オリックス・バファローズ
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オリックス・バファローズ(Orix Buffaloes)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。大阪府を保護地域とし、府内大阪市西区にある大阪ドーム(京セラドーム大阪)を専用球場(本拠地)、兵庫県神戸市須磨区の神戸総合運動公園野球場(スカイマークスタジアム)を準本拠地としている。
同球団の二軍(ウエスタン・リーグ所属)の球団名はサーパス。本拠地は兵庫県神戸市北区にある北神戸田園スポーツ公園野球場(あじさいスタジアム北神戸)で、同市須磨区に練習場と合宿所が設けられている。
2004年シーズン終了後、当時パシフィック・リーグに加盟していた大阪近鉄バファローズと合併、旧オリックス・ブルーウェーブが存続球団となり、2005年シーズンから現在の球団の形となった。このページで取り上げる球団の歴史や各種チーム記録等は存続球団の阪急→オリックスの分について触れるが、解散球団の大阪近鉄のそれらについては大阪近鉄バファローズの項目を参照。
| オリックス・バファローズ | |
|---|---|
| チーム名 | オリックス・バファローズ |
| 会社名 | オリックス野球クラブ株式会社 |
| 加盟団体 | パシフィック・リーグ |
| 創設年度 | 1936年 |
| チーム名の遍歴 | 阪急軍(1936年 - 1946年) →阪急ベアーズ(1947年) →阪急ブレーブス(1947年 - 1988年) →オリックス・ブレーブス(1989年 - 1990年) →オリックス・ブルーウェーブ(1991年 - 2004年) →オリックス・バファローズ(2005年 - ) |
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フランチャイズ
の遍歴
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兵庫県(1952年 - 2004年)→大阪府・兵庫県(2005年 - 2007年)→大阪府(2008年 - ) |
| 本拠地 | 京セラドーム大阪 |
| 収容人員 | 36477人 |
| オーナー | 宮内義彦 |
| 運営母体 | オリックス |
| 監督 | 大石大二郎 |
| タイトル | リーグ戦:12回、日本シリーズ:4回 |
| 優勝年度 | (リーグ戦) 1967、1968、1969、1971、1972、1975、1976、1977、1978、1984、1995、1996 (日本シリーズ) 1975、1976、1977、1996 |
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プレーオフ
(前後期制)
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5回 - 2勝3敗(太字は勝利した年、斜体は後期優勝) 1973、1974、1975、1977、1979 |
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クライマックス
シリーズ
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1回 - 0勝1敗(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) 2008 |
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 略称 | オリックス・バファローズ、バファローズ |
| 本社所在地 | 〒530-0023 大阪府大阪市北区堂島1-5-17 堂島グランドビル8階 |
| 設立 | 1936年(阪急軍として) |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | プロ野球興行 |
| 代表者 | オーナー 宮内義彦 社長 小泉隆司 球団代表 機谷俊夫 |
| 主要株主 | オリックス |
| 外部リンク | オリックス・バファローズ |
| 特記事項:1936年に大阪阪急野球協会として設立、1988年にオリックスに球団譲渡。 | |
目次 |
[編集] 球団の歴史
サブ本拠地・スカイマークスタジアム(神戸総合運動公園野球場)
[編集] 西宮時代
[編集] 阪急軍時代
- 1936年阪神急行電鉄(現・阪急阪神ホールディングス)が大阪阪急野球協会(おおさかはんきゅうやきゅうきょうかい)を設立し球団名阪急職業野球団(はんきゅうしょくぎょうやきゅうだん、阪急軍とも)が発足(阪急の小林一三社長が、阪神電気鉄道の球団大阪タイガースに対抗し結成した。企業名を冠する最初の球団であった)。六大学野球のスター選手である山下実、宮武三郎らを集めて結成し、本拠地を暫定的に宝塚球場とした。なお、阪急はこれ以前に宝塚運動協会というプロ野球チームを所持していた[1]。
- 1937年阪急西宮球場完成に伴い西宮に移転。
- 戦前は優勝に届かなかったが、戦中にあってもチーム体勢を大きく崩すことなく終戦を迎え、1946年のリーグ戦再開には参加。
[編集] 低迷期
- 1947年のニックネーム導入に際し、まず「熊」をイメージした阪急ベアーズ(Bears)と改称するが、オープン戦で負けが続き、bearに「(株式用語で)弱気、売り方」という意味があることも判明、縁起をかつぐ意味もあって4月18日に阪急ブレーブス(Braves)と改める。「ブレーブス」のニックネームは公募で決まったが、これはアメリカメジャーリーグのボストン・ブレーブスに由来している。こちらの意味は“勇者”。
- 1949年オフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。ところがこの時に2リーグ分裂の混乱に乗じた宇高勲による引き抜き等により、エース今西錬太郎、1・2番打者の平井三郎・宮崎剛、さらには捕手の日比野武・楠協郎・永利勇吉を全員他球団に奪われ、苦難の道を歩むことになる。
- 1952年、阪急西宮球場にナイター照明設備を完成。当時のユニフォームが黒地に白のペンストライプというデザインだった上にナイトゲームに強かったことから「夜の勇者」という異名をとった。
- 1953年、ルーファス・ゲインズ、ラリー・レインズ、ジョン・ブリットンの3外国人の活躍もあり、夏場に10連勝する等「夜の勇者旋風」を巻き起こし、2リーグ分裂後初のAクラス(2位)につけた。
- 1954年、監督が西村正夫に交代。このころより、梶本隆夫('54年入団)、米田哲也('56年入団)という名投手2人を擁し、河野旭輝・ロベルト・バルボンの2人で5年連続盗塁王を独占('56~'60)したものの、チームは低迷し「灰色カラー(灰色の時代)」と言われた。
- 1963年、西本幸雄が監督に就任するが、球団史上初となる最下位に転落した。
[編集] 黄金時代
- 1967年、西本幸雄監督の下で長池徳士、ダリル・スペンサー、足立光宏らが活躍、リーグ初優勝。
- 1967年~1969年、1971年、1972年と5度優勝するがV9に突き進む読売ジャイアンツ(ON率いる川上巨人)を倒すことができなかった。
- 1975年
- 2シーズン制で、阪急は前期優勝、後期最下位という成績。プレーオフで近鉄バファローズを3勝1敗で下したものの通年成績は64勝59敗7分、勝率.520で史上最低勝率でのリーグ優勝となった(それまでの最低記録は1973年読売ジャイアンツの66勝60敗4分、勝率.524)。
- 日本シリーズに出場し上田利治監督の下、山口高志、山田久志、加藤英司、ボビー・マルカーノ、バーニー・ウィリアムス、福本豊らの活躍でセ・リーグ優勝チームの広島東洋カープを4勝2分け無敗で下し、初の日本一に輝く。このシリーズでMVPに輝いた山口高志の剛速球はプロ野球史上最も打ちにくい球だったと言われ、現在でも語り草になっている。それ以降、1977年まで3年連続日本一、1978年まで4年連続リーグ優勝を達成。「王者ブレーブス」と呼ばれ球団の黄金期となる。
- 1976年
- 1977年
- 前期は優勝。後期は追い上げわずかに及ばずロッテオリオンズに0.5ゲーム差の2位だったがプレーオフを3勝2敗で制しリーグ3連覇。
- 2年続けての対戦となった読売ジャイアンツとの日本シリーズでは力の差を見せつけ4勝1敗で圧倒した。球団がオリックス・ブルーウェーブとなった後の1996年も含め、「長嶋ジャイアンツ」とは日本シリーズで3度対戦し、いずれも勝利を収めている。
- 1978年
- 1979年
- 1981年、日本では日本ハムファイターズの「ギョロタン」に次いで2番目となる球団マスコットキャラクターの「ブレービー」(背番号:100)が登場。ファンサービスに努めたが、観客動員は伸び悩み、チームの強豪振りとは反対に、球団経営は悪化した。
- 1982年、阪急西宮球場のスコアボードが関西初の電光掲示板となり「アストロビジョン」として親しまれた。
- 1984年
- 1986年、球団創立50周年を迎え、ファンサービスの強化や戦力の充実により観客動員が伸び、関西パ・リーグ球団で初めて100万人を超える動員(114万5000人・球団発表)を記録した。惜しくも優勝は逃したが、ストッパーとして活躍したアニマル・レスリーが咆哮パフォーマンスで全国的な人気を集めた。
- 1988年10月19日、阪急電鉄がオリエント・リースへの球団譲渡を発表。黄金期を支えた福本、山田もこの年限りで引退した。この時、小林公平は「(阪急電鉄として)プロ野球チームを持つ使命を終えた」とコメントした。球団譲渡した最大の理由は西宮北口駅前・梅田阪急村の再開発を迫られた為と言われている。ちなみに、阪急電鉄はのちに阪神電鉄との経営統合により、再び球団(阪神タイガース)を傘下に持つことになる(この時、経営母体の変更に伴って「新規加盟」扱いとなり、保証金の供託を求められた)。
- 1989年
- チーム名をオリックス・ブレーブスに改称。オリックスブルーとブレーブスゴールデンイエローを基調にしたユニフォームとなる。阪急側からの球団譲渡の条件を満たすため、その後2年間は「ブレーブス」の愛称と阪急西宮球場の使用が継続された。
- 1988年に完成した神戸総合運動公園野球場(グリーンスタジアム神戸)を準本拠地とすることも発表された。完成した1988年は5月の対南海ホークスとの1試合のみだった主催試合がこの年は14試合、1990年も13試合組まれた。当初1989年はダイエー戦は13試合を全て神戸で行う予定だったが、雨天中止のため2試合は西宮で行われた。
- 南海から移籍の門田博光を加えたブルーサンダー打線がチームを引っ張ったが、優勝した近鉄にゲーム差なしの2位となった。
[編集] 神戸時代
- 1991年、神戸に本拠地を移し、一般公募により愛称をブルーウェーブ(Blue Wave)に変更。他にも上田利治の監督退任など「脱阪急」色が進む(上田の後任監督は神戸出身の土井正三)。
- 1992年、田口壮、イチローが入団。後の黄金時代への礎となった。ただ両者ともに土井正三監督の指導方針との折り合いが著しく悪かったため、実力を発揮するのは数年後になる。ただイチローに関しては野手が高卒後2年間で即結果を残すことは野球界において一般的では無いので一概にそうとは言い切れない部分もある。
- 1994年、仰木彬が監督に就任。名将の就任と有望な若手選手の台頭でチームには明るいムードが漂った。イチローが高卒3年目、初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立、当時のパ・リーグ新記録となる打率.385を記録(その後2000年に自らが更新)。このイチローの活躍は社会現象にまでなり、その功績に対してオフには正力賞が贈られた。イチローフィーバーに後押しされたチームは優勝争いにも加わり(最終順位は2位)観客動員も球団新記録を大幅に更新した。
- 1995年
- 1月17日、阪神・淡路大震災が発生。一時は神戸での試合開催は不可能かとも言われた。しかし球団を挙げて被災地復興の一躍を担いたいという強い思いのもと、神戸でのペナントレース実施に踏み切った。準備不足が懸念されたものの、「がんばろうKOBE」を合言葉に戦いを挑むチームは目の色が違った。
- 4月19日、野田浩司が一試合奪三振19の日本新記録を達成。
- 6月には月間20勝を超える躍進を見せ、ペナントレースは独走状態となる。7月末に早くもマジック点灯。前年までの覇者西武には直接対決15連勝を記録し、対戦成績では大きく勝ち越した。
- 8月26日、佐藤義則が近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)において史上最年長でのノーヒットノーランを記録。
- 「マジック1」とした後の地元神戸での4連戦に全敗し、念願の地元胴上げはならなかったものの、9月19日には球団譲渡後初のリーグ制覇を実現した。日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗で敗れる
- 被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援によりチームを支えた。この年の「神戸」と「ブルーウェーブ」の関係は、ホームタウンとプロスポーツチームの理想的な関係として各方面で取り上げられた。
- 1996年は日本ハムに先行を許し、8月前半には5ゲーム差をつけられたものの、覇者の貫禄を見せて9月上旬には逆転、9月23日の日本ハム(グリーンスタジアム神戸)との直接対決にイチローのサヨナラ安打で勝利を収めてリーグ2連覇、「神戸での胴上げ」を実現した。日本シリーズでも巨人を4勝1敗と圧倒し、地元神戸で日本一に輝いた。観客動員数は過去最高の179万4000人を記録。
- 1998年、この年のドラフト会議で、「ダイエー以外の指名ならば大学へ進学する」と意思表明していた沖縄水産・新垣渚に対して1位指名を強行、当時の福岡ダイエーホークスと競合の末に交渉権を獲得。新垣側は入団拒否を言明してオリックス球団側の担当スカウトだった編成部長三輪田勝利の接触すら拒むなど難航を極めた。この状況を当時のオリックス球団社長だった井箟重慶など球団上層部が厳しく叱責した結果、ケアのしようがないほど精神的に追い詰められた三輪田が11月27日に那覇市内で投身自殺に追い込まれる事件を引き起こしてしまう(遺書はなかったが、これらの事情から三輪田の死は職務遂行上の自殺であったと断定され、翌1999年に労災認定が認められた)。
- この時、井箟は三輪田の自殺を受けての記者会見の席上で「球団に責任があったとは思っていない」と暴言を吐いて大きな問題となり、激しい非難にさらされた。また新垣本人や家族・学校関係者にも痛烈な批判が続出した。
- 2000年
- ファームの収益性改善・独立採算を目指し、ファームのチーム名をサーパス神戸に改称する。
- 4位に終わり、12年ぶりのBクラス転落を喫する。シーズンオフにイチローがアメリカメジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。これ以降、主力選手の流出が相次ぎ、チームは急速に弱体化の一途を辿る。
- 2001年、またしても4位に終わり、本年を以て仰木が勇退。また、「イチロー後」を担える存在が台頭せず、集客力・話題性の低下が露となる。
- 2002年から石毛宏典が監督に就任する(就任直後のドラフト会議では同監督は「ドラフト会議はフロントの仕事である」という本人の意向により会議を欠席する)が、1年目はチーム打率.235と投高打低に陥り、阪急時代以来の39年ぶり2度目の最下位。
- 2003年
- 石毛を早々と解任し、レオン・リーを監督に据えるが今度は投手陣が壊滅し、福岡ダイエーホークス戦で20失点以上を4度記録するなど、プロ野球史上最多の927失点(自責点818点)、チーム防御率も5.95を記録し2年連続最下位となる。規定投球回数到達者もゼロだった。
- 本拠地・グリーンスタジアム神戸が国内初のネーミングライツ(特定企業に施設の命名権を与えるシステム)を導入。情報通信会社のソフトバンクが命名権を取得し、Yahoo!BBスタジアムに改称される。
- 2004年
[編集] 合併後
- 2004年
- 12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、オリックス・バファローズとなった。球団の出資比率はオリックス80%、近鉄20%となる(合併発表から合併調印までの経緯についてはプロ野球再編問題を参照)。同時に近鉄球団職員の多数と選手の約半数を引き継ぎ、残りの半数を東北楽天ゴールデンイーグルスに譲渡している。
- 近鉄との合併に伴い、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの本拠地である兵庫県と、近鉄の本拠地だった大阪府のダブルフランチャイズの形が取り入れられた。この為球団事務所と合宿所は、引き続いて神戸市に置くことになった(球団事務所は2006年オフに大阪市に移転した)。
- ホームグラウンドは従前からのYahoo!BBスタジアム(神戸市)に、近鉄の本拠地だった大阪ドーム(大阪市)が加えられた。チームは専用球場(プロ野球協約に定めたメインホーム)を大阪ドームとし、同じく神戸も本拠地に据えながら、両球場共に30試合余りを開催。2005年、Yahoo!BBスタジアムはネーミングライツ契約切れと、Yahoo!BBの親会社であるソフトバンクの福岡ダイエーホークス買収を機に再改称。スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)が新たに命名権を取得し、スカイマークスタジアムに改められた。
- 2005年
- 合併によるチーム力の底上げや仰木の復帰により、チームの成績は前年最下位から、シーズン終盤ギリギリまでAクラス争いをしたものの結局4位でシーズンを終え、プレーオフ進出を逃がす。
- 仰木は健康面の問題から1年で退任し、シニアアドバイザー(SA)に就任(12月15日に70歳で逝去)。2006年から中村勝広GMが監督に就任。中村は監督専従となり、GM職は当面空席となる。GMから監督になるというケースは球界史上初めてである。
- 12月19日、プロ野球実行委員会はオリックスの専用球場を2006年度からスカイマークスタジアムに変更する事を承認した。しかし、大阪ドームとのダブルフランチャイズの変更はせず、双方の球場で34試合ずつを主催する。その後オリックス(正式には子会社のオリックス不動産)が大阪ドームの施設を買収する方針を固めた。
- 2007年
- 協約上はダブルフランチャイズ制であったが、京セラドーム大阪を専用球場とし、大阪48試合、神戸22試合(他東京ドーム遠征2試合)を開催。
- 1月6日 前川勝彦が大阪市内で女性をひき逃げし、さらに無免許(過去にスピード違反で免許取り消しになっていた)であったことが発覚、業務上過失傷害と道路交通法違反の疑いで逮捕された。球団は1月18日前川を懲戒解雇処分とし、前川は5月7日懲役2年執行猶予4年の判決を受ける。
- 1月17日 球団と6度に渡る契約更改で交渉決裂した中村紀洋を解雇。他球団のチーム編成も完了した時期に解雇しており、選手会が野球協約に照らし合わせても問題のある交渉ではないかと厳しく糾弾する事態となった。
- 2月20日、一部のスポーツ新聞で近鉄の球団経営への出資が成績に関係なく今季で終了する方針であることと、それに伴い球団がバファローズに変わる新愛称名の検討に入ったと報じられた。
- レギュラーシーズンに入っても、選手起用などで混迷は続いた。4月下旬から5月半ばにかけて17試合で1勝16敗と大きく負け越すなど、優勝争いはおろかAクラス(=プレーオフ進出)争いにすらただの1度も加わる事無く、他のパ・リーグ全5球団に負け越し、合併からわずか3年で最下位に逆戻りした。
- 他球団とのトレード等により入団した鴨志田貴司、長田昌浩、辻俊哉、ダン・セラフィニ(シーズン途中に退団)はおよそ期待外れの結果に終わった。その一方でトレード等により他球団へ移籍した谷佳知、早川大輔、中村紀洋らは移籍先で活躍し、ファンをはじめ、宮内オーナーも球団の編成方針を厳しく糾弾した。
[編集] 大阪時代
- 2008年
- ダブルフランチャイズ制が終了し、大阪府を保護地域とする。また兵庫県を準保護地域とし、ホームゲームを22試合開催した。
- この年、西武ライオンズが球団名に「埼玉」を冠し「埼玉西武ライオンズ」としたことから、パ・リーグでは唯一地域名を伴わない球団となった。
- 1月29日 一度獲得を表明したはずのジェレミー・パウエルをソフトバンクが獲得したと発表。1ヶ月あまりの混乱の末、3月4日、結局パウエルはソフトバンクに入団することとなった。詳しくはジェレミー・パウエル#二重契約問題参照。
- 3月1日 これまで3年間共同出資・並びにユニフォームスポンサー(袖)を結んでいた近畿日本鉄道が経営・ユニフォーム協賛から完全撤退。袖部分のユニフォーム協賛はイー・モバイルが就任することが決まった。
- 5月21日 テリー・コリンズが監督辞任を発表。開幕49試合目での途中退任で、大石大二郎ヘッドコーチが監督代行に就任。(その後、8月2日に監督に昇格)
- 6月3日 対読売ジャイアンツ戦に勝利し、阪急時代も含めて通算4500勝達成。(読売ジャイアンツ・阪神タイガースに次ぐ、日本プロ野球3球団目の達成である。)
- 9月24日 対ソフトバンク23回戦に勝利し、2001年シーズン以来7年ぶり、オリックス・バファローズとしては初めてとなるシーズン勝ち越しが決まる。
- 9月29日 対西武戦に勝利し、初のクライマックスシリーズ進出を決める。
- 大石監督の下、小松聖が実質的満票で新人王に輝いたのをはじめ、近藤一樹、坂口智隆、小瀬浩之等の若手選手が台頭した。投手陣では小松、山本省吾、金子千尋、近藤の4人が二桁勝利を記録し、加藤大輔が最多セーブのタイトルを獲得した。また、アレックス・カブレラ、タフィ・ローズ、北川博敏等の打撃陣も好調で、最大で「11」あった借金を完済。最終成績は75勝68敗1引分、勝率.524で、7年ぶりの勝ち越し、9年ぶりのAクラス、さらには11年ぶりの2位という成績を残した。しかし、クライマックスシリーズでは、第1ステージで北海道日本ハムファイターズに0勝2敗で敗れ、日本シリーズ出場はならなかった。
[編集] チーム成績・記録
- リーグ優勝 12回
- (1967年~1969年、1971年、1972年、1975年~1978年、1984年、1995年~1996年)
- 日本一 4回
- (1975年~1977年、1996年)
- Aクラス 33回
- (1953年、1956年、1958年、1964年、1967年~1969年、1971年~1979年、1981年、1983年~1984年、1986年~1987年、1989年~1999年、2008年)
- Bクラス 37回
- (1936~1943年、1946年~1952年、1954年、1955年、1957年、1959年~1963年、1965年、1966年、1970年、1980年、1982年、1985年、1988年、2000年~2007年)
- 最多勝 88勝(1956年)
- 最多敗 92敗(1963年)
- 最多引分 11分(1971年、1979年)
- 最高勝率 .678(1978年)
- 最低勝率 .353(2003年)
- ※リーグ優勝のうち、1975年、1977年はプレーオフ(1975年は近鉄、1977年はロッテを相手にした)で獲得。1976年、1978年は前後期完全制覇により自動優勝が決まった。
[編集] その他の記録
- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1989年)
- 最大ゲーム差 40.0ゲーム(1959年)
- 最高得点 758点(1985年)
- 最多本塁打 184本(1980年)
- 最小本塁打 3本(1944年)
- 最高打率 .285(1994年)
- 最低打率 .185(1943年)
- 最高防御率 2.57(1940年)
- 最低防御率 5.95(2003年)
[編集] 歴代本拠地
- 1936年 - 宝塚球場
- 1937年~1990年 - 阪急西宮球場
- 1991年~2004年 - 神戸総合運動公園野球場("グリーンスタジアム神戸"(1991年 - 2002年)、"Yahoo!BBスタジアム"(2003年 - 2004年))
- 2005年~2007年 - 大阪ドーム("京セラドーム大阪"(2006年7月 - ))、神戸総合運動公園野球場("スカイマークスタジアム")
- 2008年~ - 大阪ドーム(京セラドーム大阪)
[編集] スポンサー
- オリックス(袖:1989年~、ヘルメット:2000年代の初め)
- イー・モバイル(袖:2008年~)
- 近畿日本鉄道(袖:2005年~2007年)
- アトラス(テレビゲームメーカー)(ヘルメット:2004年~2005年)
- 京セラ(ヘルメット・ユニフォーム:2006年3月~2010年度シーズン終了時まで)
[編集] 歴代監督
太字は優勝達成監督。
- 1936年~1937年 - 三宅大輔
- 1937年 - 村上実(第1次)
- 1938年~1939年 - 山下実(第1次)
- 1939年 - 村上実(第2次)
- 1940年 - 山下実(第2次)
- 1940年~1942年 - 井野川利春
- 1943年~1947年 - 西村正夫(第1次) ※1
- 1947年~1953年 - 浜崎真二
- 1954年~1956年 - 西村正夫(第2次)
- 1957年~1959年 - 藤本定義
- 1959年~1962年 - 戸倉勝城
- 1963年~1973年 - 西本幸雄
- 1974年~1978年 - 上田利治(第1次)
- 1979年~1980年 - 梶本隆夫
- 1981年~1990年 - 上田利治(第2次) ※2
- 1991年~1993年 - 土井正三 ※3
- 1994年~2001年 - 仰木彬(第1次)
- 2002年~2003年 - 石毛宏典
- 2003年 - レオン・リー
- 2004年 - 伊原春樹
- 2005年 - 仰木彬(第2次) ※4
- 2006年 - 中村勝広
- 2007年~2008年 - テリー・コリンズ ※5
- 2008年 - 大石大二郎 ※6
- ※1 ここから阪急ブレーブス
- ※2 ここからオリックス・ブレーブス
- ※3 ここからオリックス・ブルーウェーブ
- ※4 ここからオリックス・バファローズ
- ※5 2008年5月21日まで指揮、残り試合は大石大二郎が代行(8月1日まで)
- ※6 2008年8月2日より監督に昇格
[編集] 永久欠番
- 無し
[編集] 準永久欠番
- 51:イチロー
[編集] 歴代の球団歌・応援歌
- 阪急軍
- 阪急の歌
- 阪急ブレーブス
- オリックス・ブレーブス
- オリックス・ブルーウェーブ
- 輝け潮流 - 穏やかなメロディでおよそ応援歌らしくなかったが、ラッキーセブンの際には応援団がトランペット演奏していた。
- ビクトリーマーチ(歌:マリンサイド・ウォーカーズJR.) - 2000年以降、ラッキーセブンの際に場内に流された。
- リトル☆ネプチューン(歌:マリン・ウォーカーズ)- 試合開始前と勝利試合のヒーローインタビュー後に流された。爽やかな曲調は神戸の風土に合っており、ファンに親しまれた。
- オリックス・バファローズ
- SKY(歌:MEGA STOPPER) - 7回裏攻撃前と試合に勝利した後流れる。
- PLAY BALL(歌:MEGA STOPPER) - 試合開始前に流れる(2005年上半期に使用)MEGA STOPPERの作詞作曲したPLAYBALLは2006年シーズンから採用されており、05年シーズン(歌:OUTSIDE SIGNAL)のものとはまったく異なっている。
- BLUE SPIRITS-蒼きフィールドの戦士たち-(歌:OBSOUL) - 2005年3月発表。主に試合開始前に、ネッピーとリプシーのダンスソングとして使われていた。
- ウイニングラン(歌:Queen's Tears Honey) - 2006年下半期より使用
- Bop!!(歌:MEGA STOPPER) 2006年シーズンから使用されたオリックスバファローズ第5の公式応援歌 「暁の大空」から始まる曲は何処となく神戸を意識した曲になっているが、球団が使っている映像などでは道頓堀リバープレスや通天閣でのロケが行われている。
[編集] チームの特徴
[編集] 球団名
- 戦前の阪急軍の球団旗はキャッチャーミットとボールが描かれており、ミットに「OSAKA(大阪)」と「NIPPON(日本)」、ボールに「HANKYU(阪急)」と書かれていた。戦時中は英語禁止令が出たため、阪急に対しても球団旗のデザイン変更命令が出されたが、阪急は「『OSAKA』『NIPPON』『HANKYU』はローマ字であって、英語ではない」と拒絶した。この球団旗は愛称がブレーブスになるまで使用された。
- 1991年に球団が神戸へ移転するに当たり、愛称公募が行われた。当時の新聞報道によれば、「ゴッドドアーズ」など駄洒落も多かったが、最も多くファンから寄せられた愛称は「ブルーサンダー打線」に引っ掛けた「サンダーズ」だった。しかし、球団側は結局この名称を採らず、公募とは脈絡のない「ブルーウェーブ」に決定。このため、ファンやマスコミから「決定事項の出来レースだったのではないか」との声も多く挙がり、またこれと併せて、当時の報道として「球場(グリーンスタジアム)は山の中にあるのに、何故「ブルーウェーブ=青い波」なのか?」との多数のファンの意見も伝えられていた。
- 2008年から西武ライオンズが球団名を「埼玉西武ライオンズ」に変えたため、パ・リーグの球団で唯一、球団名に地域名のつかない球団となった。
- ブレーブス時代はアルファベットでの略称を「B」としていた。後に近鉄パールズが近鉄バファロー(1959年 - 1961年)→バファローズ(1962年 - 2004年)となった際に「B」で始まる球団名が重複することになったが、この際は後発の近鉄が「Bu」とアルファベット2文字の略称を使用していた。その後、1991年にオリックスがブルーウェーブへ改称した際に「BW」と2文字の略称へ変更。現在は近鉄が使用していた「Bu」の略称は引き継がず「Bs」としている。なお、1993年に横浜大洋ホエールズより改称したセ・リーグの横浜ベイスターズは「BS」でなく「YB」である。
[編集] ファンと球団
- 関西地区には阪急時代から常に複数球団が存在したため、当時より人気の低迷に悩まされてきた。特に阪神タイガースとは本拠地が同じ西宮市であり、この事や阪神偏重の在阪スポーツ紙の姿勢も追い討ちをかけるような状況であった。「パ・リーグ加盟当初は南海」、「テレビ中継の開始以降は阪神」といった両雄の陰に隠れ、黄金時代であっても人気が伸び悩み、山田久志、ブーマー・ウェルズ、福本豊といった球史に残る選手を輩出しても人気獲得にはつながらなかった。 しかし数では多くなかったものの、ファンは関西での「阪急」の持つステータスやスマートなチームカラーに強い誇りを感じており、関西他球団のファンとは異質の愛着や温かみが特色となっていた。
- 阪急創始者の小林一三及び一三の三男で後にオーナーを務めた小林米三は、同じ阪急グループの宝塚歌劇を「娘」、ブレーブスを「息子」と並び称して愛着を示していた。しかし、ともに赤字経営となっていき、球団末期にはグループ内ですら、歌劇の「じゃじゃ馬娘」と併せて「どら息子」と陰で呼ばれるようになっていた。身売り時の阪急社長・小林公平は、文化人肌で、宝塚歌劇には愛着を持っていたが、ブレーブス=野球は嫌っていたとされる(公平は創業家・小林家の実子ではなく、三菱グループと親密な三村家からの婿養子である)。同じく阪急資本の東宝の「東宝チャンピオンまつり」などでも、阪急ナインのスポットニュースが番組に挿入されることはあったが、メインのプログラムの題材には読売ジャイアンツが使われるなど、グループが擁する映画・テレビ会社が活用されることも少なく、冷遇されていた。
- ブルーウェーブ時代は本拠地を神戸に移したことで、地元神戸に根ざした球団運営が期待された。1994年以降、イチローの活躍や、「がんばろうKOBE」に代表される阪神・淡路大震災を契機とした神戸市民の連帯感が追い風となり、一時は近接する阪神タイガースを凌駕するほどの注目度と人気を集めた。しかし球団名に「神戸」の文字を入れないなど、地域密着に消極的な姿勢が見られた事や、世界記録を樹立した福本豊の背番号を永久欠番にしないなど、前身である阪急ブレーブスの歴史の軽視ともとられかねない姿勢やチーム強化・ファンサービスよりも選手を「契約金0円」でドラフト獲得し経費抑制を優先したことなどで、チームの弱体化と共に人気は低下し、後の球団合併を招いた。
- プロ野球再編問題 (2004年)による球団合併後は資本的には存続球団であるが、ブルーウェーブ・旧・大阪近鉄双方のファンより「合併の結果、ブルーウェーブもバファローズも消滅した」と認識されてしまったため合併以降は年々観客数が減り続け、2007年シーズン終了時の観客動員は1試合平均4,650人の減少・前年比18.2%減を記録してしまった。
- この様に、上記の球団合併の経緯と球団の歴史を軽視する経営姿勢[2]が原因でファン離れに歯止めが掛からない傾向にある[3]。以上の通り、現状は阪急と同時期に南海から身売りした福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)と明暗を分ける結果になっている。
- しかし近鉄の人気選手であった大石大二郎が監督に就任して戦績が好転してからは離れていたファンが戻りつつある。
[編集] マスコット
- 1981年から日本ハムファイターズのギョロタンに次いで日本で2番目となる球団マスコット「ブレービー」を採用。阪急西宮球場での試合中、5回裏終了時にスクーターでフィールドを駆けていた。ブレービーは1990年まで使われた。また、1988年にはブレービーの子供として「勇太」が登場したが、同年オフにオリエント・リースに球団が譲渡されたのに伴い、僅か1シーズンのみで消滅した。
- ブルーウェーブとなった1991年からは「ネッピー」(背番号111)が登場。ネッピーは海神ネプチューンの息子で、年齢は13歳という設定。また1999年からは「海賊の娘で、嵐で船が難破して海で遭難していたところをネッピーに助けられた」という設定で、「リプシー」(背番号222)が登場。いずれもデザインは松下進。リプシーの色気には各方面で定評がある。
- ブレービー・ネッピー共に島野修が1998年まで演じていた。
- その他、ブルーウェーブ時代に「ブルーパイレーツ」という海賊4人組のマスコットがいた。
[編集] 応援スタイル
- 阪急時代の応援は、高校野球のようなブラスバンドによる選手別応援歌演奏が特徴となっていた。現在の応援歌にも阪急時代から受け継がれている曲が一部存在する。
- オリックス・バファローズを応援する際は、旧近鉄系の「大阪私設應援團」と旧オリックス系の「神戸蒼誠会」「天体観測」などの私設応援団が先導して行う。ちなみに「天体観測」の名前の由来は「選手がスター(星)になって、遠い存在になっても応援し続ける」というもの。
- 合併以降、ラッパなどの鳴り物の多様化やタオルを使った応援など近鉄のやっていたような激しい応援スタイルに近いものとなっている。また大阪私設応援団が応援の指揮をとることが多いなど、外野スタンドでは旧近鉄ファンの勢力が強くなっている。個人応援歌も近鉄の応援団が加わったのもあり従来のオリックスとは違う、迫力のある激しい応援歌になりつつある。
- 7回の攻撃前に飛ばされるジェット風船は、旧近鉄のチームカラーである赤色のものと、旧時代からのオリックスのチームカラーである青色のものがツートンで使用される。なお、近年では勝利時にも風船を飛ばされることが多くなっている(勝利時も同じく赤・青のツートン)。
[編集] 営業・ファンサービス
- 神戸移転後、プロ野球初の男性DJ(=スタジアムDJと命名され、この言葉が今の場内アナ全般に使われるようになった)DJ・KIMURAを採用、内野グラウンドの天然芝化、内野スタンドのネット撤去、フィールドシートの設置、2004年からは「Take Me Out to the Ball Game」のヤフーBBスタジアム版を演奏など、メジャーリーグのボールパークの雰囲気に近付けるファンサービスを実施したが、観客動員数向上への目立った効果は出なかった(なおフィールドシートの名称が当初「殿馬シート」であったとする俗説があるが、実際には「ドカベン」とのコラボレーションであった「ドカベンチケット」内のみでの名称であり、球場ではこの名称は使用されなかった)。
- 地元大阪と神戸で開く主催ゲーム(オープン戦・公式戦いずれも)では、地元の企業・団体が1シリーズ(2~3連戦単位)で協賛し、球場のスタンド(大阪は2階席のバックスクリーン、神戸は左中間・右中間のバックスクリーン寄り)に「(協賛スポンサー名)シリーズ」の看板を掲げている。
- 大阪・神戸のホームゲームではその試合でオリックスが勝利をした場合、1塁側ベンチからクラッカー(キャノン砲)が発射され、紙テープで祝福するのが恒例となっている。
- 神戸で試合をする場合、5回と6回のイニングスインターバルにアトラクションとして花火ナイターが開かれる。基本的には毎回300発だが、交流戦やシーズン最終戦(神戸での最終戦)など特別な日には「スーパー花火ナイター」としてそれよりも多めに花火を打ち上げる。
- 2005年度から吉本興業と業務提携を結んだ。3月27日の朝日放送「なにわ人情コメディ 横丁へよ~こちょ!」(NGKで3月9日収録)に仰木監督や選手が劇中に出演し、チームをPRした。また3月28日のホームゲーム開幕戦・ロッテ戦(大阪ドーム)では、国歌斉唱をDonDokoDonの山口智充が担当した。この業務提携は2006年度も「よしもとプロデュース・Bsミックスモダン大作戦」として継続。3月31日の関西テレビ「NGKにバファローズがやってきた! ミックスモダン大作戦~結束~」(NGKで3月9日収録)には中村勝広監督・清原和博・中村紀洋らが出演してチームをPR。4月2日の大阪ドーム開幕戦(北海道日本ハムファイターズ戦)では友近が国歌斉唱、また4月4日の千葉ロッテマリーンズ戦では池乃めだかが国歌斉唱、レイザーラモンHGが始球式を行った。
- 2005年8月、魔法戦隊マジレンジャーとのコラボレーション企画が実施。これは仰木彬監督の采配が「仰木マジック」とマスコミに称されていたことと、マジレンジャーが様々な魔法を使って悪を退治していくという物語のつながりから実現したもので、マジレンジャーの映画化記念イベントを兼ねて企画された。
- 2006年7月からはJ1ガンバ大阪と連携。2006年には宮本恒靖(現ザルツブルク)と清原和博のポスターやグッズを合同で作製したり、オリックスの試合で宮本が始球式、ガンバの試合で吉井理人と