昌徳宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 昌徳宮 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 창덕궁 |
| 漢字: | 昌德宮 |
| 平仮名: (日本語読み仮名) |
しょうとくきゅう |
| 片仮名: (現地語読み仮名) |
チャンドックン |
| ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
| ラテン文字: | Changdeokgung |
![]() |
昌徳宮の建造物群 |
| 秘苑 | |
| (英名) | Changdeokgung Palace Complex |
|---|---|
| (仏名) | Ensemble du palais de Changdeokgung |
| 登録区分 | 文化遺産 |
| 登録基準 | 文化遺産(ii)(iii)(iv) |
| 登録年 | 1997年 |
| 拡張年 | |
| 備考 | |
| 公式サイト | ユネスコ本部(英語) |
| 地図 | |
![]() |
|
昌徳宮 (チャンドックン、しょうとくきゅう、창덕궁、Changdeokgung)は韓国ソウル特別市に所在する李氏朝鮮時代の宮殿。1997年に「昌徳宮の建造物群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
目次 |
[編集] 概要
正宮である景福宮に対する離宮[1]として創建された。現在の韓国国内の宮殿の内、最も原形を残す宮殿であり、17世紀始めの面影を残している。日本の梨本宮家から嫁ぎ、大韓帝国最後の皇太子李垠の妃となった李方子(まさこ)もこの宮殿で暮らした。
正門にあたる敦化門(トンファムン)は大韓民国最古の門といわれる。また、敦化門をくぐった先にある錦川橋は大韓民国最古の橋とされる。儀式の執り行われた正殿の仁政殿(インジョンジョン)、国王が執務をしていた宣政殿(ソンジョンジョン)、王と王妃の寝殿だった大造殿(テジョジョン)など13棟の木造建築が現存している。宮殿の北に広がる李朝時代の王朝庭園である後苑は秘苑(ビウォン)とも呼ばれ、園内には多くのあずまやや人工池などがあり、韓国造園技術の極致といわれる。現在のものは1623年に再建された景観である。
[編集] 歴史
1405年に、景福宮の離宮として創建され、李氏朝鮮第9代成宗が正宮として使用している。
日本の豊臣秀吉による文禄の役(1592年)では、国王の宣祖が漢陽(ソウル)から逃亡すると、豊臣秀吉軍の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり景福宮や昌慶宮、付属する庭園(秘苑)などと共に焼失した[2][3]。その後、1611年に光海君によって正宮として再建されている。
王朝末期の1868年に景福宮[4]が再建されると、昌徳宮は再び離宮として使用された。1907年に純宗が朝鮮の国王に即位すると純宗の宮殿として使用され、1910年の日韓併合後も李王となった純宗の住まいとなった。その後朝鮮総督府により改変されている。
1997年「昌徳宮の建造物群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
[編集] 建築
- 敦化門 - 昌徳宮の正門(大門)、1412年当初の建築
- 錦川橋 - 仁政門の前にある石橋
- 仁政門 - 仁政殿に入って行く大門
- 仁政殿 - 昌徳宮の中心的な場所で宮内外の公式行事が執り行われた
- 宣政殿 - 王と臣下が議論をしたり、儒生の試験会場や宴会の場となるなど公式の執務の場であった
- 熙政堂 - 王の日常生活の場
- 大造殿 - 王妃の生活空間
- 御車庫 - 王と王妃が使った自動車とお御輿を保管している場所
- 楽善斎 - 王の妾や女官が余生を送った目立たない場所
- 水辣間(スラッカン) - 王室の台所[5]
- 後苑 - 秘苑と呼ばれ韓国の代表的な庭園
- 金虎門 - 昌徳宮の西門
[編集] 登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
- (ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
- (iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または少なくとも稀な証拠となるもの。
- (iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。
[編集] 観光
以前は自然保護のため、ガイド付きツアーの時間のみ見学可であったが、現在は毎週木曜日が自由見学日となっている。日本語ガイドは1日4回(夏期は5回)あり、当日に正門脇で入場券を購入すれば参加できる。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 正宮が火災などに遭った際、王が移り住む宮殿
- ^ 朝鮮王朝の正史『朝鮮王朝実録(宣祖修正実録)』には民衆によって略奪・放火されたと明記されており[1]、李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』にもその時の様子が記されている。因みに日本側記録『大徳寺文書』では国王が内裏に放火して逃亡したとある。いずれにせよ日韓双方の記録が秀吉軍の入城を前に消失したとしている。したがって一部に存在する日本の小西行長勢によって放火されたとする主張は誤りである。
- ^ http://www.studyinkorea.go.kr/jp/travel_01.htm 国際教育振興院-旅行情報-ソウル-昌徳宮
- ^ 景福宮は正宮として再建されるまで約270年以上にわたり放置されたままであった
- ^ 西洋式で、近代に改築されたらしい
[編集] 外部リンク
- 昌徳宮の建造物群 (英語)
- 昌徳宮と後苑 - 韓国観光公社公式サイト (日本語)
- 昌徳宮案内 (日本語)
- 宮殿の歴史 (日本語)
|
|||||



