大隅少年自然の家がある。高隈山の鹿屋中継局(県域TV・FM送信所)も厳密には当地区に所在する。天神町には菅原道真が祭られた神社がある。1995年4月時点の人口は5,203人。
- 高隈地区
- 高隈中学校区。高隈山地とその周辺の自然に囲まれた地区。2003年に開通した国道504号高隈バイパスが中心部を回避することから閑散とした様子となっている。肝属川支流の串良川流域に高隈ダム(大隅湖)があり、笠野原台地の農業発展に一役買っている。1995年4月時点の人口は2,409人。1975年4月時点の3,003人と比較して減少傾向にあるといえる。
- 高須・浜田地区
- 高須中学校区。錦江湾に面しており、鹿屋市内における海水浴の拠点となっている。国道269号が南大隅方面へ繋がっている。霧島ヶ丘公園の「かのやばら園」の所在地は当地区の浜田町。1995年4月時点の人口は1,971人。
- 南部(吾平町)
- 北部は旧鹿屋市のベッドタウンとして機能している面があり、合併前の人口は微減傾向にとどまっていた。神武天皇の父母(ウガヤフキアエズ・タマヨリビメ)の陵墓といわれる吾平山上陵や県立大隅広域公園がある。2005年12月時点の人口は7,542人。
- 東部(串良町)
- 大部分が笠野原台地に属し、農業が盛ん。特別攻撃隊員の慰霊塔がある。柳谷集落は「行政に頼らない集落」として全国的に知られる。2005年10月時点の人口は13,394人。
- 北部(輝北町)
- 鹿屋市内で唯一曽於郡に属していた。主に百引(もびき)・市成の2地区に分かれる。2000年の国勢調査時点の人口は4,412人。
[編集] 歴史
おおむね旧鹿屋市、特に旧鹿屋町の範囲を中心とした内容である。
[編集] 市名の由来
市名の由来は、鹿屋市史によるといくつかの説があるといわれている。
- 古事記、日本書紀に登場する「熊襲(くまそ)の首長鹿文(かや)」の名によるという説。
- 周辺に多く自生していた茅(ちがや)の名が、「かのや」に転訛したという説。
- 鹿(しか)が多く棲息しておりそこから「かのや」になったとの説。
歴史的にみると、平安初期には「かのや」の地名で呼ばれていたということである。
[編集] 古代
縄文時代早期から人の定住があり、弥生時代には王子遺跡といった大規模な集落がみられるようになる。古墳時代には南九州地域独自の地下式横穴墓がみられるようになるが、志布志湾沿岸に点在する前方後円墳は肝属川下流の串良町・吾平町でみられるのみで、旧鹿屋市・輝北町では他の鹿児島県内の地域と同様に存在しない。
7世紀ごろは隼人の全盛期であり、ヤマト王権が勢力を拡大する中現在の鹿児島県本土は半独立の状態であった。ただし隼人の一部は早くからヤマト王権とのつながりを深めており、国造・県主となった者も存在した。713年に大隅国が設置されても完全にヤマト王権に服属せず、約6年後(720年)には大隅国国司の陽侯史麻呂を殺害した隼人の反乱が勃発した。ヤマト王権はこれを1年半をかけて制圧し、大隅の支配体制を確立した。班田収授法が大隅国で実施されたのは800年のことであったが、すでに班田収授法は壊滅状態であり、大隅国内のほとんどの領地が荘園となった。
律令制では大隅国に属し、鹿屋市の大部分は姶羅郡(現在の姶良郡とは別)・大隅郡(明治時代に消滅、大隅国設置当時の範囲は現在の大崎町から鹿屋市南部にかけての肝属川流域)となった[15]。なお、当時の肝属郡は大隅半島最南部(現在の南大隅町・肝付町など)に位置しており、中世以降に姶羅郡も肝属郡に含まれるようになった。曽於郡は現在の曽於市・垂水市北部・霧島市東部を範囲としていた。
984年(『高城町史』[16]では968年)に肝付氏の祖、伴兼行が薩摩国惣追捕使として下向し、子孫である兼俊が高山(現在の肝付町)へ移住した1036年に肝付氏を名乗る[17]。肝付氏は島津荘などの荘園[18]を保有していたが、1185年に島津忠久が地頭として島津荘を管理することとなり、ここからおよそ400年にわたる肝付氏と島津氏の争いが幕を開けることとなった。
- 713年 - 大隅国設置。
- 720年 - 隼人の反乱が勃発。
- 800年 - 大隅国内で班田収授法を実施。
- 984年 - 伴兼行が薩摩国惣追捕使として下向。
- 1026年 - 島津荘が開発される。
- 1036年 - 伴兼行の子孫の兼俊が肝付氏を名乗る。
- 1185年 - 島津忠久が地頭として島津荘を管理する。
[編集] 中世
正和年間(1300年代初め)に鹿屋院は肝付氏の一族である鹿屋氏によって統治され、鶴亀城(後の鹿屋城)を現在の城山公園の位置に置いた。肝付氏とは島津氏の後継者争いがきっかけとした応永の戦で対立したのを除いてほぼ行動を共にしている。
南北朝時代には荘園が崩壊し、肝付氏は南朝側(公家側)につき、守護大名となった島津氏と対立した。高須港はこの頃から1573年に至るまで肝付氏の一大拠点として機能するようになり、大姶良は禰寝氏支配地との境界線上になったことから多くの山城が築かれた。
戦国時代中の1535年に島津氏の内紛が勃発し、肝付氏は島津氏と再び対立した。一時期は島津氏を上回るほどの戦力を保有していたが次第に衰退し、一時は肝付氏側についた禰寝氏が島津氏側に翻ったことが決定打となり[19]1574年に島津氏に降伏した[20]。島津氏は1577年伊東氏も降伏させたことで三州(薩摩・大隅・日向)を統一し、鹿屋氏も肝付氏とともに衰退をみることとなった。
この後、鹿屋を中心とした肝属川流域は「他地域の人間による支配下」に置かれることになる。『鹿屋市史 上巻』(1967年版)では島津氏を悪者と見立て大隅への圧政を強調している[21]が、圧政自体は薩摩藩領内で共通する事柄である。
[編集] 島津氏による支配
肝付氏亡き後の大隅は、伊集院忠棟が地頭として管理した。忠棟は鹿屋城の修復・城下町の形成を始めとして水田開発などによる農業生産の向上、市(いち)の開催を手掛けた。薩摩藩は1645年に外城制(後に○○郷と呼ばれ町村制施行の際にそのまま村となる)を敷き、現在の鹿屋市域では鹿屋・大姶良・花岡・高隈・串良・姶良・百引・市成の8郷(花岡と市成は私領)がおかれた。鹿屋郷の地頭仮屋は現在のかのやイベント広場の位置にあった。
鹿屋では定期市が月6回開催され、大隅半島各地を始めとして薩摩半島側の指宿からも集客があった。当時は島津氏御用達の銘酒として「桜川」が存在したが、幕末と1882年頃の火災や時代の推移とともに衰退した。
薩摩藩領内の農民は農業以外の職に就くことが許されず、年貢も8公2民(収穫のうち8割が徴収される、他藩は4公6民が一般的)という高率であった。この他にも衣食住全般にわたって制約が課せられており、百姓一揆を起こす余裕すらなかった。逃亡者も数多く発生し、薩摩半島(西目)側から農民を強制移住(人配、「にんべ」と読む)させることもあった。このような壊滅的ともされる経済状況は、明治期になってから改善されることとなる。
この時期の困窮具合を証明する資料として人口の比較が挙げられる。1801年時点では6,224人いたのに対し、1824年時点では6,180人に減少しており、逃亡や間引きが横行していたことが推測される。
[編集] 近現代
1888年に肝属郡の役所が打馬に設置されたことにより、近代都市としての鹿屋の発展がはじまる。1912年に鹿屋村は町制を施行し鹿屋町となった。1890年代には鹿屋を中心とする道路網が整備され、1910年代には電気・鉄道(後の大隅線)が通じるようになった。
1936年には市内(当時の大姶良村)に日本海軍航空隊の基地が置かれ、真珠湾攻撃訓練の中核地となり、第二次世界大戦中は特攻隊の出撃基地となった。この時期に鹿屋町は大姶良村・花岡村との合併を実施し、1941年5月27日に市制を施行し鹿屋市となった。
第二次世界大戦後は高須海岸から占領軍が上陸。戦後も海上自衛隊の鹿屋航空基地が置かれ、現在でも国防の一大拠点都市としての役割が強い。防空壕も数多く残されており[22]、2000年には道路陥没による死者が発生している[23]。
1950年代には高隈村との合併、垂水町の一部地域の編入を実施した。この頃は財政が悪化しており財政再建団体となっていた。
1960年代には公共交通機関の利用が最盛を迎え、バスセンターに隣接した桜デパートを中心とした地域の商業が盛んであった。しかし、1970年代以降にシラス台地に集落が発展するようになり、1991年度の市役所移転・国道220号鹿屋バイパス全線開通に伴うロードサイド店舗の出店・ショッピングセンター(プラッセだいわ)の開業により、中心市街地は衰退をみることとなった[24]。この対策として市街地開発事業が実施され、2007年にリナシティかのや(鹿屋市市民交流センター)が開設された。
2000年代に入ってからは「ばらのまち」キャッチフレーズとして使用するようになり、2006年に吾平町・串良町・輝北町と合併し2代目の鹿屋市となった際に市の花もバラに変更された。
- 1871年8月29日(新暦) - 廃藩置県に伴い現在の鹿屋市全域が鹿児島県に属す。
- 1871年12月25日(新暦) - 廃藩置県後の府県合併に伴い都城県に属す。
- 1873年1月15日 - 宮崎県の設置に伴い鹿児島県に属す。
- 1874年 - 鹿屋・高隈・大姶良・古江の各郵便局が業務開始。
- 1888年 - 肝属郡と南大隅郡の役所が垂水から打馬に移転。鹿屋が大隅の中心となるきっかけとなる。
- 1889年4月1日 - 町村制度施行により、現在の市域に相当する以下の村々が発足。
- 肝属郡鹿屋村・花岡村・大姶良村・高隈村・西串良村・姶良村・百引村
- 東囎唹郡市成村
- 1896年4月1日 - 郡区画改正に伴い、東囎唹郡市成村から囎唹郡市成村となる。
- 1897年2月 - 電信業務を開始。
- 1901年 - 西原競馬場を開設。
- 1902年10月 - 電報・電話の業務を開始。
- 1912年12月13日 - 鹿屋村が町制施行、鹿屋町となる。
- 1915年7月 - 大隅鉄道(後の古江線→大隅線)のうち、高須 - 鹿屋間が開通。当時の鹿屋駅は向江町に設置されていた。
- 1916年4月 - 鹿屋町役場(後の初代鹿屋市庁舎)を現在の鹿児島銀行鹿屋支店の位置に設置。
- 1920年 - 大隅鉄道のうち、鹿屋 - 高山間が開通。
- 1921年 - 大隅鉄道のうち、高山 - 串良間が開通。
- 1923年 - 大隅鉄道のうち、高須 - 古江間が開通。旧制中学校の県立鹿屋中学校(現在の県立鹿屋高校)が開校。
- 1929年2月 - 競馬場を札元に移転。
- 1932年5月15日 - 西串良村が改称・町制施行により串良町となる。
- 1933年2月16日 - 鹿屋町が町章を選定。現在も鹿屋市章として使用されている。
- 1935年10月 - 国鉄大隅線のうち志布志 - 古江間(東串良 - 串良間を除く)が開通。星塚敬愛園が開園。
- 1936年4月 - 鹿屋海軍航空隊が開隊される。
- 1936年10月 - 古江東線の東串良 - 串良間が開通し、鹿屋 - 志布志間が開通。志布志線経由で宮崎方面へ鉄道のみで向かうことができるようになる。
- 1938年10月10日 - 古江線の改軌工事が完了。鹿屋駅が共栄町(現在の鹿屋市役所の位置)に移転する。
- 1938年10月15日 - 台風襲来による大水害が発生。肝属川下流を中心に甚大な被害を受ける。
- 1941年5月27日 - 鹿屋町・花岡村・大姶良村が新設合併・市制施行により鹿屋市となる(初代)。
- 1942年5月 - 鹿屋市立図書館を当時の市役所内に開設。
- 1944年 - 鹿屋市立鹿屋工業学校(現在の県立鹿屋工業高校)を設置。
- 1945年9月 - 第二次世界大戦の終戦に伴い連合国軍が高須海岸から上陸。
- 1947年8月 - 向江町に市立図書館を開設。
- 1947年10月15日 - 姶良村が改称・町制施行により吾平町となる。
- 1948年3月 - 自治体警察の鹿屋市警察を発足させる。
- 1949年6月 - 昭和天皇が鹿屋市内に行幸する。
- 1949年12月 - 鹿屋競馬場で市営競馬を実施。
- 1950年2月 - 大字を廃止し、「町」を設置。一例として「鹿屋市大字中名→鹿屋市北田町」となる。
- 1951年12月 - 現在のかのやイベント広場のある地点に2代目(1代前)の市役所庁舎が完成。
- 1955年1月20日 - 高隈村が鹿屋市に編入合併。
- 1956年4月1日 - 百引村・市成村が新設合併・町制施行により輝北町(所属郡は囎唹郡)となる。
- 1958年1月20日 - 垂水町新城の根木原・桜町地域を鹿屋市に編入。
- 1958年4月 - 市立鹿屋女子高校を設置。
- 1958年8月12日 - 北田交差点に鹿児島県では2番目、鹿屋市内では初の信号機を設置。
- 1959年11月 - 財政再建団体の指定を外れる。
- 1960年11月 - テレビ放送開始(鹿屋中継局の開局)。
- 1961年 - 古江線が垂水市海潟まで開通。
- 1963年 - 鹿屋競馬場を廃止。
- 1963年8月 - 祇園祭(鹿屋夏祭り)に「ばか踊り」が登場。30数年に渡り親しまれる。
- 1967年2月 - 当時の鹿屋市の花を「カンナ」、木を「クスノキ」と制定する。
- 1967年3月 - 高隈ダムが完成。
- 1972年4月1日 - 北田交差点が鹿児島県内では初のスクランブル交差点となる(現在は一般的な交差点)。
- 1972年5月 - 鹿屋市旗を制定。2006年以降の鹿屋市にも引き継がれている。
- 1972年9月9日 - 大隅線が全線開通。
- 1976年6月 - 集中豪雨により鹿屋市中心部が冠水。
- 1977年3月 - 鹿屋市文化会館が完成。中央公園内に小動物園が完成。
- 1978年4月 - 市立鹿屋看護専門学校を設置。
- 1981年5月 - 鹿屋市立図書館と視聴覚センターを現在地に設置。
- 1981年10月1日 - 鹿屋体育大学が開学(開校は1984年4月)。
- 1986年9月9日 - 国立大隅少年自然の家が開所。
- 1987年3月 - 国鉄大隅線が廃線。
- 1991年5月7日 - 旧鹿屋駅のあった地点に市役所本庁舎を移転。同月27日に市制施行50周年を迎える。
- 1992年3月25日 - 国道220号鹿屋バイパスが全線開通。
- 1993年3月 - 霧島ヶ丘公園内に『かのやバラ園』を開園。
- 1993年7月 - 鹿屋航空基地資料館を開設。
- 1995年4月 - 水道事業を串良町と共同で実施(鹿屋串良水道企業団の業務を開始)。
- 1996年6月 - 肝属川の水量を分担させる役割を担う『鹿屋分水路』が完成。
- 2003年11月 - バラの品種のひとつとして『プリンセスかのや』の名称が採用される。
- 2006年1月1日 - 鹿屋市・輝北町・串良町・吾平町が新設合併し、鹿屋市となる(2代目)。
- 2006年4月25日 - かのやバラ園の規模を大幅に拡大させて開園。
- 2007年4月1日 - リナシティかのや(鹿屋市民交流センター)が開設。
[編集] 学校の設置・廃止
明治維新後すぐに鹿屋小学校が設置され、1870年代以降鹿屋市各地にも設置された。旧制中学校(現在の県立鹿屋高校)は、志布志(現在の県立志布志高校)に設置されていたことや鹿児島県農学校(現在の県立鹿屋農業高校)があったことから1923年まで設置を待つこととなった。
シラス台地に位置する西原・寿地区では人口が増加し続けており、小中学校(寿北・西原台小学校・鹿屋東中学校)が増設されているのに対し、郊外の山間部では減少が続き、旧鹿屋市内だけでも1971年に高牧・桜町、1988年には柏木の各小学校が閉校している。1981年には国内唯一の国立体育大学である鹿屋体育大学が開学し(学生の受け入れは1984年)、1986年には国立の大隅少年自然の家(おおすみくん家)が設立された。
[編集] 公共交通機関の衰退
1960年代に最盛を迎えた公共交通機関の利用も自家用車の普及に伴い減少していき、1987年3月には国鉄大隅線が廃止され、2006年11月には大隅交通ネットワーク(バス)の路線が大幅に廃止された。現在でも垂水 - 鹿屋 - 志布志間のバスは1時間に1本程度あるが、その他の路線は1日に数本程度に減便されている(鹿屋市コミュニティバスも同様)。鹿屋は鹿児島県・鹿児島市以上に車保有率が高く、完全にモータリゼーションが進行している地域である[25]。
[編集] 昭和の大合併
輝北町#昭和の大合併も参照
1940年、皇紀2600年であったことや紀元節(2月11日)に川内市(現在の薩摩川内市)が鹿児島県の自治体としては2番目に市制を施行したことに伴い、鹿屋町・花岡村・大姶良村・姶良村の4町村では合併・市制施行の気運が高まった。各町村での議論の結果、1941年5月27日に姶良村を除いた3町村が合併・市制施行した。5月27日は海軍記念日であり、「鹿屋海軍航空隊とともに軍都として発展する」という意味合いがある。
1947年10月15日には姶良村が改称・町制施行し吾平町となった。名称変更の理由として「鹿屋市の大姶良町や姶良郡宛の間違い郵便・運搬物が多く、支障を来している」ことを挙げている。
1950年代には鹿児島県が「昭和の大合併」として合併案を提示した。現在の鹿屋市域では以下の通りとなる。
1については、高隈村は鹿屋市と生活圏が一体化していることを理由として1955年1月20日に鹿屋市へ編入。野方村は分村し1955年4月1日に大崎町・西志布志村(後の有明町、現在の志布志市)・大隅町(現在の曽於市)に編入された。残った百引村と市成村が1956年4月1日に合併し輝北町となった。
2については、串良町側は東串良町との合併には賛成だったが、東串良町側が自立路線を採ったため合併を断念。3についても、吾平町側が自立路線を採ったために平成の大合併に持ち越されることとなる。後に鹿児島県は吾平町と鹿屋市との合併案も示していたが、これも婦人会などの反対により頓挫した。吾平町が合併に反対した理由として高山町との際には「人口の差から合併すれば中心部が高山町となり、現在の吾平町中心部が廃れること」や「両町間の交流が乏しいこと」を、鹿屋市との際には「鹿屋市が当時財政再建団体であったこと」や「鹿屋町と合併した旧大姶良村の中心部が廃れたこと」を挙げている[26]。
この他にも、垂水町(現在の垂水市)のうち旧新城村の根木原(ねぎばる)・桜町地区の住民が合併協議の際「鹿屋市と生活圏が完全に一体化している」こと[27]を理由に鹿屋市への編入を希望。この結果、1955年1月10日に垂水町として合併した後1958年1月20日に編入を実施した。桜町地区の名称は編入の際に「有武町」と変更されているが、現在も知的障害者援護施設の名称(桜町学園)として確認することができる。
[編集] 平成の大合併
2003年7月2日に垂水市・輝北町[28]・吾平町との枠組みで、2005年1月の合併を目指し「大隅中央法定合併協議会」を設置。2003年12月22日には新市の名称を「大隅市」と決定。2004年1月には串良町も参加した[29]。
ところが、2004年5月7日に垂水市は合併協議会から離脱。新市の名称にも鹿屋市側から反対の声が上がったため、2004年7月1日に「大隅中央合併協議会」を設置し[30]、その一員として垂水市を除いた3町と合併協議を進めた。同年11月26日に1市3町は合併協定を調印し、2005年1月7日に県に廃置分合の申請書を提出。3月14日に県が決定書を交付し、同月30日に国から合併が告示され、2006年1月1日に新設合併した。鹿児島県の自治体では初めて地域自治区を設けている(2009年まで)。なお、合併前の2005年12月には鹿屋市に縁のある人物(哀川翔・柴田亜衣・横峯さくら)が出演する合併告知コマーシャルが鹿児島県内のテレビ局で放送された。
旧4市町の花は「地域の花」として指定された。鹿屋地域はカンナ、串良地域はバラ、吾平地域はツワブキ、輝北地域はツツジ。
[編集] 人口の推移
- 1941年 鹿屋市制施行(鹿屋町、花岡村、大姶良村が合併)
- 1947年 国勢調査 人口62,497人 13,633世帯
- 1950年 国勢調査 人口63,506人 13,757世帯
- 1955年 高隈村を編入
- 1958年 垂水町新城の根木原、桜町を編入
- 1960年 国勢調査 人口72,498人 17,541世帯(市域拡大のため)
- 1970年 国勢調査 人口66,995人 20,566世帯
- 1980年 国勢調査 人口73,242人 25,197世帯
- 1990年 国勢調査 人口77,655人 28,411世帯
- 1998年 人口8万人を突破
- 2006年 1月1日合併時 人口106,462人 42,992世帯(市域拡大のため)
[編集] 旧鹿屋市の歴代市長
ここでは旧鹿屋市(2005年まで)の歴代市長を掲載する。
- 初代 - 竹内竹丸(1941年8月 - )
- 第2代 - 永田良吉(1943年11月 - ) - 鹿屋市初の名誉市民(1964年11月)
- 第3代 - 田平藤一(1947年4月 - )
- 第4代 - 牧窪秀吉(1951年4月 - )
- 第5代 - 児島静男(1952年10月 - )
- 第6代 - 永田良吉(1956年10月 - )
- 第7代 - 永田良吉(1960年10月 - )
- 第8代 - 塩田兼雄(1964年10月 - )
- 第9代 - 塩田兼雄(1968年9月 - )
- 第10代 - 平田準(1969年6月 - ) - 塩田の死去に伴う。名誉市民(1986年9月)
- 第11代 - 平田準(1973年6月 - )
- 第12代 - 平田準(1977年6月 - )
- 第13代 - 蒲牟田喜之助(1981年6月 - ) - 名誉市民(1996年2月)
- 第14代 - 蒲牟田喜之助(1985年6月 - )
- 第15代 - 蒲牟田喜之助(1989年6月 - )
- 第16代 - 浅井隼人(1993年6月 - )
- 第17代 - 山下榮[31](1994年5月15日 - )
- 第18代 - 山下榮(1998年5月15日 - )
- 第19代 - 山下榮(2002年5月15日 - 2005年12月)
[編集] 行政
- 市長:山下榮[31](旧鹿屋市長、2006年2月5日 - )
- 市長職務執行者(新市長選出まで):有留忠男(旧輝北町長)
[編集] 市の行政機関
- 鹿屋市役所 - 大隅線鹿屋駅の跡地にある。
鹿屋市職員は2007年4月1日時点で1,021人で、平均年齢は一般行政職が42.7歳、技術労務職が46.8歳となる[32]。
[編集] 県の行政機関
[編集] 国の機関
[編集] 財政
平成18年度(2006年度)の財政力指数は0.47。経常収支比率は91.4%と標準より高い数値となる。市債残高(平成17年度決算で480億2,800万円)も平成15年度(2003年度)以降上昇傾向にあり、基金(平成17年度決算で110億1,600万円)の切り崩しも続いている[33]。
平成18年度一般会計[34]では、歳入が451億6,216万円、歳出が437億3,025万円となり、いずれも前年比16 - 17億円の減少となった。平成19年度の当初予算[35]は379億4,800万円と、13.1%ほど更に減少することになる。
歳入のうち自主財源は約170億円、このうち市債の発行額は46億8,180万円、市税は95億8,932万円(21.2%)となる。依存財源の中心となるのは地方交付税と国庫支出金であり、歳入額の40%ほどを占める。
歳出のうち義務的経費が約200億円で46%と約半数を占める。このうち人件費が80億2,452万円(18.4%)、公債費は50億6,861万円(11.6%)となる。
[編集] 給料
2007年4月1日時点の平均給料(月額)は鹿屋市長が90万円、一般行政職が33万9,100円、技術労務職が35万2,600円。初任給は大学卒・高校卒ともに14万0,100円となる[32]。
[編集] 産業
[編集] 第一次産業
2000年の国勢調査時の就業人口の割合は14.8%。減少傾向にある[36]。農業・畜産が盛ん。特に、高隈ダムから農業用水をひいて大規模なかんがい事業を行なった笠野原台地では、様々な農作物が栽培されておりサツマイモや落花生などの産地となっている。 吾平町や串良町など川沿いでは米の早期栽培[37]も行われている。2005年時点の食料自給率は112%[38]。
農林水産省による2005年の統計[39]では農業産出額はおよそ459億3,000万円で、日本の市町村別では8位となり[39]九州地方では宮崎県都城市(3位、約679億円)、鹿児島県南九州市(7位、約465億円)に次ぐ。豚や肉用牛の産出額・飼養頭数は宮崎県都城市についで2位[39][40]、サツマイモは収穫量で2位となる[39][41](鹿児島県内の市町村別では左記の他にゴボウ[42]、ニンジン、サトイモ、ブロッコリーが産出額で[43]、乳用牛が飼養頭数・生乳生産量で[44]最大となる)。
漁業はカンパチの水揚げ量が垂水市に次いで日本国内で2位となる。なお、鹿児島湾沿岸地域はカンパチの養殖が盛んで、そのシェアは日本国内で半数に達する[45]。
[編集] 第二次産業
2000年の国勢調査時の就業人口の割合は22.6%[36]。鹿屋内陸工業団地や市街地南部の工業地区を中心に電子工業、繊維製造業、食品加工業などの多くの事業所があり、雇用の創出や地域の活性化に貢献している。
[編集] 第三次産業
2000年の国勢調査時の就業人口の割合は62.6%[36]。国道220号の鹿屋バイパス、旧国道220号の県道68号の沿線にロードサイド店舗が多数出店[25][46]しており、鹿屋市における商業の中心となっている。特に家電量販店は鹿屋バイパス沿いに(西から)ケーズデンキ、ベスト電器、ヤマダ電機、デオデオ(所在地は肝付町、鹿屋バイパスの起点にある)が出店している。鹿児島県内を拠点とするチェーン店(タイヨー、だいわ、ニシムタなど)は鹿屋市内に大規模店舗[47]を出店している。
金融機関については地区の節にある通り、市街地中心地区を中心に鹿屋市の拠点となる店舗を設置している。ただし、鹿児島興業信用組合「鹿屋支店」(旧:鹿児島県信用組合本店)や鹿児島相互信用金庫「鹿屋支店」は寿地区にある。なお、宮崎銀行の鹿屋支店は日本勧業銀行から引き継ぎであり、宮崎県外初の店舗である[48]。
[編集] 鹿屋市に本社を置く主要企業
[編集] 地域
[編集] 教育
旧輝北町の小中学校を2011年にそれぞれ1校(小学校は百引小学校、中学校は市成中学校)に統合する計画がある[49]。
[編集] 大学
- 国立
[編集] 専門学校
[編集] 高等学校
- 公立
- 私立
[編集] 中学校
全日制普通科の公立高校に設定されている通学区域(学区)は肝属学区。市成・百引(いずれも旧輝北町)の両中学校は姶良東学区・曽於学区にも属する[50]。
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[編集] 小学校
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[編集] 文化施設
- 鹿屋市市民交流センター(リナシティかのや)
- 鹿屋市文化会館
- 鹿屋市立図書館
- 鹿屋市立視聴覚センター
- 中央公民館
- 花岡地区公民館
- 地区学習センター(大姶良・高須・田崎・西原・東)
[編集] スポーツ・健康施設
- 鹿屋市体育館
- 鹿屋運動公園(西原陸上競技場)
- 県民健康プラザ健康増進センター - かつて存在した鹿屋競馬場(地方競馬)の跡地に立地。