八戸市
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八戸市(はちのへし)は、青森県東南部に位置し、太平洋に面する特例市で、県下第二の都市である。
目次 |
[編集] 概要
八戸市は人口24万人を有する青森県南部地方の中心都市である。経済圏である八戸都市圏は約33万人の人口を擁しており、商圏は隣接する岩手県北東部におよび、商圏人口は東北地方有数の約60万人である。直線距離で東京から北へ560キロ、仙台から北に255キロ、札幌から南に285キロのところに位置する。
全国有数の漁獲高を誇る八戸港と東北有数の工業拠点を持ち、港町と工業都市として発展してきた都市である。新幹線、高速道路、国際航路の複数の交通網が整備されており、東北新幹線の終着駅である八戸駅から、はやて号が八戸東京間を最短2時間56分で運行されている。また、東北自動車道八戸ICから川口ICまで約8時間で結び、八戸フェリー埠頭からカーフェリーが八戸苫小牧間を毎日4往復している。そして八戸港は漁港のほか国際航路として、東南アジア、中国・韓国、北米、横浜内航フィーダー航路の4つのコンテナ航路を持っている。[1]
また、2002年の東北新幹線開業に伴い観光地へのアクセスがよくなり、十和田湖や八甲田山、奥入瀬渓流、三陸海岸への玄関口になっている。これと合わせて、漁獲高日本一であるイカの珍味や八戸市の郷土料理せんべい汁や南部せんべいなどが多くのマスコミに注目されるようになり、中心市街地にある観光地のみろく横町などで堪能することができるようになった。
そして文化面においても国内有数の遺跡群や文化財や工芸品の宝庫であり、伝統芸能のえんぶり(朳)、八戸三社大祭、騎馬打毬は国の重要無形民俗文化財に指定されている。また、「八幡馬」「南部姫毬」などの伝統工芸品が登録されている。
八戸市は冬季スポーツのスケートが古くから市民に親しまれており、『氷都八戸』として1930年に第一回全日本スピードスケート選手権が開催され、戦後から国民体育大会冬季大会のスピードスケートの競技会場に選ばれている。このため、市民の中でもスケートやアイスホッケーが盛んに行なわれ、実業団体やジュニアチーム、女子チーム、素人アイスホッケーを含め、40チームが結成されている。
[編集] 地理
[編集] 概況
市域は青森県の南東部にあたり、北緯40度30分、東経141度30分に位置する。 東は太平洋に面し、北はおいらせ町、西は五戸町・南部町、南は階上町、岩手県軽米町に接する。市域の面積は305.17平方キロメートルで青森県の約3.4%を占め、県内の市町村で11番目の広さである。
[編集] 地形
八戸地域の地形の大部分は台地(20メートルから50メートル)で、平野部は市域の中央部に広がる。
八戸市には主に3本の川が太平洋に注がれており、北部には十和田湖から流入する奥入瀬川、中心部には一級河川の馬淵川、二級河川の新井田川が流れおり、河口付近はデルタ地帯が形成され臨海工業地帯が立地する。八戸市の南部に位置する新井田川の上流には世増ダムがあり川が堰き止められてできた青葉湖がある。
市域の東側は太平洋に面し、市域の北部から中央部にかけては臨海工業地帯が形成されている。市域の南部は宮城県北から続く三陸海岸リアス式海岸の北限となっており、種差海岸や白浜海岸、大須賀海岸の3つの海岸がある。海沿いでありながら平地がほとんど無い地形であり、大正時代に植生された松林が広っている。種差海岸はなだらかな丘に芝生や貴重な植物が自生しており、白浜海岸、大須賀海岸は非常に砂浜の環境良いため、東北地方最大の鳴き砂のスポットでもあり貴重な環境が保全されている地域である。
[編集] 鉱山資源
[編集] 気候
太平洋側気候であるが、夏は偏東風(やませ)の影響で冷涼であり、海から冷たい風が吹き付けて冷夏になる年もある。一般に気象庁から梅雨明け宣言が発表された後も、やませの影響で曇りの日が多いため、そのような気候が農作物に冷害といった被害を及ぼすこともある。また夏日にはなるが真夏日・熱帯夜が少ない都市である。例年8月後半ごろから徐々に気温が低下して、9月には最高気温が21度になり肌寒くなる。
冬は北東北にありながら降雪量が少なく乾燥し、晴天が多いため日照時間も長い。これは冬季は季節風が中国大陸から日本海を経由して湿った大気が奥羽山脈にぶつかるため、青森県の西側の津軽地方では降雪量が多く、太平洋側に位置する八戸市に雪を降らせる大気はすでに乾燥しているので降雪量は少ない。また、降雪量が少なく空気が乾燥しているため、日中でも0度以下の真冬日になる日がよくある。
以上のことから八戸市の夏は他の都市に比べて涼しく、冬は晴天の日が多い都市であるといえる。
- 夏季
- 真夏日(最高気温が30度以上) 13日(1997年から2007年までの平均)
- 8月の平均最高気温 26.5℃(1997年から2007年までの平均)
- ※過去最高気温 37.0℃(1978年(昭和53年)8月3日)
- 冬季
- : 真冬日(最高気温が0度以下) 11日(1997年から2007年までの平均)
- 1月の平均気温 -0.7℃(1997年から2007年までの平均)
- ※過去最低気温 -15.7℃(1953年(昭和28年)1月3日)
| 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 全年 | 全国平均 | 青森市 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 平均気温 (℃) | -0.8 | -0.3 | 3.0 | 8.7 | 13.4 | 16.9 | 20.0 | 22.6 | 19.4 | 13.4 | 7.1 | 1.3 | 10.4 | 15.2 | 10.2 |
| 最高気温(℃) | 2.4 | 3.6 | 7.5 | 13.9 | 18.5 | 21.3 | 23.9 | 26.5 | 21.1 | 18.1 | 11.7 | 5.0 | 14.9 | - | - |
| 最低気温(℃) | -4.0 | -3.9 | -1.2 | 4.2 | 9.2 | 13.5 | 17.1 | 19.5 | 15.8 | 9.0 | 2.9 | -1.9 | 6.7 | - | - |
| 降水量 (mm) | 56.0 | 38.5 | 64.6 | 57.5 | 104.2 | 104.3 | 153.1 | 137.9 | 194.5 | 120.5 | 89.8 | 62.4 | 1193.9 | 1388 | 986 |
| 降雪の深さ (cm) | 39.8 | 40.5 | 28.1 | 2.1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.9 | 18.8 | - | 130.4 | 739.6 |
| 日照時間 (h) | 119.1 | 131.4 | 162.9 | 182.0 | 195.2 | 172.3 | 133.0 | 161.2 | 135.6 | 157.9 | 130.2 | 119.7 | 1800.5 | 1925 | 1489 |
| 日照率 (%) | 40.2 | 43.9 | 44.3 | 45.8 | 43.8 | 38.4 | 29.1 | 38.1 | 36.5 | 45.7 | 43.8 | 41.6 | 40.7 | - | - |
[編集] 市名の由来
八戸の地名の由来は、かつて古代末期から中世頃までの東山道陸奥国にあった郡の「糠部郡」に由来している。 現在は四戸を以外の一戸から九戸まであるが、この「戸」は現在の意訳では第○地区という意味である。そのことから八戸の「戸」は、糠部郡第八地区にあたるとされている。八戸市HPでは市名の由来を以下のように紹介している。『この「戸」は、古代律令に基づくものと考えられており、馬産地として知られていたこの地域の牧場に関連させる考え方や、蝦夷支配のために北進する朝廷側の前進基地とする考え方があります』 このことから1000年以上前から八戸という地名はあったのではないかとされている。[5]
[編集] 歴史
[編集] 先史時代・古代
縄文時代の遺跡として是川遺跡や風張遺跡がある。風張遺跡からは縄文後期の米粒が出土している。また、是川遺跡からは数々の工芸品が出土している。8世紀から9世紀ごろ建造された古墳として鹿島沢古墳群や丹後平古墳群があり、ガラスの小玉や鉄鏃、金銅製金具などが発見されている。その後、平安時代末期に南部氏が治めるようになるまで蝦夷の土地であり、律令制の及ばない地であった。
[編集] 中世(根城南部氏時代)
建久2年(1191年)、甲斐国の南部氏が北東北一帯を源頼朝から賜ったとされているが、南部氏が実際に北東北に移ってきたのは南北朝時代である。建武元年(1334年)、国代として糠部郡を支配することを命ぜられた南部氏分家の南部師行が根城を築き、根城南部氏の祖となった。その根拠地として石懸村八森(現在の八戸市根城地区)に築城した。[6]
八戸が東廻り航路の海港となったのは近代初頭で、初期の航路は銚子から利根川を利用したため川船に乗換えて江戸まで物資を運んでいた。元和期(1615年~1624年)には、八戸で海船の建造も行われるようになった。
根城南部氏は寛永4年(1627年)、本家盛岡南部氏の命により遠野に居城を移した。
1630年(寛永7年)、根城町から三日町・十三日町・廿三日町へ、新井田町から八日町・十八日町・廿八日町が柏崎城の下に移り、新しい城下町の町人町が設けられた。
[編集] 中世(八戸藩時代)
寛文4年(1664年)、南部重直が世継ぎを決めずに亡くなったため南部藩は御家断絶となる。幕府は南部藩10万石を八戸2万石と盛岡8万石に分け、八戸藩を南部直房に与え八戸城が築かれ、八戸藩が始まり城下町として一層整備された。なお、八戸藩の領地と現在の八戸市の領域にはかなり違いがあり、久慈市あたりまでが八戸藩であった。
1665年(寛文5年)八戸領内の産物を2隻の船で江戸へ送る[7]
1670年(寛文10年)河村瑞賢により銚子から江戸に直行する海路として、新しい東廻り航路が開設され物資の輸送に利用されるようになる。移出品は大豆、〆粕、魚油、鉄製品等。移入品は木綿、茶、紙、瀬戸物等[8]
1681年(天和元年)、マッコウクジラ36頭が八戸市白銀に揚がり浜が大いににぎわった。
元禄頃(1688年~1704年)には八戸城下町に隣接し、馬渕川および新井田川の河口に位置する、湊・鮫の両浦に屋敷割りが行われ、港町の性格を兼ねてきた。同時期の1690年(元禄3年)、六日町に海産物問屋の許可が与えられるようになる。[9]
1706年(宝永3年) 白子権兵衛が新堀川(小中野)を改修し、船入り場を整備する
享保(1716年~1763年)時代にはいると、当時八戸地方の特産物だった大豆その他穀物、塩、〆粕、干鰯(ほしか)、魚油、鉄や移入品である絹、木綿、古着類が集散しはじめる。江戸などの遠隔地と交易が盛んになり、移入品の配給を独占した下町の御用達商人が藩経済を支配していた。[10]
1772年(安永元年)新堀川が洪水により埋没したため付替工事を実施する
八戸城は現在の三八城公園にあった。城下町には三日町、十三日町など市の立つ日を名前とした街が並んでおり、現在も市の中心地となっている。また、江戸時代の思想家、安藤昌益も暮らしており、十六日町にある浄土宗天聖寺で講和を開いたとされている。当時の八戸は、商人の町として思想や数学の先端を切り開いていき、その算木や算額が八戸藩主の墓の南部家墓所に通じる臨済宗南宗寺に保存されている。
天明三年(1783年)大飢饉が発生 当時の八戸領の人口6万5千人のうち3万人が餓死し、現在の八戸市の大字である新井田、十日市、田向、塩入(現在の柏崎、青葉)、岩渕(現在の白銀)地区の1418人のうち696人が亡くなった。また、治安が非常に悪化したため、放火や強盗が多く発生した。当時の人は海草や山草、藁を食べて飢えを凌いだと記録されている。[11]その記録が、対泉院の餓死萬霊等供養搭に記されている。 この不作対策として、米を備蓄し始めるようになり、当時の町民の行動は商人の八戸市の先進性を示していたといえる。
1825年(文政8年)、鮫浦で150m程の築堤工事が行われる
1826年(文政9年)、白銀浜に防波堤が築造される
1864年(元治元年)、八戸大火が発生
- 幕末、大久喜漁港の浜小屋が建設される。現在国の重要文化財に指定されており、八戸周辺の魚労具が展示されている。
[編集] 近代(八戸県時代)
- 1871年(明治4年) 廃藩置県により八戸県となる
- 1872年(明治5年) 「八戸郵便取扱所(現在の八戸郵便局)」が塩町に開設
- 湊川口に灯台建設
- 1873年(明治6年) 八戸尋常小学校(現在の八戸小学校)が開校
- 1875年(明治8年) 湊小学(現在の小中野小学校)が開校
- 1879年(明治12年) 電信が開通する
- 1880年(明治13年) 浦山太吉らが鮫築港運動をはじめる
- 1881年(明治14年) 内務省から八戸港実測のためオランダ人技師ローウェンホルスト・ムルデル が派遣され、翌年港湾計画ができる[13]
- 1884年(明治17年) 八戸でイカ釣漁業がはじまる
- 1888年(明治21年) 明治の八戸大火が発生
- 1889年(明治22年) 長谷川藤次郎が三重県からあぐり網を導入
[編集] 近代(八戸町時代)
- 1891年(明治24年) 町村制により八戸町となる
- 1891年(明治24年) 日本鉄道青森線の尻内駅(現在のJR東日本八戸駅)が開業
- 1872年(明治5年) 湊漁業組合設立
- 1893年(明治26年) 六日町に魚市場が開設される[14]
- 1896年(明治29年) 三陸大津波で被害
- 1900年(明治33年) 湊村立湊水産補修学校が現在の市営魚菜市場(陸奥湊駅前)に開校する
- 県試験船太平丸が鮫沖で試験操業開始
- 1901年(明治34年) 長者村を合併
- 1903年(明治36年) 三戸郡下各浦に漁業組合設立
- 1908年(明治41年) 湊水産補修学校が財政難で閉校。県水産試験場の付属として伝習部が設置され運営継続[16]
- 1910年(明治43年) 八戸・湊・鮫に電話開通
- 1911年(明治44年) 東洋捕鯨鮫事業所焼討事件発生。鮫村漁民1100人による暴動勃発。
- 1914年(大正3年) 東洋捕鯨襲撃事件が和解。春から捕鯨船3隻出航、148頭の鯨を捕獲で大漁。
- 1919年(大正8年) 鮫浦港修築工事が着工(現:三八地域県民局地域整備部八戸港管理所)
- 八戸市は、かつてから港湾と共に発展してきた。八戸藩誕生のころ、八戸の港は鮫浦と呼ばれる漁港であった。また、新井田川河口は湊川口と呼ばれ、こちらも漁港および商港として重要な拠点であり、念願の港築港工事であった。
- 1928年(昭和3年) 内務省指定港湾となる
[編集] 旧八戸市(戦前)
- 1929年(昭和4年) 市制施行(旧八戸町、小中野町、湊町、鮫の合併による)
- 現在の八戸港が商港に指定、湊魚市場組合設立
- 五戸電気鉄道尻内駅が現在の八戸駅に開業
- 1930年(昭和5年) 鮫港と湊港を統一し、「八戸港」に改称する
- 八戸市消防組が発足 それ以前は消防組と防衛団、警防団という組織があった
- 第1回全日本スピードスケート選手権を現在の長根運動公園で開催
- 国鉄八戸線が久慈駅まで開通
- 1932年(昭和7年) 漁港修築事業完成、商港第一期修築に着手する
- 株式会社八戸魚市場創立
- 八戸市営バスの運行が始まる
- 1933年(昭和8年) 三陸地方に震度5の地震、三陸大津波が襲来で多数の被害、鮫漁港竣工落成
- 第一魚市場が開設(大字鮫町)される
- 1924年(大正13年) 八戸港が第2種重要港湾に指定される
- 1936年(昭和11年) 八戸測候所が開設
- 1937年(昭和12年) 日東化学工業八戸工場が創設。戦時中は八戸屈指の軍需工場であり、飛行機の機体に使うアルミや肥料の硫安を生産し、大戦末期には爆薬の製造も計画された
- 1937年(昭和12年) 仙台土木出張所馬淵川改修事務所が設置され、馬淵川改修工事に着手する(昭和30年放水路完成)
- 1938年(昭和13年) 鮫灯台点灯
- 1939年(昭和14年) 貿易港として開港指定される
- 函館税関八戸税関支署が設置される
- 商港第一期修築が完成する
- 八戸港修築計画(神田構想)が策定される
- 1940年(昭和15年) 商港第二期修築に着手する
- 仙台土木出張所八戸港修築事務所が設置される(現:国土交通省東北地方整備局八戸港湾空港整備事務所)
- 1943年(昭和18年) 八戸臨海工業地帯造成工事を県直営で着手
- 東北海運局八戸支局が設置される(現:東北運輸局青森運輸支局八戸海事事務所)
- 1945年(昭和20年) 7月14日、八戸市小中野の日東化学工場などで米軍の空襲で被害を受ける。工場内にあった濃硫酸のタンクが爆撃で破壊され、何名かの工員があふれ出した濃硫酸で体が全て溶けて、めがねと革製品しか残されなかったという痛ましいものだった
[編集] 旧八戸市(戦後)
- 1950年代
- 1951年(昭和26年) 八戸港が重要港湾に指定される
- 馬淵川改修事業が完了。馬淵川改修により蛇行が激しく流量が多かったが大幅に改善される。以前は河口部分で馬淵川が湾曲し新井田川と合流して太平洋に注ぎ込んでいた。この改修事業で臨海地域を工業地帯として利用可能になった。
- 1952年(昭和27年) 出入国港に指定される
- 1953年(昭和28年) 八戸港港湾管理事務所が設立される
- 1954年(昭和29年) 白銀A岸壁(-9m)に着工する(昭和37年供用)
- 1956年(昭和31年) 八戸市が1億4000万円に及ぶ債務超過で地方財政再建促進特別措置法の適用を受ける
- 河原木三角州地帯の臨海工業用地が完成する
- 1958年(昭和33年) 東北初の火力発電所が操業。三八城病院を買収し八戸市立市民病院を開設
- 1959年(昭和34年) 八戸市が1億4000万円の債務履行を完了させる(通常の予算編成が復帰)
- 植物検疫港に指定される
- 函館検疫所八戸出張所が設置される
- 第二魚市場が開設される(江陽四丁目)
- 1960年代
- 1960年(昭和35年) チリ地震津波で八戸市沿岸部に被害。旧八戸市庁舎が竣工
- 八戸港が特定第三種漁港に指定される
- 1961年(昭和36年) 白銀町大火(1,043棟焼失)
- 1962年(昭和37年) 青森労災病院が開設する
- 1963年(昭和38年) 国立八戸工業高等専門学校開校。八戸市体育館が完成
- 1964年(昭和39年) 八戸地区新産業都市の指定を受ける。後年には製紙業、非鉄金属工業などの工場が相次いで進出し、工業港としての整備が本格化。
- 仙台入国管理事務所八戸港出張所が設置される
- 八太郎北防波堤に着工する(平成11年完成 L=3,500m)
- 1965年(昭和40年) 木材輸入特定港に指定される
- 東北電波管理局八戸出張所が設置される
- 1966年(昭和41年) 八戸港水揚高日本一の記録樹立
- 1968年(昭和43年) 八戸港水揚高三年連続日本一
- 十勝沖地震が発生し被害を受ける(死者19名、負傷者 305人、 被害総額 170億円)
- 1969年(昭和44年) 公害問題が発生。魚の大量死、小中野ぜんそく、前沖の異臭魚など問題になる。これを受けて、昭和50年代に公害防止計画の策定、公害健康被害者救済制度の創設等の対策が行われた。
- 1970年代
- 1971年(昭和46年) 八戸市で都市計画決定。市街化区域(約4,435ha) 及び市街化調整区域(約16,813ha)に区分される。
- 八戸港が植物輸入特定港に指定される
- 横浜植物防疫所塩釜支所八戸出張所が設置される
- 第二工業港が開港する
- 1973年(昭和48年) 「住居表示に関する条例」を制定。「○丁目」の表記になる。市内の市街化区域(1632ha)に適用され、根城・類家・沼館・江陽・柏崎・小中野・城下・三八城・吹上及び長者の一部・売市・白銀・鮫・湊地区の住所が現在の形に変更された。
- 1973年(昭和48年) 馬淵大橋(国道45号バイパス) が開通
- 1976年(昭和51年) 八戸大橋が開通(昭和51年暫定供用、昭和55年全線開通 L=1,323.7m)
- 中央防波堤に着手する(平成18年3月までにL=2,196m概成)
- 1977年(昭和52年) 国鉄八戸線、本八戸駅から小中野駅間の高架開通(地方支線では全国初)。
- 1978年(昭和53年) 八戸港水揚高日本一記録(4回目)
- 根城大橋が開通
- 八戸~室蘭間のカーフェリーが就航する(平成18年に休止)
- 八太郎トンネルに着工する(昭和58年暫定供用、昭和60年全線供用)
- 1987年(昭和62年) 八戸市弓道場が完成
- 1980年代
- 1980年(昭和55年) 国道45号「塩町トンネル」開通
- 1981年(昭和56年) 八戸大学開学。
- 1982年(昭和57年) 八戸飼料コンビナートが操業開始する
- 1983年(昭和58年) 八戸市博物館完成
- 1984年(昭和59年) 八戸市立図書館開館。
- 1985年(昭和60年)八太郎1号ふ頭D岸壁(-13m)が供用される
- 1986年(昭和61年) 八戸市美術館完成
- 1987年(昭和62年) 中央第二防波堤に着工する(平成18年3月までにL=1,100m概成)
- 1988年(昭和63年) ポートアイランド第Ⅰ期工事に着手する(全体85haのうち第Ⅰ期 A=35ha)
- 1989年(平成元年) 東北縦貫自動車道八戸線が八戸ICから埼玉県浦和ICまで接続
- 1990年代
- 1991年(平成3年) 八太郎2号ふ頭H・I・L・M岸壁(-7.5m)が供用される
- 八太郎3号ふ頭緑地が供用される
- 1993年(平成5年) 八戸港が動物検疫港に指定される
- 八太郎4号ふ頭P岸壁(-12m)が供用される
- 八戸港の外航船入港が1万隻を達成する
- 1994年(平成6年) 三陸はるか沖地震が発生。死者2人、負傷者720人、被害総額613億円。鉄道、道路、橋梁、港湾、学校、市庁舎、市民病院など大きな被害を引き起こした。
- 1996年(平成8年) 河原木2号ふ頭A岸壁(-14m)が供用される
- 輸入促進地域(FAZ)に指定される
- 1997年(平成9年) 八戸市立市民病院が田向地区に移転
- 中国コンテナ定期航路が開設される(平成11年に休止)
- シーガルブリッジが竣工。ポートアイランドに初めて橋がかかる。
- 1998年(平成10年) FAZ基盤施設(貿易センター、国際物流ターミナル)が完成する
- 韓国コンテナ定期航路が開設される
- 北米コンテナ定期航路が開設される
- 1999年(平成11年) 横浜港との内航フィーダーコンテナ定期航路が開設される
- 2000年代
- 2000年(平成12年) ポートアイランド第Ⅱ期工事に着手する(廃棄物埋立処分場としてA=21ha)
- 2001年(平成13年) 八太郎2号ふ頭J岸壁(-13m)が供用される
- コンテナターミナルが移転する
- 2002年(平成14年) 東北新幹線八戸駅開業、青い森鉄道が運行開始する。それに伴い八戸駅西区画整理事業、都市計画道路3・4・26号開通、都市計画道路3・4・21号田面木線開通など八戸駅南北線周辺整備が進行する。
- 2002年(平成14年) イトーヨーカドー八戸店の撤退決定。中心市街地の空洞化が一層深刻になる。
- 八戸港のガントリークレーンが2基体制となる
- 2003年(平成15年) 八戸屋台村が三日町と六日町で全面オープン
- 八戸市南郷区に建設された世増ダムが計画から30年を経て竣工
- 総合静脈物流拠点港(リサイクルポート)に指定される
- 耐震強化岸壁(八太郎N岸壁)が供用される
- 河原木1号ふ頭緑地が供用される
[編集] 八戸市(平成の大合併後)
- 2005年(平成17年) 三戸郡南郷村と合併。八戸市南郷区とする
- 東京港との内航フィーダーコンテナ定期航路が開設される
- 白銀ボートパークが供用される
- 沼館緑地公園が供用される
- 2008年(平成20年)7月24日 - 午前0時26分の岩手県沿岸北部地震で、八戸市内丸と八戸市南郷区で震度6弱,八戸市湊町で震度5強。八戸市島守で震度5弱を観測した
[編集] 行政区の沿革
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制により三戸郡八戸町となる
- 1901年(明治34年)7月1日 - 三戸郡長者村を合併
- 1929年(昭和4年)5月1日 - 三戸郡八戸町・小中野町・湊町・鮫村が合併し、八戸市誕生。
- 1942年(昭和17年)4月1日 - 三戸郡下長苗代村を編入。
- 1954年(昭和29年)12月1日 - 三戸郡是川村を編入。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 三戸郡館村、上長苗代村、市川村を編入。
- 1955年(昭和30年)10月20日 - 三戸郡豊崎村を編入。
- 1958年(昭和33年)9月10日 - 三戸郡大館村を編入。
- 2005年(平成17年)3月31日 - 三戸郡南郷村を編入。
[編集] 人口
(昼間人口・常住人口・流入人口・流出人口・常住人口100人あたりの縦貫人口のデータは平成17年度10月1日現在のもの。旧南郷村と合併後の数値。)[19] |
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八戸市は若年人口の割合が減少しており、緩やかに65歳以上の人口が割合を増やしている。進学や就職、転勤とも併せて、年度末にあたる3月、4月には約4,000人が流出している。近年は、3月、4月に差し引き約1,000人総人口が減少する傾向がある。年間総数では転入が7,184人、転出が8,828人で傾向は八戸市のHPに統計が記載されてる平成7年度から年々転出が転入を上回る数が拡大している。
八戸市民は進学先や就職先が八戸市以外であることが多く、18歳(進学・就職期)の人口流出が顕著であり、22歳時(就職期)の人口流出がその次に多い。
下記の表は平成19年度の八戸市の転出・転入を都道府県別に示したものである。
| 転出先
ランキング |
都道府県 | 転出 | 転入 |
|---|---|---|---|
| 1 | 青森県内 | 2,644人 | 2,901人 |
| 2 | 東京都 | 1,014人 | 408人 |
| 3 | 宮城県 | 905人 | 681人 |
| 4 | 岩手県 | 784人 | 780人 |
| 5 | 神奈川県 | 610人 | 360人 |
| 6 | 千葉県 | 420人 | 277人 |
| 7 | 北海道 | 399人 | 337人 |
| 8 | 埼玉県 | 362人 | 219人 |
| 9 | 秋田県 | 198人 | 162人 |
| 10 | 愛知県 | 179人 | 78人 |
| 11 | 福島県 | 177人 | 119人 |
| 12 | 栃木県 | 135人 | 40人 |
| 13 | 国外 | 119人 | 80人 |
| 14 | 茨城県 | 101人 | 80人 |
[編集] 経済
[編集] 概況
八戸市は日本を代表する港町であり市内に八戸漁港をはじめとする6つの漁港を有しており、イカ、秋刀魚、鰯などを中心に水揚げがされ全国に出荷されている。また、当市は工業都市であり、工場労働者数や工業製品出荷額が北東北の中でも最も高い。さらに、第3次産業については年間小売販売額は横ばいであるが、八戸都市圏を含めを広範囲の商圏を持っている。
一方では高い失業率や一人あたりの所得額の低さなど全国平均に比べ格差が生じているといった問題も抱えている。[22]
- 完全失業率:9.15% (若年層:12.84%)(高齢者:7.94%)
- 労働人口:124,758人(2005年) 増加率:-3.1%(2004年度比)
- 一人当たり市民所得:233.9万円(2004年) 増加率:-2.1%(2003年比)[23]
- 産業活動別の生産額[24]
- 農業産出額........154.9億円(全国87位)(2005年)
- 工業製品出荷額....4507.4億円(全国151位)(2004年)
- 卸売業年間販売額....5228億円(全国71位)(2004年)
- 労働力人口
- 就業人口構成
- 第1次産業4.2%
- 第2次産業23.8%
- 第3次産業71.6%
[編集] 産業立地と都市構造
- 業務・商業地
- 流通・工業地区
- 八戸北インター工業団地・タウンセンター|八戸ニュータウン内、八戸港背後地、桔梗野工業団地、八戸総合卸売センター|など
[編集] インフラ整備の状況
- 下水道普及率:43.3%(平成19年度末)[26]
[編集] 第1次産業
八戸市の第1次産業部門は、沿岸部は水産業、内陸部は農業や林業が盛んである。
水産業は2007年(平成19年)の水揚高が数量が146,385トンで全国第3位、金額が244億4,163万円で全国第8位を誇っている。八戸市は水産都市として八戸港などの基盤整備が進められ、豊漁などもあり1956年(昭和31年)から1958年(昭和33年)にかけて3年連続して水揚げ日本一を記録するな