ガブリエル・バティストゥータ
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| ガブリエル・バティストゥータ | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 本名 | ガブリエル・オマル・バティストゥータ | |
| 愛称 | 獅子王、バティ、バティゴル | |
| ラテン文字 | Gabriel Batistuta | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1969年2月1日(39歳) | |
| 出身地 | サンタフェ | |
| 身長 | 185cm | |
| 体重 | 73kg | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | FW | |
| 利き足 | 右足 | |
| 代表歴 | ||
| 1991-2002 | 78 (56)
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ガブリエル・オマール・バティストゥータ(Gabriel Omar Batistuta、1969年2月1日 - )は、アルゼンチン・サンタフェ出身の元同国代表、元サッカー選手。ポジションはフォワード。ニックネームは獅子王、バティ、バティゴル(バティゴール)。
1990年代を代表するフォワードの一人。長くイタリア・セリエAで活躍し、セリエAの外国人最多通算得点記録を保持。 またアルゼンチン代表歴代得点記録保持者でもある。 家族は妻と4男。
目次 |
[編集] 人物
[編集] 愛称
よく使われる愛称はバティ(Bati)。バティゴル(Batigol)[1][2][3]。その他にも荒ぶるその容姿からレ・レオーネ(Re leone = 獅子王)とも言われる。少年期には太り気味だったことからエル・ゴルド( Gordo = でぶ)と言われたこともある。
[編集] フィレンツェの英雄
1991年、イタリア・フィレンツェの人気クラブ フィオレンティーナに移籍したバティストゥータは、その年のシーズン開幕当初こそ出場機会に恵まれなかったが、低迷するクラブを立て直すべく途中就任したルイジ・ラディーチェ監督によりレギュラーに抜擢されると得点を量産、移籍初年度に確固たる地位を築く。
1992-1993シーズンにフィオレンティーナは思うような成績を上げられずセリエBに降格してしまうが、バティストゥータはフィオレンティーナに留まり翌年の再昇格へ大きな役割を果たす(バティストゥータのような世界的な選手が2部リーグでプレーする事は珍しい)。その後1994-1995シーズンにはセリエA得点王、1995-1996シーズンにはチームのコッパ・イタリア優勝に貢献、フィオレンティーナへの献身がファンの心を掴んだ。最終的には合計9シーズンをフィオレンティーナで過ごし269試合出場・167ゴールと言う結果を残した彼はフィレンツェの英雄と称えられ、フィオレンティーナのファンは本拠地アルテミオ・フランキの前に銅像を建てた。
2000年にASローマへ移籍。フィオレンティーナのファンは悲しみ、また憤りのあまり彼の銅像を破壊してしまった。この移籍はバティストゥータ自身がフィオレンティーナでは成し得なかったスクデットをどうしても獲得したかったことと、多額の移籍金(約40億円、当時セリエA史上2番目の高額)によりクラブが断りきれなかった事が理由であり、彼自身、フィオレンティーナへの愛は不変である事を公言している。
ローマへの移籍初年度にオリンピコでフィオレンティーナと対戦した際には同点で迎えた終了間際に彼らしい豪快なミドルシュートで決勝点となる劇的なゴールを奪ったが喜びの感情を表すことはなく、チームメイトに祝福される輪の中で見せた俯いたままの哀しげな表情は彼のフィオレンティーナへの愛着を表すシーンとして、そしてスクデットを獲得したチームに数々のゴールによって最大限に貢献した彼の献身を象徴する試合として、その年のハイライトシーンとなった。 後のフィオレンティーナとの対戦では彼本来の実力を発揮する場面は少なかった。また、キャリアの最後はフィオレンティーナでプレーしたいと述べるなど、フィオレンティーナへの変わらぬ愛情を示している。
2005年3月13日に現役引退を表明。静かにそのキャリアの幕を閉じたが、引退声明文の中で「今後も違う形でサッカーに関わっていく」と述べられており、今後は彼のサッカー界におけるピッチ上以外での活躍が期待される。
[編集] 日本での評価
1998年に日本代表が初めて出場したフランスW杯において、日本が初戦で対戦したアルゼンチン代表の当時のエースで、決勝点を決めて日本のワールドカップ初失点と初の敗北を演出したことや、日本人として初めてセリエAで優勝を経験した中田英寿とチームメイトであった事などから、日本でもよく知られた選手である。
[編集] プレースタイル
爆発的なシュート力とエリア内での相手の視界から消える巧みなポジショニング、強靭なフィジカルを生かしたヘディングでゴールを量産する。セリエAの外国人最多通算ゴール数を誇り、しかもそのほとんどをそこまで強豪ではないヴィオラで成し遂げた事からマルコ・ファン・バステンより評価する者も多い。
その強烈過ぎるシュートと大柄な体格から力強さが印象に強く残るが、コースを狙った技巧的なフリーキックやループシュートでゴールを決める事も多い。
ゴールパフォーマンスには、フェンスへよじ登りバットマンのまね・コーナーフラッグを掴む・マシンガンポーズなどがある。
豪快なシュートは一流GKでも腕一本では止めることが出来ず、事実何度も腕ごと弾き飛ばしてゴールとなることが何度もあった。そのゴールをファンは「バティ・ゴール」と呼び讃えた。日本では漫画の「キャプテン翼」を現実に再現したと称され、「翼くんゴール」などと呼ばれた。
[編集] 略歴
- 2月1日 アルゼンチンのサンタフェに生まれる。
- このころ(9歳)はサッカーよりバスケットボールに興味があったが、地元開催のW杯アルゼンチン大会で、当時のアルゼンチン代表のエース・マリオ・ケンペスのプレイを見たことでサッカーへの興味を膨らませる。
- 17歳にしてようやくバスケットボールからサッカー選手へと本格的に転向、地元のクラブ レコンキスタ・サンタフェと契約。ちなみにこの頃までは将来は医者を志していた。
- ニューウェルス・オールドボーイズへ移籍。
- 1987-1988シーズン、ニューウェルス・オールドボーイズでリベルタドーレス杯準優勝。
- アルゼンチンの名門リーベルプレートに移籍。しかしこのころのバティストゥータは特別優れた選手ではなく才能は伸び悩んでいた。
- 1989-1990シーズン、リーベルプレートでアルゼンチン選手権優勝。
- シーズン終了後に、同じブエノスアイレスに本拠を持つ強豪でありリーベルプレート最大のライバル、ボカ・ジュニオルズに移籍。ストライカーとして頭角をあらわす。
- 1990-1991シーズン、ボカ・ジュニオルズで19試合で11得点を叩き出し、アルゼンチン国内で一躍スターになる。
- 6月27日 ブラジル・クリチバで行われた対ブラジル戦でアルゼンチン代表デビューを飾る。
- コパ・アメリカ チリ大会。6ゴールを挙げアルゼンチン代表を優勝へ導く。また、個人タイトルとして得点王も獲得。一躍世界的なプレイヤーとしてブレイクを果たす。
- 夏 イタリアのフィオレンティーナへ移籍。シーズン開幕当初、フィオレンティーナではサブプレイヤーとしての扱いだったが、ラザロニ監督の辞任に伴い就任したラディーチェ監督に見出されレギュラーの地位を手に入れる。
- 1991-1992シーズン、セリエAでの1シーズン目を27試合出場13ゴールと言う好成績で終了。
- 1992-1993シーズン、フィオレンティーナは低迷、セリエB降格となる。それに伴いバティストゥータも移籍が取りざたされたがチームに残留。
- コパ・アメリカ エクアドル大会。決勝戦での2ゴールなど、アルゼンチンの大会2連覇に貢献する。
- 1993-1994シーズン。フィオレンティーナの1シーズンでのセリエA復帰に貢献。
- W杯アメリカ大会。ギリシャ戦でハットトリックなどの活躍で大会4ゴール(チーム内得点王)。チームは強豪アルゼンチンとしては不本意なベスト16の成績。
- 11月27日 対サンプドリア戦。セリエAに復帰したフィオレンティーナで1994-1995シーズン開幕11試合連続ゴールのセリエA新記録を達成(それまでの記録はエンツォ・パスクッティの開幕10試合連続ゴール)。
- 1994-1995シーズン。マヌエル・ルイ・コスタとのコンビが冴え渡り、26得点を挙げセリエA得点王となる(アルゼンチン人としてはディエゴ・マラドーナ以来2人目)。
- コパ・アメリカ ウルグアイ大会。チームは優勝を逃すがバティストゥータ自身は得点王となる。
- 1995-1996シーズン。バティストゥータとフィオレンティーナは好調を維持。リーグを4位で終える。また、コッパ・イタリア優勝を達成する。
- W杯フランス大会の南米予選で当初バティストゥータはダニエル・パサレラ監督に出場機会をあまり与えられていなかったが、最終的には実力を認められレギュラーとして代表に復帰する。
- W杯フランス大会。初戦はW杯初出場である日本戦。彼はここで1点を決め勝利に貢献するとともに、日本のW杯初失点で日本人の記憶にも深く名を残す。また、ジャマイカ戦ではW杯記録となる(1994年大会と続いての)2大会連続のハットトリックを決める。大会を通じてバティストゥータは5ゴール(チーム内得点王)。チームはベスト8の成績。
- 1998-1999シーズン前半戦、17試合で17ゴールの大活躍。
- 1998-1999シーズン後半、チームの好調とともに得点王レースの首位を走っていたバティストゥータだがリーグ終盤に左足の怪我を負ってしまい、最終節に得点を挙げたウディネーゼのマルシオ・アモローゾに追い抜かれ2度目の得点王を逃す。
- 2000-2001シーズン、移籍1年目で20ゴールの活躍をし。ローマの1983年以来18年ぶりのセリエA優勝に貢献。バティストゥータ自身としては悲願であった初のリーグ優勝である。
- W杯韓国・日本大会 南米予選では、マルセロ・ビエルサ監督がバティストゥータとエルナン・クレスポを決して同時起用することがなく、2人のレギュラー争いが話題となる。
- W杯日本大会。アルゼンチン代表のエースとして参加するが、バティストゥータは1得点しか挙げられず、チームはグループリーグ敗退。バティストゥータはアルゼンチン代表からの引退を宣言。
- 1月 セリエAのインテルへ移籍。これは、それまでインテルのエースストライカーであり、バティストゥータにとっては因縁の相手でもあるエルナン・クレスポの怪我に伴うものである。
- 現役引退を表明
引退後オーストラリアのパースに移住。Aリーグに参加しているパース・グローリーFCのアドバイザーをしていると言われている[要出典]。
[編集] 所属クラブ
- 1986年-1987年
レコンキスタ・サンタフェ - 1987年-1989年
ニューウェルズ・オールドボーイズ - 1989年-1990年
リバープレート - 1990年-1991年
ボカ・ジュニアーズ - 1991年-2000年
フィオレンティーナ - 2000年-2003年
ASローマ - →2003年
インテル(loan) - 2003年-2004年
アル・アラビ
[編集] 代表歴(国際大会)
- 1991年 コパ・アメリカ チリ大会 (成績:優勝) (個人タイトル:得点王)
- 1993年 コパ・アメリカ エクアドル大会 (成績:優勝)
- 1994年 W杯アメリカ大会 4試合出場4得点 (成績:ベスト16)
- 1995年 コパ・アメリカ ウルグアイ大会 (個人タイトル:得点王)
- 1998年 W杯フランス大会 5試合出場5得点 (成績:ベスト8)
- 2002年 W杯日本大会 3試合出場1得点 (成績:グループリーグ敗退)
代表通算キャップ:78試合 得点:54得点
[編集] タイトル
[編集] クラブ
- セリエA(ローマ) 2000-2001
- コッパ・イタリア(フィオレンティーナ) 1995-1996
- セリエB(フィオレンティーナ) 1993-1994
[編集] 代表
- コッパ・アメリカ 1991、 1993
- FIFAコンフェデレーションズカップ 1992
[編集] 個人
- セリエA得点王(フィオレンティーナ) 1994-1995
- カタール・リーグ得点王(カタール・リーグ新記録樹立:24得点) 2003-2004
- アラブ圏ゴールデンブーツ賞 2003-2004
- コッパ・アメリカ得点王 1991
- FIFAコンフェデレーションズカップ得点王 1992、1995
- アルゼンチン代表歴代最多得点記録
- セリエA 連続試合得点記録(11試合連続得点)
- FIFA100
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人
[編集] 語録
「そこにゴールがあるから蹴るんじゃない、俺が蹴るからゴールがあるんだ」
[編集] こぼれ話
小さな頃からバスケットボールが大好きで、将来の夢はバスケットボールのアルゼンチン代表としてオリンピックに出場することだったそうだ。その一方で学業でも優秀な成績を収め医者を志しもした。
[編集] 脚注
- ^ "Batigol". Marca.com. 2007年10月26日 閲覧。
- ^ "MUNDIAL 2002 - ARGENTINA". elmundo.es. 2007年10月26日 閲覧。
- ^ "¿Y cómo te llaman? (III)". FIFA.com. 2007年10月26日 閲覧。
[編集] 外部リンク
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