ロナウド

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ロナウド
名前
本名 ロナウド・ルイス・ナザリオ・ジ・リマ
愛称 怪物、フェノーメノ
ラテン文字 Ronaldo Luís Nazário de Lima
基本情報
国籍 ブラジル
スペイン
生年月日 1976年9月22日(32歳)
出身地 リオデジャネイロ
身長 185cm
体重 90kg
選手情報
在籍チーム 未所属
ポジション FW
利き足 右足
代表歴
1994-2006 ブラジル 97 (62)
2006年7月1日現在


Template(ノート 解説)サッカー選手pj

ロナウドRonaldo1976年9月22日 - )こと ロナウド・ルイス・ナザリオ・ジ・リマ(Ronaldo Luís Nazário de Lima)は、ブラジル出身のサッカー選手。またホナウドホナウジーニョ(ロナウジーニョ)とも表記され、呼ばれる場合もある(名前については後述)

目次

[編集] 人物

[編集] 名前の表記・読み

Ronaldoは、日本ではドとよく表記・呼称される。しかし、これは英語(ローマ字)読みとポルトガル語読みが混同されたものである。とはいえ、ブラジルは国土が広く地域によって差異がある。現在ブラジルではポルトガル本国とは異なり、ブラジルポルトガル語が中心で、R発音はラ行ではなくハ行で発音される地域が多くなっている。したがって彼の出身であるブラジル・リオの発音・呼称に準ずればホナウド英語読みに準ずればロナルドとなる。

また、当初彼が「小さなRonaldo」という意味の愛称(アペリード)で、Ronaldinho(ホナウジーニョ、ロナウジーニョ)と呼ばれていた。しかし後にロナウジーニョ(ロナウド・デ・アシス・モレイラ)がブラジル代表となると、2人のロナウジーニョでややこしくなるため、ロナウド・デ・アシス・モレイラの方は、南部出身と言う意味でロナウジーニョ・ガウーショ(いわゆるブラジルのカウボーイのこと。南部には多い)、あるいは略してガウーショと呼ばれ区別された。ロナウジーニョ・ガウーショがブラジルを代表する選手になってきた近年では、ブラジルではロナウドをあだ名の「フェノーメノfenômenoポルトガル語で信じられないような現象・人の意。直訳なら「超常現象」。意訳するならば「怪物」「超人」)」、ロナウジーニョを単に「ガウーショ」(Gaúcho)と呼び区別することもある。

なお、このようにブラジル人を本名で呼ばず、愛称で呼ぶことが多いのは、ブラジルの公用語のポルトガル語は母親と父親の両方の苗字を受け継ぎ、名前もファーストとセカンドネームがある場合もあり非常に長くなることと、またロナウドのように同じ名前が非常に多いためである。

[編集] 経歴

[編集] クラブ

ロナウドはリオデジャネイロの貧民街ベント・リベイロ地区に生まれる。父ネーリオは電話局に勤務し、母ソニアはパートタイムの店員として家計を支えたが、決して裕福ではなかった。彼の多くの友人と同様にサッカーを始めると頭角を現し、14歳の時に、1970 FIFAワールドカップ優勝メンバーのジャイルジーニョの推薦もあってブラジルユース代表に選抜された。そして、16歳でミナスジェライス州の強豪クルゼイロに入団した。ブラジル全国選手権で13試合出場12得点を記録した。そしてミナスジェライス州選手権では、最大のライバルアトレチコ・ミネイロとの一戦ではハットトリックを決め3-1の勝利を収め、優勝に貢献した。

1994年にオランダのPSVアイントホーフェンに600万ドルで移籍した。彼はリーグ戦通算46試合出場42得点をあげて、公式戦通算57試合出場55得点を記録した。この活躍が認められ、1996年にスペインのFCバルセロナへ移籍した。バルセロナではUEFAカップ優勝に貢献、決勝戦では決勝ゴールを決める活躍を見せた。またリーグ戦では37試合出場34得点を記録した。なお、リーガ・エスパニョーラにおいて現在に至るまで30得点以上を記録した最後の選手となっている。翌1997年にイタリアの インテル・ミラノへ移籍した。インテルでは前年に続きUEFAカップ優勝に貢献した。また1996年、1997年と連続でFIFA最優秀選手賞を受賞するなど選手として絶頂期にあった。

1999年11月21日のレッチェ戦において膝を負傷し交代を余儀なくされた。試合後の検査の結果、右膝靭帯を部分断裂して手術が必要であると診察された。翌2000年4月12日に復帰を果たすが、コッパ・イタリア決勝のSSラツィオ戦で再び同じ個所を完全断裂し、僅か7分間のプレーに終わった。2度の怪我と20ヵ月間のリハビリの後、ロナウドは2002年の2002 FIFAワールドカップ直前に復帰を果たし、ブラジルの5度目のワールドカップ制覇に貢献した。この活躍により同年に3度目のFIFA最優秀選手賞を受賞した。

2002-03シーズンに3900万ドルでスペインのレアル・マドリードに移籍した。デビュー戦のアスレティック・ビルバオ戦では2得点を記録、2003-04シーズンにリーグ戦23得点を挙げ、リーグ制覇に貢献した。2006年、レアル・マドリードの監督にファビオ・カペッロが就任すると、年齢や太りすぎによる運動量の低下を理由に構想から外され出場機会が減少した。

2007年1月30日、アンドリー・シェフチェンコの放出でストライカーを探していたACミランに、移籍金9億5000万円、1年半の契約で移籍。背番号はすでに9番をフィリッポ・インザーギが付けているためか、背番号は99番になった。2008年オフシーズンでの契約更新はなくACミラン退団が決まっている。

[編集] ブラジル代表

ブラジル代表としては1994年にレシフェで行われたアルゼンチンとの親善試合において17歳で代表デビューを飾った。同年6月のFIFAワールドカップ・アメリカ大会代表にも選出されたが、出場機会は無かった。

ブラジル五輪代表として1996年のアトランタオリンピック出場した。ロナウドを始め、ジーダロベルト・カルロスらを擁し、優勝候補の筆頭と目されたが、準決勝で今大会を制するナイジェリアに敗れた。

1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会では4得点を挙げ決勝進出に導いたが、決勝戦前日に原因不明の発作に襲われ一時は出場が危ぶまれた。試合当日には何とか出場する事が出来たが、満足なプレーが出来ず開催国のフランスに0-3で敗れたたがMVPに選ばれた。

2002年のFIFAワールドカップ・日韓大会では8得点を挙げ得点王に輝くと共にブラジルの5度目のワールドカップ制覇に貢献。準々決勝のイングランド戦以外は全ての試合で得点を重ね、決勝のドイツ戦では2得点を挙げる活躍であった。

2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会では、体重の増加や、グループリーグの第1戦、第2戦における低調なパフォーマンスもあって、母国を始めとしてメディアや評論家から「レギュラー失格」の烙印を押され非難を集めたが、監督のカルロス・アルベルト・パレイラはロナウドを起用し続けた。そして第3戦の日本戦では2得点を挙げて批判を沈静化させると、2006年6月28日(日本時間)のドイツW杯の決勝トーナメント一回戦ブラジル対ガーナ戦で、今大会3得点目、W杯通算15得点目を挙げ、ゲルト・ミュラー(西ドイツ)が打ち立てた14得点という大会得点記録を更新した。しかし準々決勝のフランス戦では0-1で敗れた。

ワールドカップでの敗退後に、ブラジル代表の元主将ドゥンガが代表監督に就任したが、ドゥンガ監督の下では構想から外れ、現在に至るまで代表に招集されていない。代表通算62得点の記録は77得点のペレ、71得点のロマーリオ、66得点のジーコに次ぐ第4位である。

[編集] ロナウドが戦術

FCバルセロナに所属していた当時、「攻撃の戦術が無い」と批判されたボビー・ロブソン監督が「私の戦術はロナウドだ」と言い返したのは有名な逸話である。当時のロナウドは相手から「ボールを渡さない」、「反則でしか止められない」、「前を向いてボールを持ったら反則しても止められない」と言われており圧倒的なフィジカルと卓越したテクニックで単独で敵陣を突破しゴールを決めていた。コンポステーラ戦での60メートルドリブルがいい例である。

[編集] 怪我との戦い

世界最高の選手と称えられ順調にステップアップしていたロナウドだったが、インテル時代の1999年SSラツィオ戦で右十字靭帯を部分断裂。2000年、リハビリののち復帰した直後のSSラツィオ戦で、ドリブル中に再び同じ箇所を完全に断裂するという悪夢のような出来事に見舞われた。このような怪我は膝を特に駆使するスキーバレーボールの選手に多く、外部から局所的に強い衝撃が加わらない限りサッカー選手に起こるのは稀とされており、一説にはロナウドの地を蹴るパワーが強すぎて起こってしまったのではないかと言われている。一時は現役引退も囁かれたが、1年半以上に及ぶ長いリハビリの末に2002年に復帰し、2002年ワールドカップにおいて、8得点で得点王になりブラジルの優勝に大きく貢献し見事に復活を果たした。

復帰後はリハビリで膝の筋肉を鍛えたため体重が増加した。一時は100kgを越える体重を記録したこともあった。しかし、足元のテクニックやディフェンスの裏へ抜け出しの速さは相変わらず世界でもトップクラスであり、シュートの決定力やゴール前での狡猾さ・冷静さは若い頃より増した感がある。ロナウド自身も「走力は落ちたが、ゴール前での冷静さや状況判断は良くなっている」と述べている。

2007-2008シーズンはACミランで得点を重ね好調だったが、徐々に怪我に泣かされる。そして、最悪の事態が再び訪れることになった。2008年2月13日、セリエA・第16節延期分のリボルノ戦で右膝に続き左膝のを断裂という1999年、2000年と同じような症状の大怪我を負ってしまった。2月14日パリで手術を行い終了。手術の出来は完璧だと医師達は話すが、全治にかかる年月は6ヵ月程度と言われており、この長期離脱が一体どんな影響を及ぼすのかなど心配な点がある。

[編集] プレースタイル

本人が「練習しているがなかなか上手くならない」と語るヘディング以外はストライカーに必要な能力を完璧に近いほど併せ持つ。身長もそこそこだがヘディングでボールに合わせようとする動きはあまり見られない。 柔らかいタッチ、鋭い切り返しと圧倒的なスピードでディフェンダーを置き去りにするドリブル突破、左右のどちらからも放たれる恐ろしいほどに正確なシュートが特長である。

瞬発力が異常なほど高く、彼の加速力は1メートルでトップスピードに持っていけるといわれるほど驚異的な速さを誇る。またトップスピードで一気に長距離を疾駆して単独でゴールを陥れることを可能にする、長時間の無酸素運動能力も高く評されている。レアル・マドリード、ACミラン両クラブで、短距離タイムチームナンバー1になっており、依然として世界最高レベルの加速力を誇っている。 また、鋼のように強靱なフィジカルも有しており、全盛期はユニフォームを掴まれようが数人に囲まれようが勢いが弱まる事はなく、ドリブル突破で相手選手を次々となぎ倒してしまう程であった。

フットサルで磨いた足元の技術は高く、元チームメイトのジネディーヌ・ジダンをして「ボールを持った彼は全てを可能にする」と言わしめる。ゴール前での冷静さやトラップ技術は群を抜いており、シュートするのに最適な位置にボールをコントロールする。シザーズフェイントの名手としても知られ、高速で大幅な重心移動を繰り返すその動きは(多くの場合)左に持ち出すことが分かっていながら止められないことでも有名。他にもエラシコや各種のフェイントも使うことがある。シュート時に蹴り足の膝下にボールを置いて蹴る特殊なフォームの持ち主であり(普通はまともに蹴ることすら難しい)、キーパーは間合いを外され反応出来ないまま自分の真横を転がるボールを見送る事も度々ある。また、ボールに対する反応も非常に素早く、キーパーが弾いたボールに誰よりも早くゴールに押し込むなど抜け目のなさも持っている。

実績では現役世界最高のストライカーであり、歴代で見ても最も偉大な選手の一人。史上最高のストライカーと評す声も少なくない。その超人的なプレーから「怪物」、「フェノーメノ(超常現象)」の異名をとる。

[編集] エピソード

  • リオのクラブでプレーしていた少年時代、ロナウドの噂を聞いたジャイルジーニョが訪れ試合を観戦していたが、その試合で大活躍したロナウドの利き足が左右どちらなのか最後まで分からなかった。
  • 1993年クルゼイロECの一員として来日。ジュビロ磐田とのプレシーズンマッチに出場しハットトリックを達成(試合は3対1)。なおこの際の試合会場は東京ドームである。
  • 1996年のアトランタオリンピックにブラジル代表として出場したときの登録名称は「ロナウジーニョ」だった。俗にマイアミの奇跡と呼ばれる日本戦にも後半19分に投入され卓越した個人技を駆使して幾度となく日本のゴールに襲い掛かっている。
  • 1996年のバルセロナ移籍後のコンポステーラ戦で約60メートルをドリブルで次々とDFを交わしながら決めたゴールはナイキ社のCMにも使用され知名度が飛躍的に上がるきっかけとなった。
  • 1997年、イタリア・セリエAに移った初年度に25ゴールを挙げ、同リーグにおいて1年目の外国人選手によるものとしての最多ゴール記録を樹立した。この記録は未だに破られていない。
  • 2001-2002シーズンごろからようやく試合に出始める。このシーズンでも何度かケガに見舞われたが、シーズン終盤のブレシア戦で復帰すると、チームを救う2ゴールをあげる。このうちの1点目はフルパワーで放ったシュートが一度ポストに跳ね返り、再びロナウドの足元に戻ってきて、蹴りこむというロナウドの持つ強運が生きたゴールだった
  • 2002年の日韓ワールドカップの途中に、前髪のみを三角形に残して残りの髪を全部剃るという奇抜な髪型にしたことがある(日本では、三角の前髪を海苔に見立てて「おにぎりカット」、またはドラマ『子連れ狼』の登場人物から「大五郎カット」と呼ばれた)。本人は非常に気に入っていたようだが、世界中のファン、果ては自分の息子からも「変だ」と総バッシングを食らい、結局ワールドカップ終了後すぐにやめてしまった。が、それは自身が緊張するあまりフランス大会で活躍できなかった轍を踏むまい、そして仲間達に踏ませまい、との心遣いだった。事実、当時のキャプテンのカフーから「史上最悪の髪型だな」と揶揄されるほどだったが、セレソン全てが和む事が出来、決勝戦での勝利という最高の形に繋げる事が出来た。
  • 2002年のワールドカップ優勝の翌日、ロナウド1人が夜遊びから宿泊ホテルになかなか戻らず、このためチーム全員の出発時間が遅れた。
  • 2002年のワールドカップ終了後、帰国に際して、空港でちょんまげのかぶり物をかぶりながら飛行機に乗っていった。
  • レアル・マドリードでのチームメイトだったジダンとともに、2003年から国連開発計画(UNDP)の親善大使を務めており、貧困撲滅キャンペーンへの協力とチャリティマッチを開催している。
  • 2005年スペイン国籍を取得した。ブラジル国籍は放棄していない二重国籍であり、所属クラブの外国人枠を空けるための選択である。なお、イタリアに移籍した現在でも規定によりスペイン国籍はEU圏内なので外国人とはみなされない。
  • ACミランとの契約に関し、ライバルクラブでありロナウドの古巣であるインテルのマッシモ・モラッティ会長が「不快である」とコメントした。
  • ロナウドのACミラン移籍時、チームの状態は悪かった。しかし彼の入団の後から状況は好転に向かい順位上昇、一時は危ぶまれていたCL出場権獲得を果たした。既にレアル・マドリードでCLに出場していたためミランでのCL出場は出来なかったが、チームのエースであるカカの負担がロナウドの加入により軽減されたこと、ロナウドという存在が、憂慮なく主力メンバーをCLに投入出来るチーム状況を作った事などから、間接的にCLでの戦いに貢献したと評する声もある。
  • 趣味にF1観戦があり、ヨーロッパで開催されるレースを中心にしばしば姿を見せているほか、2005年には、この年に開幕した国別対抗チームによる自動車レース選手権A1グランプリでブラジル代表チームの共同出資者の1人として名を連ねている。その他、ゴルフを趣味としている。
  • 坊主頭が印象的だがミラン入団後から少しずつ髪を伸ばしている。
  • ロナウドのファッションについてある雑誌では、「ベッカムの真似をしているだけ」という評価をされてしまった。
  • リベリーノは全盛期のロナウドに対し「ロナウジーニョのプレーを子供たちは真似をする、しかしロナウドのプレーは真似など出来る訳ない」と評していた。

[編集] 所属クラブ

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 経歴

オリンピック
男子 サッカー
1996 サッカー
代表
クラブ

[編集] 主要な個人タイトル

リーグ

  • 1994-95 オランダリーグ得点王(33試合30得点PSVアイントフォーヘン)
  • 1996-97 スペインリーグ得点王(37試合34得点FCバルセロナ)
  • 2003-04 スペインリーグ得点王(32試合24得点レアル・マドリード)

代表

  • 2002 FIFAワールドカップ 得点王(7試合8得点)

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯 オープン杯 期間通算
1994 クルゼイロ 1部 14 12
オランダ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
1994-95 PSV エールディヴィジ 32 30
1995-96 PSV 9 エールディヴィジ 13 12
スペイン リーグ戦 国王杯 オープン杯 期間通算
1996-97 バルセロナ 9 プリメーラ 37 34
イタリア リーグ戦 イタリア杯 オープン杯 期間通算
1997-98 インテル 10 セリエA 32 25
1998-99 インテル 9 セリエA 19 14
1999-00 インテル 9 セリエA 7 3
2000-01 インテル 9 セリエA 0 0
2001-02 インテル 9 セリエA 10 7
スペイン リーグ戦 国王杯 オープン杯 期間通算
2002-03 R・マドリード 11 プリメーラ 31 23
2003-04 R・マドリード 9 プリメーラ 32 24
2004-05 R・マドリード 9 プリメーラ 34 21
2005-06 R・マドリード 9 プリメーラ 23 14
2006-07 R・マドリード 9 プリメーラ 7 1
イタリア リーグ戦 イタリア杯 オープン杯 期間通算
2006-07 ミラン 99 セリエA 14 7
2007-08 ミラン 99 セリエA 5 2
通算 ブラジル 1部 14 12
オランダ エールディヴィジ 45 42
スペイン プリメーラ 164 117
イタリア セリエA 82 56
総通算 305 227


先代:
マティアス・ザマー
欧州年間最優秀選手
1997
次代:
ジネディーヌ・ジダン
先代:
-
UEFA年間最優秀選手
1997-1998
次代:
デビッド・ベッカム
先代:
マイケル・オーウェン
欧州年間最優秀選手
2002
次代:
パベル・ネドベド
先代:
ジョージ・ウェア
FIFA最優秀選手
1996, 1997
次代:
ジネディーヌ・ジダン
先代:
ルイス・フィーゴ
FIFA最優秀選手
2002
次代:
ジネディーヌ・ジダン
先代:
ダヴォール・シューケル
FIFAワールドカップ得点王
2002
次代:
ミロスラフ・クローゼ
先代:
ブラジルの旗ロマーリオ
1994 アメリカ
ワールドカップ大会MVP
1998 フランス
次代:
ドイツの旗オリバー・カーン
2002 日本・韓国