定山渓温泉
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| ♨定山渓温泉 | |
|---|---|
冬の温泉街(2004年12月)
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| 温泉情報 | |
| 所在地 | 北海道石狩支庁管内札幌市南区 |
| 交通アクセス | バス-札幌駅バスターミナルよりじょうてつバス7・8番「定山渓車庫前」または豊平峡温泉行きに乗車(約70分) 札幌市営地下鉄南北線真駒内駅よりじょうてつバス12番「定山渓車庫前」行きに乗車(約50分) |
| 泉質 | 塩化物泉 |
| 宿泊施設数 | 24 |
| 年間浴客数 | 239万9千人 人 |
| 統計年度 | 2003年度 年度 |
| 外部リンク | 定山渓観光協会 |
定山渓温泉(じょうざんけいおんせん)は、北海道石狩支庁管内札幌市南区(旧蝦夷地、明治以降の旧石狩国)の定山渓温泉地区にある温泉。「札幌の奥座敷」とも呼ばれている。
古くアイヌに知られ、江戸時代には通行した日本人が入り、1866年に美泉定山が温泉宿を開いた。1918年に定山渓鉄道が通ったことで発展した。
札幌の至近にある温泉で、市内の人々のほか、札幌観光の一環として多くの道外や外国からの観光客が利用する。札幌市の調べによれば、2003年度(4月から翌年3月)に日帰り客91万1千人、宿泊客152万8千人、計239万9千人の観光客が訪れ、宿泊客のうち3万6902人が外国人であった。また、354校が修学旅行で訪れた[1]。2006年度には、3年ぶりに240万人の観光客が訪れ、前年比110.9%となった。外国人客も7万人、前年比138%と寄与している。
目次 |
[編集] アクセス
1920年より1969年までは定山渓鉄道が運行されていたが、現在は路線バスと一部の都市間バスが乗り入れている。
[編集] じょうてつバス
- 8 定山渓線・豊平峡温泉線
- 札幌駅前 - すすきの - 石山中央 - 定山渓温泉 - 定山渓車庫
- 一部の便は豊平峡温泉まで延長運転。
- 12 真駒内線
- 真駒内駅前 - 定山渓温泉 - 定山渓車庫
[編集] 道南バス
[編集] 泉質
[編集] 温泉街
温泉は豊平川の川底から湧いており、その川沿いに温泉街が広がる。2005年現在ホテル17、公共宿泊施設7があり、他に会社などの保養所も多い。
河童にまつわる話が残ることから、街路に多数の河童の像が置かれている。足湯、手湯はそれをモチーフにしている。
周囲にはスキー場がいくつかある。
また、温泉街から少し離れた国道沿いにある定山渓小学校の敷地内には、定山渓郷土博物館があり、美泉定山や温泉の歴史、定山渓鉄道に関する資料や昔の生活道具などが展示されている。
なお、温泉街から札幌国際スキー場を経由して小樽市の朝里川温泉方面に向かう道路の途中には、小樽内川を堰き止めて作られた定山渓ダムと人造湖のさっぽろ湖があり、同ダム下流側の園地には定山渓ダム資料館もある。また、豊平川上流の豊平峡には、豊平川を堰き止めて作られた豊平峡ダムと定山湖があり、豊平峡ダムには、豊平峡ダムミュージアム(愛称: 「ひふみみはなめ」)が併設されている他、豊平峡ダムの近くには、展望台とレストハウスも設置されている。さらに、豊平峡ダム周辺には、札幌市定山渓自然の村もある。
近隣には、薄別(うすべつ)温泉(国道230号を札幌都心部と逆方向に進むとある。1軒宿の高級温泉旅館がある)、豊平峡温泉(定山渓から豊平峡ダムへ向かう途中にある)、小金湯温泉(定山渓から札幌都心部へ向かう途中にある)などの温泉もある。場合によっては、これらの温泉を定山渓温泉と併せて扱うこともある。
[編集] 歴史
この地の温泉の存在は古くからアイヌ民族に知られていた。江戸時代には、松浦武四郎が旅行中に川の中に湧く温泉に入ったことを記しており、定山渓温泉のことと知れる。慶応2年(1866年)に小樽でこの温泉のことを知った僧美泉定山が小さな小屋を作って温泉宿とした。札幌に新しい北海道の首府を建設していた開拓使判官の岩村通俊は、定山の求めを容れて1871年(明治4年)に温泉地を訪れた。岩村はここに休泊所と浴槽を作らせ、湯守の定山に米を給与した。同年本願寺街道の検分の折りにここを訪れた東久世通禧開拓長官が、常山渓と命名し、これが後に定山渓に変化した。しかし、1874年(明治7年)7月に定山への給与は打ち切られた。当時は札幌の人口が少なく、温泉は経営的にほとんど成り立たなかった。
1877年(明治10年)に定山が死んだ後、1880年(明治13年)に佐藤伊勢造が温泉の経営を引き継いだ。客が少ないことは変わらず、周りに畑を開き、川で魚を得て生計を立てた。しだいに客が増え、1886年(明治19年)に高山今朝吉が高山温泉を開き、さらに後に鹿の湯温泉ができた。
1914年(大正3年)に豊羽鉱山の開発が始まると、定山渓温泉の本格的な開発がはじまった。温泉宿は改築され、新築の旅館も増え、その他の店や家も増加した。鉱山開発に伴って定山渓鉄道が1918年に開通した。それまで一日がかりで山道を歩いた苦労がなくなり、1929年(昭和4年)には所要一時間を切って日帰りもたやすくなった。この交通の便を得て定山渓温泉は札幌の奥座敷としての地位を確たるものにした。好景気のきっかけになった豊羽鉱山は1920年(大正9年)にいったん休山したが、温泉街と鉄道は互いに支えあって順調に発展した。
定山渓温泉の利用客は、戦時中と戦争直後に激減した。戦後にホテル(鹿の湯)を接収した進駐軍は、1947年(昭和22年)に建物を不審火で全焼させて去っていった。
札幌市の戦後の急成長にともなって温泉街は回復した。1965年(昭和40年)に、定山渓観光協会は漫画家おおば比呂司の助言で河童をモチーフにした街づくりを始めた。かっぱ音頭を作り、かっぱ祭りを催し、そのために河童の伝説を創作した。豊平川の淵に身を投げた青年が、後に親の夢枕に立ち、自分は河童と結婚して沈んだのであり、今も幸せに暮らしていると告げたというものである。これ以後河童は定山渓のシンボルとなった。
札幌市の奥座敷という位置づけもあり、多くのホテルが一昔前の「宴会を行う団体客向け」の構造となっている。このため、個人客が主流となった現在の旅行形態とミスマッチを起こしており、各ホテルは経営に苦心している。こうした流れを打開するため21世紀に入る頃から、海外からの団体観光客を積極的に受け入れるようになった。台湾・香港・大韓民国からが主である。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 札幌市教育委員会編『定山渓温泉』(さっぽろ文庫59)、1991年。

