福岡市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

福岡市
ふくおかし
日章旗 日本
地方 九州地方
都道府県 福岡県 
団体コード 40130-7
面積 340.96km²
総人口 1,437,718
推計人口、2008年10月1日)
人口密度 4,220人/km²
隣接自治体 福岡県
大野城市春日市前原市志摩町
那珂川町宇美町粕屋町志免町
新宮町久山町

佐賀県
佐賀市神埼市吉野ヶ里町

市の木 市の木:クロガネモチ
広場の木:クスノキ
(1979年10月制定)
市の花 夏の花:フヨウ
冬の花:サザンカ
(1979年10月制定)
市の鳥 野山の鳥:ホオジロ
海の鳥:ユリカモメ
(1989年6月制定)
福岡市役所
所在地 〒810-8620 福岡県
福岡市中央区天神一丁目8番1号
電話番号 092-711-4111
外部リンク 福岡市役所

福岡市位置図(福岡県)

:政令指定都市 / :市 / :町・村

福岡市行政区画図

特記事項:
福岡市旗
テンプレート (ノート 解説) 日本の市町村PJ

福岡市(ふくおかし)は、九州の北部、福岡県の西部に位置するである。福岡県の県庁所在地であり、政令指定都市となっている。

目次

[編集] 概要

人口約144万人(2008年現在)を抱えており、名実共に九州第一の都市である。商業都市としての性格が強く、古くから商業がたいへん栄えている都市で、多くの官公庁の行政機関や全国企業の支社などが置かれており、商業・業務等の高度な都市機能や広域交通機能の集積を背景に九州地方の中枢管理都市として発展してきた。東京特別区を含む都市の人口では全国で8位であり、また福岡市周辺には都市雇用圏人口で全国第5位の規模を持つ福岡都市圏を形成する。百貨店、大型ファッションビル、地下街などがある天神が商業の中心地区であり、1990年代からは大名など天神の周辺地区にも多くの店舗が進出している。また、天神の東方にキャナルシティ博多博多リバレイン川端通商店街などがある川端という繁華街もある。その集客力は広域に及び、佐賀県長崎県大分県熊本県山口県などが商圏に含まれていると言われている。さらに夜の街では全国的に有名かつ歓楽街の規模も指折りに入る中洲があり、中洲以外にも博多区に雑餉隈という歓楽街がある。ビジネスの中心エリアは天神地区よりも博多部の博多駅周辺や祇園駅周辺に集積しており、大博通り沿いには多くのオフィスが立ち並んでいる。

福岡市は天神・博多駅周辺の都心部を中心として西に西新地区、東に香椎地区、南に大橋地区の3地区をそれぞれ副都心として位置付けている。特に西新や香椎は小規模な繁華街を形成しており、さらに多数の学校や大学が位置し活気ある街として発展している。この副都心群は住環境に優れ、都心部へのアクセスが良いとして住民も増加傾向にある。なお、福岡市は人口100人あたりの学生数が6.47人で、これは日本の大都市では京都市についで2番目に多い[1]

市の規模に対して犯罪率(認知件数÷人口)は3.3%と高めであり、治安が良いとは言えないのが現状である。(ちなみに、他の主要都市の犯罪率は札幌市2.0%、横浜市2.1%、東京23区2.4%、名古屋市3.8%、大阪市4.2%である)[2]

福岡市以外の地域の人は福岡市の事を指して「博多(はかた)」と呼ぶことがある。これは、中世より現在の博多区西北部にあった街が「博多」という名前で認識されていたことや、山陽新幹線の終着駅が「博多駅」であり、ビジネスでも福岡へ出張することを「博多に行く」と呼んでいた程、博多という名前が浸透していたからである。「福岡」は江戸時代に現在の中央区に福岡城を築いた際にその城下町を「福岡」と名づけたのが由来である。歴史的にも、明治22-23年に福岡市にするか博多市にするか、議会で議論されていたくらいである。又、福岡と博多をあわせて「福博」と呼ばれることもある。

[編集] 地理

鴻巣山(南区)より福岡市街地を望む

[編集] 位置

九州の北部、日本海博多湾今津湾玄界灘)に面した半月型の福岡平野の大半の部分を市域とする。北は博多湾の北辺に位置する砂州である海の中道陸繋島である志賀島、西は糸島半島の東部まで市域となっている。南・南西は脊振山地に含まれる山間部まで市域が伸びており、佐賀県に接している。ほかに有人島嶼として、博多湾上の能古島や市の西部で博多湾口付近の玄界灘上に浮かぶ玄界島、そのさらに西北部にある小呂島を市域に含んでいる。

福岡市から壱岐対馬を挟んで向かい側に朝鮮半島がある。日本の主要都市としては朝鮮半島や中国などの東アジア諸国・地域に最も近い都市で、直線距離では東京特別区から約1100km、大阪市から約550km、韓国釜山広域市から約200km、同国の首都・ソウル特別市から約550km、中国上海市から約900km、台湾台北市から約1300kmの位置である。

[編集] 地形

市域の多くは福岡平野に含まれており、一部に小高い山なども存在するものの概ね平坦である。市域西部・西南部は脊振山地の一角を成しており、標高が高く起伏の大きい地形となっている。 市街地の海岸部は大半が埋立地であり、港湾・住宅などが建設されている。また、博多湾東部には人工島も建設されている。一方、西区の大部分や東区海の中道と島嶼部などには自然海岸も残っている。

市内を流れる河川としては、市域中心部を流れる那珂川御笠川や市域東部を流れる多々良川、市域西部を流れる室見川などがあるが、一級河川はない。

長大河川はない一方で、前述のとおり平野周辺の山地から短い河川長とやや急な勾配で博多湾に流れ込む河川はおおむね市街地を経由しているため、集中豪雨があった場合に氾濫しやすく、それが福岡平野を形成したと見られるが、現代において都市治水上の課題となっている。

[編集] 気候

地形や海流が複雑に影響しあい、温暖で夏期において多雨な太平洋側気候の一面を見せつつ、冬場においては日本海側気候の一面も見せる二面的な気候が特徴である。年平均気温は概ね17℃前後、年間降水量は概ね1500~2000mm程度で推移している。

夏期は最高でも36℃に達することは少なく、九州の他地域と比べると極端な猛暑とはなりにくい。ただし、都市化によるヒートアイランド現象により周辺部より気温が高い場合がある。冬期は北側の玄界灘を流れる暖流である対馬海流の影響を受けるので、平野部においては最高気温が零下となることは少ないが、北西季節風の影響を受けるため曇天の日が多い日本海側気候の特徴を見せる。

年間日照時間は概ね1800~1900時間程度にとどまっており、九州の他地域に比べてやや短い。

[編集] 行政区

赤:東区、緑:博多区、青:中央区、黄:南区、橙:城南区、黄緑:早良区、紫:西区

以下の7つので構成される。

[編集] 市街地構成

シーサイドももち
福岡タワーより南東を望む(2008年8月20日撮影)

市の中央部にある天神地区(中央区)が市の中心部で、ここには数多くのデパートやビルが建ち並んでいる。天神から那珂川を挟んだ東隣には那珂川の本流と支流(博多川)に挟まれた中州地形部分があるが、そこが九州最大の歓楽街である中洲である。そのさらに東隣は「博多」の市街地である。その博多市街地の南東に博多駅が位置している。中洲から博多駅の間の一帯はオフィスビルやビジネスホテルなどが建ち並ぶビジネス街である。天神地区の西および西南に位置する大名、今泉、警固では、1990年代後半ごろから主に若者をターゲットとした店舗が増え、若者の町として急速に発展している。

大名から西へ行くと福岡城跡がある。さらに西方、天神から約4kmの位置には、福岡市の副都心を成す繁華街の西新(早良区)がある。西新の北側は1980年代に埋立により開発された土地で、シーサイドももちと呼ばれ、新しい市街地が形成されている。

市域東部の博多湾沖にはアイランドシティ(東区)と呼ばれる人工島が建設されている。現在は港湾地区の一部と住宅地の一部が竣工している。将来は宅地開発による発展が期待されている。

このほか、香椎駅西鉄香椎駅周辺の香椎地区(東区)や、福岡市地下鉄姪浜駅周辺の姪浜地区(西区)、西鉄大橋駅周辺の大橋地区(南区)にも商業地が発達している。

[編集] 「福岡」と「博多」

都市名は「福岡」であるが、中央駅名は「博多」を称する。「福岡」を称する駅は、西鉄天神大牟田線西鉄福岡(天神)駅がある。また、福岡を称する駅として当市外では富山県高岡市(旧西礪波郡福岡町)にJR西日本北陸本線福岡駅がある。

福岡は福岡藩黒田氏の武家町、博多は古来から国際貿易港としての商人町として栄えた歴史があり、那珂川を境として元々は別々の都市であった。市制施行の際に一悶着があったが、都市名を福岡、中央駅名を博多にすることで合意(詳しくは歴史で後述)。新幹線開通時は博多が玄関口となり、博多の知名度が大きく上回ったが、今日では城下町のはずれに位置した天神地区の台頭もあり、かつての「福岡」が商業の街、「博多」がビジネス街となった。こうしたことから「博多」より「福岡」という名称で呼ばれることが多くなり、博多は都市内の一地区名でしか用いられないことが多くなった。 ただし、現在の中心部の天神地区の繁華街としての発展は、戦後旧博多部から現在の新天町に移った「博多商人」の力なくしてはあり得ない。ことに明治時代、時の博多豪商「渡辺与八郎」の尽力により、他の都市に遅れを取っていた市内電車の導入を果たし、当時多くを所有していた天神町付近(現在の天神)の土地を福岡市に寄付し、福岡市の発展に力を注いだ。そしてその功績を称え、福岡市の中心部を南北に貫く目抜き通りは「渡辺通り」と称している。市名は福岡ではあるが、その発展の基礎の多くは博多が作り出したと言っても過言ではない。

[編集] 隣接する自治体

以下の各市町に隣接している。括弧内は、その市町が隣接している福岡市の行政区。

隣接市町のうち、福岡県に属している市町は、いずれも福岡市のベッドタウンとして発達している。しかし、佐賀県に属している市町は福岡市とは脊振山地によって隔てられており、ベッドタウンとして発展するには至っていない。

2005年10月1日に佐賀県内の佐賀市と佐賀郡諸富町大和町富士町神埼郡三瀬村が合併し、新市制による佐賀市が誕生したことで、県境を挟んで県庁所在地同士が接することになった。

海を挟んだ長崎県壱岐市対馬市とも隣接扱いされる事もある。電話料金は離島特例として隣接扱いである。

[編集] 人口

福岡市と全国の年齢別人口分布図(比較) 福岡市の年齢・男女別人口分布図
紫色は福岡市
緑色は日本全国
青色は男性
赤色は女性
1980年 1,088,588人
1985年 1,160,440人
1990年 1,237,062人
1995年 1,284,795人
2000年 1,341,470人
2005年 1,401,279人
総務省統計局 / 国勢調査2005年

[編集] 歴史

[編集] 原始

諸岡遺跡(博多区)や吉武遺跡(西区)から旧石器が出土しており、旧石器時代には既に人々が住み着いていたと考えられる。

縄文時代の遺跡としては、糸島半島東部の大原D遺跡(西区)で縄文時代早期の竪穴住居が見つかっているほか、柏原遺跡(南区)からは草創期から後期の土器や集石炉が見つかっている。中期の遺跡として、野多目拈渡遺跡(南区)や有田遺跡(早良区)からイチイガシなどのドングリ類の貯蔵穴がまとまって見つかっている。後期の遺跡では、元岡瓜尾貝塚、桑原飛櫛貝塚(いずれも西区)などの貝塚があり、四箇遺跡(早良区)からは多数の縄文土器や石器が出土している。

紀元前4世紀には日本最初期の稲作が始まり、市内の板付遺跡(博多区)にはその跡が残る。また志賀島(東区)で発見された金印倭奴国王印」は、1世紀頃の大陸文化との交流を示す貴重な資料である。後漢書東夷伝にある「建武中元二年(西暦57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」の記事にある印綬は、この金印のことだと考えられている。

ちなみにこの「中国に朝貢していた」という記録が金印の発見時にひとつの騒動を起こす。天明4年(1784年)に百姓甚兵衛により金印が発見されたとき、主として国学系の学者たちが「中国に朝貢していたとはけしからん。このようなものは鋳つぶしてしまうべきである」と強硬に主張し、一時、福岡藩の藩論もそちらに傾くのである。それを、藩校・甘棠館の学長をしていた儒学者亀井南冥が身体を張って阻止したという。

市内各地に古墳が残っており、平野部には那珂八幡古墳東光寺剣塚古墳梅林古墳今宿大塚古墳などの前方後円墳が点在し、油山などの丘陵部には油山古墳群、金武古墳群、今宿古墳群などの円墳の分布地帯がある。

[編集] 古代

663年、百済再興を目論んで派遣した倭国軍が、白村江の戦いにて唐、新羅軍に大敗北を喫する。唐、新羅連合軍の報復に備えた大和朝廷は、その守りとして博多湾岸に防人を配し、水城大野城などの城砦を築く。これより後、全国から徴発された若者が防人として北部九州に配備され、故郷を遠く離れて軍務に就く辛さと哀しみを詠い、万葉集に残されている。

史実であるかどうかは定かではないが、神功皇后三韓征伐伝説がこの地には多く残る。東区香椎の香椎宮は、神功皇后が夫である仲哀天皇の神霊を祀ったところである。

7世紀から11世紀にかけては、国際交流が盛んになり、665年には筑紫館(つくしのむろつみ、つくしのたち)が建設され、これが後に大宰府の迎賓館となる鴻臚館(こうろかん)となった。外国からの使節の接待、遣唐使などの送別といった迎賓館としての機能に加えて、貿易事務所、検疫所的な役割も果たしていたらしい。鴻臚館遺跡は1988年に当時の平和台野球場の外野席の土盛りの下から発見され、市民を驚かせたのだが、奈良時代は目の前が海岸であり、使節の船は沖がかりして小舟で上陸した。

なお、遣唐使廃止の建白を行った菅原道真が901年に大宰府に左遷されたとき、博多に上陸し、四十川(よんじっかわ)の清流を水鏡として自らの姿を見、そのやつれようを嘆いたという。その地に建立されたのが水鏡天満宮(すいきょう・てんまんぐう)(水鏡天神)であり、福岡市の都心・天神の地名は、この事に由来する。

[編集] 中世

1161年には平清盛により日本初の人工港「袖の湊」が建設された。これは埋め立てにより埠頭を築いたもので、それだけの投資に見合う実需があったと考えられる。天神・博多部はまだ海の底であり、整備された港湾の沿岸部には筥崎宮住吉神社櫛田神社などの大きな寺社が立地していた。中世の寺社は、貿易の重要な出資者であり、博多の冒険商人たちのスポンサーであった。

11世紀の終わりごろから、博多にはのちに「大唐街」とよばれる中国人街が形成された。異国風の建物が建ち並び、多数の外国人商人が行き交う国際都市であった。この時代に博多で活躍した中国人商人に謝国明がいる。宋の時代(日本では平安後期~鎌倉時代)、中国大陸と博多を船団を組んで盛んに往来し、日中貿易で巨万の富を築いた中国人商人は、博多に居住して活発な商業活動を行い、博多の寺院とも結び、その力は中央にも及んで特に「博多綱首」と称されるに至った(「綱首」とは「船長」の意の尊称)。

国際都市・博多は先進文化の受け入れ窓口でもあった。1195年 栄西が博多に日本初の禅寺である聖福寺を開いたが、このときも博多綱首らが物心両面の援助をしている。栄西禅師は、中国からお茶を持ち帰り喫茶の習慣を日本中に広めたことでも知られるが、「饅頭(まんじゅう)」「饂飩(うどん)」などの日本人になじみ深い食物が日本に入ってきたのもこの時期の博多を通じてであった。

元寇
「蒙古襲来絵詞」より
しかしその反面、他国から侵略の被害にも遭っており、869年には新羅海賊が博多湾に侵入、1019年には刀伊の入寇があり、博多は常に対外的な脅威に曝されていた。その最大の脅威は、宋を滅ぼしてユーラシア大陸のほとんどを支配したモンゴルから来た。
高麗を屈服させた大元帝国クビライが日本の服属を求め、鎌倉幕府がこれを拒否したことから、1274年、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人などからなる3万人の元軍が襲来した(文永の役)。10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、平戸鷹島松浦党の本拠を全滅させた元軍は、元軍は10月19日には博多湾に現れ、湾西端の今津に停泊し一部兵力を上陸させた。
10月20日(太陽暦では11月25日)、船団は東に進み百道原つづいて博多、箱崎に上陸し、激しい地上戦が展開された。これは、日本が開国以来初めて経験した「日本本土における外国軍との交戦」である。御家人との戦いで矢を失った元軍は撤退する。
このときの経験を踏まえて幕府は博多湾岸に約20Kmにも及ぶ石築地を築いた。この史跡「元寇防塁」は現代にも残っている。そして、1281年に元軍が14万もの大軍で押し寄せてきたが、防塁で防衛力を固めた御家人はは撃退に成功する(弘安の役)。
そして博多湾上に浮かんだ元軍の船団に大暴風雨が襲いかかった。船団は海の藻屑となり、この大暴風雨は神仏の加護であるとして、神風伝説が発生することとなった。この日本を震撼させ鎌倉幕府衰亡のきっかけとなった二度の戦役を元寇と呼ぶが、元寇の恐怖の記憶は長く北部九州の民衆の中に語り継がれた。
ごく最近まで、玄界灘沿岸地方では、むずがる子どもに対して「ムクリコクリが来るぞ!」と脅していたという。ムクリ=蒙古、コクリ=高麗である。千年の時を閲してなお、恐怖の記憶は引き継がれていた。

また室町時代を通じて博多年行司と呼ばれる12人の豪商の会議によって市政が運営され、日本史上において初めての自由都市であった。は36人の会合衆によって市政が運営された)と並び貿易都市として繁栄するが、それゆえに戦国時代には戦国大名の争奪の対象となり、豊臣秀吉島津義久の戦いの際に島津軍によって焼き払われた。 九州平定後、1587年7月24日(天正15年6月19日)に筑前箱崎において豊臣秀吉バテレン追放令を発令した。

[編集] 近世

1587年からは九州をすべて服属させた豊臣秀吉により博多の復興がなされた。これを太閤町割と呼ぶ。交易の自由や、町人による街の自治が行われ、新たな自治都市が確立された。なお当時の博多とは、博多湾南岸の東西に渡る地域を指したものだった。このときの秀吉の意図には、文禄・慶長の役で出兵を行うにあたり、貿易都市・博多を物流の補給基地として活用しようというものがあったと思われる。

関ヶ原の合戦の後の1600年に黒田如水黒田長政親子が筑前国に入国し、その後市内中心部の那珂川から東を博多、西を福岡と呼び、そのまま定着した。黒田親子は、小早川秀秋の居城であった名島城(東区)に入城したが、名島城は博多湾に面した小高い丘の上にあるために城下町が作れなかった。そこで1601年から当時の警固村(現・中央区)福崎に新たな城・福岡城と城下町をつくった。

その際、出身地の備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)に由来して、城下町を福岡と命名した。黒田藩は博多のまちの自治を広く認めたため、町人の商業都市・博多と武士の行政都市・福岡が機能分担しつつ隣接するという、全国的にあまり類例のない「双子都市」が誕生した。

なお、歓楽街として有名な中洲は、博多と福岡の境界である那珂川の中州に江戸期に発達した。どちらにも属しているようで、どちらにも属さないという曖昧性が「悪所」としての歓楽街の発展に有利であったと考えられる。

江戸期を通じて福岡にはあまり華やかな歴史は残っていない。これは、鎖国政策により貿易都市としての機能を天領であった長崎(対西欧・中国貿易)と対馬府中藩(対朝鮮貿易)にすべて奪われたことが大きい。

なお、前述のとおり、天明4年(1784年)に志賀島金印が発見されている。まったくの偶然であるがこの同じ年、現福岡県立修猷館高等学校の前身である藩校修猷館(東学問稽古所)が開設されている。

[編集] 近代

その後、江戸時代から明治時代初期まで博多と福岡は共存していたが、1876年に地域区分の再編によって「福博」(ふくはく)という一つの地域区分とした。さらに1878年、郡区町村編制法の施行により福博が福岡区に改称され、「博多」を名乗る自治体は消滅した。

1889年に市町村制度の施行に伴い福岡区が市制を施行する際、市名を「博多市」にする、或いは福岡と博多を再分離する声も上がったが、いずれも実現せず、都市名は福岡市となった。市制施行のときの「名前争い」は深刻で、福岡派と博多派が互いに闇討ちをしあうという過熱ぶりであったという。第1回市議会は「名称問題」で紛糾し、採決したところ完全に賛否同数であり、最終的に福岡部出身の議長の裁決で「福岡」と決したものである。

明治のこの時点では、「福岡」と「博多」は別の地域という概念が強く残っていた。そのためちょうど同じ頃、当時の九州鉄道会社(後に国有化)が福岡市から現在の久留米市までの鉄道を敷設する際、市の中心駅は「博多」地区にあるということで駅名は福岡駅ではなく、博多駅となった。

なお「福岡駅」の名は、福岡市中央区天神に位置する西鉄の駅が名乗り、2001年には西鉄福岡(天神)駅と駅名が変更された。なお、1972年の政令指定都市昇格に伴い、行政区として「博多区」が設置され、ここにほぼ百年ぶりに「博多」の地名が復活することとなった。

町人の商業都市・博多と武士の行政都市・福岡は、ビジネス街・博多と繁華街商業地・福岡(天神)と所を入れ替え、九州最大の都市としてまたアジアの玄関口として、発展を続けている。

[編集] 年表

[編集] 原始~近代

[編集] 近現代

市制施行以後の行政区域の変遷については、「行政区域の変遷」を参照のこと。

[編集] 発祥

福岡市が発祥の地とされる事象には、極東アジア地域との文化交流や貿易によってもたらされたものが多い。

  • 日本における稲作農業の発祥の地
板付遺跡(博多区)から水田稲作の跡が発見されている。研究者によって異なるが、縄文時代晩期後半から弥生時代早期前半のものとされている。
なお、佐賀県唐津市菜畑遺跡からも同時期の水田遺構が見つかっている。
  • 日本における禅宗の発祥の地
  • 日本におけるの発祥の地
1191年(建久2年)、栄西が中国から帰国後に禅宗を布教。その帰国時に茶の種を持ち込み日本で栽培を始めたとされる。
どちらも鎌倉時代初期、中国に留学していた禅僧、円爾聖一国師)が帰国後に持ち込んだといわれる。
  • 日本における饅頭発祥の地
1241年(仁治2年)、円爾(聖一国師)が立ち寄った博多の茶店の主人、栗波吉右衛門に教えたのが最初とされる。
1921年(大正10年)、福岡女学院中学校・高等学校が採用。

[編集] 行政

[編集]